第7話
朝は、血の匂いから始まった。
焼け跡の灰がまだ温かい。内庭の隅には昨夜の怪物の死骸が積まれ、タムシンが薬草を噛み砕いて消毒の液を作っている。兵は寝不足の目で槍を磨き、民兵は震える手で矢を束ねた。
そして中央には、鎖で縛られた“人型”が膝をついたまま、時折、喉の奥で笑うような音を鳴らす。
セラフィナは王都印の書状を机に置き、オーウェンに言った。
「写しを二通。封をして別々に保管。――燃えても残るように」
「はい」
オーウェンはすでに“後で困らないための動き”が染みつき始めている。筆は震えない。震えるのは、心だけで十分だと分かってきたのだろう。
ルシアンが書状を一瞥し、短く息を吐く。
「ロゼンが来るなら、教会は本気だ。告示じゃない。狩りだ」
セラフィナは頷いた。
「狩りなら、獲物のふりはしない。――迎える準備をする」
マラが焚き火の向こうで足を組み、乾いた笑いを零した。
「迎えるって言うけど、審問官は“話”じゃなくて“罪”を持ってくる。あなたを罪人として固定するために」
「だから、固定させない材料を積む。今日、やることは三つ」
セラフィナは机上に指で線を引く。
「一、補給路の確保。二、砦内の秩序。三、証拠の保全」
ルシアンが眉を寄せた。
「補給路は商会頼みだ。今すぐ動けるのか」
「動ける。マラの“条件その一”は護送。なら護送を増やす」
セラフィナは門外の訓練場を指した。
「民兵訓練を“護送班”と“砦班”に分ける。護送班は槍と盾。砦班は弓と火。――今夜までに、護送班を二十名。最低でも」
「無茶だ」と誰かが呟く。
セラフィナは視線だけで黙らせた。
「無茶じゃない。選択よ。補給が来なければ、全員が飢える。飢えた兵は逃げる。逃げた砦は落ちる。落ちた砦は終わり」
順番で説明されると、反論は感情しか残らない。感情は、飢えの前では弱い。
ガレンが杖を鳴らした。
「……昔のブラックソーンは、農民も弓を引けた。狩りをしてたからな。やれる奴はいる」
「いる。だから引き上げる」
セラフィナは言い切り、次に人型の怪物へ視線を戻した。
「そして証拠。あれは“捕虜”じゃない。“物証”よ。――殺さない。けれど、逃がさない」
タムシンが苛立ち混じりに言う。
「人じゃないのに、牢に入れるの?」
「人じゃないなら尚更。勝手に処分される。処分されたら、誰が何をしたか曖昧になる」
セラフィナはオーウェンへ命じた。
「牢の扉の鍵は二つ。ルシアンと私。開閉の記録を取る。食糧をやる必要はない。でも、腐るまで放置すると証拠が消える。――縄と鉄鎖は、毎刻点検」
ルシアンが短く頷く。
「俺が見張る」
その言葉に、セラフィナは一瞬だけ視線を柔らかくした。信頼ではない。責任を共有する者の確認だ。
◆
午前、訓練場。
民兵が二列に並び、槍を握る。手の皮が薄い者が多い。槍の重さに腕が揺れる。怖さは隠しきれない。
セラフィナは高台に立ち、声を張った。
「あなたたちに英雄を求めない。――求めるのは“列”と“時間”よ」
彼女は手を上げる。
「一列目は止める。二列目は刺す。三列目は引く。勝つ必要はない。死なないこと」
ルシアンが短く補足する。
「隊列を崩すな。崩したら個々が狩られる」
セラフィナは続けた。
「護送は戦争じゃない。移動だ。だから“戦う”より“帰る”が目的。荷は捨てていい。命を捨てるな」
この言葉が、民兵の肩の力を少しだけ抜いた。戦いに勝てと言われれば折れる。帰れと言われれば、まだ踏ん張れる。
マラが遠巻きに見ながら、低い声で言う。
「あなた、民の心を使うのが上手い」
「心じゃない。計算よ。人は目的が明確だと動ける」
セラフィナは淡々と返した。
そのとき、砦の外塀の上からエイラが笛を鳴らした。短音、二回。
「来た。西道。商会の先触れ」
マラが顔を上げる。
「……早い」
「早いほど、危ない」
セラフィナは即座に言った。
「門を開ける前に、合図を確認。合言葉は?」
マラが口角を上げる。
「慎重ね」
「この砦は燃やされた。次は毒が来るかもしれない」
マラは指を二回折る。
「合言葉は“灰は肥やし”。返しが“黒土は金”」
門が半分開く。西道から入ってきたのは、商会の若い使い――ではない。目の端が鋭い。衣服は商人風だが、動きが軽すぎる。
男が言った。
「灰は肥やし」
門番が返す。
「黒土は金」
合図は正しい。
それでも、セラフィナは男の靴を見る。泥の付き方。道の泥じゃない。灰の混じった泥――砦の近くを歩いた者の足だ。
