第6話

 黒い森が鳴く夜は、風が止む。


 音が消える代わりに、気配だけが膨らむ。葉擦れも、鳥の声もない。あるのは、湿った腐臭と、土の奥で何かが呼吸しているような重さ。


 黒棘砦の内庭で、セラフィナは配給札の束を机に置いたまま、哨戒表を描いていた。炭の線が、夜の準備へ変わる。


「今夜は“門前で戦う”んじゃない。門前で戦ったら、門が割れる」


 集まった兵と民兵志願者は、痩せた顔で頷いたり、首を傾げたりする。志願者と言っても、逃げ場が無い者が多い。


 ルシアンが腕を組み、短く補足した。


「門から十歩引いたところで殺す。門は最後の壁だ。最初の壁にするな」


 セラフィナは炭で地面に二本の線を引く。


「塩の線を二重に。一本目は“止める線”。二本目は“誘導する線”。怪物は嫌がって避ける。その避け方を利用する」


 兵の一人が呟いた。


「塩で止まるなら、楽だ」


「止まらない。嫌がるだけ」


 セラフィナは即座に訂正する。


「だから、嫌がる方向を選ばせる。選ばせた先に矢と火を置く。――今夜は、私たちが“ルート”を作る」


 そこへ、門の脇から小柄な影が滑り込んできた。黒い外套に、短弓。頬に泥がついている。


「エイラ」


 ルシアンが名を呼ぶ。影――エイラは息を切らしながらも、言葉ははっきりしていた。


「森の縁、南西。数が多い。今夜、来る。……しかも、いつもの連中じゃない」


 タムシンが眉を寄せる。


「いつもの、じゃない?」


 エイラは喉を鳴らし、低く言った。


「足音が揃ってる。群れの癖じゃない。……誰かが“追い立ててる