男はマラの方を見て、素早く近づいた。
「……道が塞がれた。南じゃなく、西が」
マラの目が鋭くなる。
「何があった」
「教会の使いが先回りした。小道の村に告示を貼り、塩と鉄の取引を禁じた。従わない村には“異端狩り”が来ると言って脅してる」
セラフィナの喉の奥が冷えた。
ロゼンが来る。ということは、告示が“実務”になり始める。
「やっぱり来たわね」とマラが囁く。
セラフィナは即座に決める。
「北の川筋に切り替える。マラ、船は出せる?」
「出せる。けど川は――」
「怪物が出る?」
「怪物より、人が出る。川筋は盗賊が食ってる」
「なら、盗賊と交渉する」
マラが笑う。
「交渉?」
「交渉の形を作る。税と秩序で首を締めるより先に、席を用意する。――盗賊は飢えた兵より御しやすい」
ルシアンが眉を寄せたが、否定しない。彼も知っている。辺境は、正しさで動かない。
◆
午後、牢。
人型の怪物は鉄鎖に繋がれ、壁に固定されていた。近づくと、塩の線は意味を成さない。だが鉄は効く。タムシンが鎖の配置を見直し、頷いた。
「逃げない。……少なくとも、今は」
セラフィナは首元の刻印を改めて見る。線は複雑だが、どこか“意図”がある。教会の聖印に似ている――その言葉が、頭から離れない。
オーウェンが筆を走らせ、刻印を写していく。
そのとき、人型が突然、喉を鳴らした。
「……ア……ステ……」
言葉の欠片。人の声に似せた音。
タムシンが顔を上げる。
「喋る?」
「喋るというより……真似だ」
セラフィナは目を細める。
「何を真似している」
人型は首を傾げ、鉄鎖に痙攣しながら、また音を出した。
「……セ……ラ……」
名を呼ぼうとしている。
誰の名を。
セラフィナの背中に冷たいものが走る。偶然ではない。昨夜の戦いで、砦の中の言葉を拾ったのか。あるいは――もっと前から、彼女の名が“共有されていた”のか。
ルシアンが一歩前へ出た。
「離れろ」
「離れない」
セラフィナは静かに言った。
「これは脅しじゃない。情報だ。情報が出るなら、距離を取らない」
人型が、ぎこちなく笑うような音を鳴らした。
「……ヒ……カリ……」
それは、聞き覚えのない単語だった。タムシンが眉を寄せ、ガレンが低く呟く。
「……古い言葉だ。『光』だ。辺境の古い方言でな」
セラフィナが一拍だけ目を閉じる。
光。聖女。教会。
偶然ではない。
人型が首を振り、今度は別の音を吐いた。
「……ル……メン……」
ルーメン。
ルーメン大聖堂。
セラフィナは目を開いた。
「オーウェン。今の音も記録。――そして、聞こえた“単語”を、古文書の該当項目と照合して」
「はい!」
オーウェンの声が少し裏返る。恐怖と興奮が混じっている。証拠が、証拠として形を持ち始めた瞬間だ。
◆
夕刻、砦の門に、再び使者が来た。
今度は王都印ではない。教会印でもない。黒い封蝋――見慣れない印。
門番が警戒しながら受け取り、セラフィナの元へ届ける。
封蝋を割ると、中の紙は短く、冷たい。
――審問官長ロゼンの先遣隊が、明日、黒棘砦へ到着する。
そして、最後の一行。
――“証人”は保護する必要なし。異端の巣を焼く。
セラフィナは紙を折り、静かに息を吐いた。
「先に火を持ってくるのね」
ルシアンが歯を食いしばる。
「……焼かせるな」
「焼かせない」
セラフィナは即答した。
彼女は内庭を見渡す。兵の数。民の数。水桶の数。塩の残量。鉄屑の袋。矢束。
そして、マラの荷車。
「今夜、商会の荷を出す。――明日の朝までに、北の川筋へ。護送班を出す」
「今夜?」とマラが眉を上げる。
「審問官の先遣が来たら、道は死ぬ。生きてるうちに通す」
ルシアンが短く言った。
「俺が護送を率いる」
セラフィナは首を振った。
「あなたは砦に残る。審問官が来るのは砦よ。主戦場から指揮官を抜かない」
ルシアンが口を開きかけ、閉じる。理屈は正しい。だからこそ苛立つ。
セラフィナは続けた。
「代わりに、エイラに任せる。――そして、私が門の内側で迎える」
エイラが一瞬驚き、次に頷いた。
「やる。……生きて帰る」
夜が落ちる。
護送班が動き出す。荷車が門を抜け、黒い森の縁を避けて、北へ向かう。
砦の中には、残る者の沈黙が溜まった。
明日、審問官の火が来る。
その火に、彼女は“帳簿”で立ち向かうつもりだった。
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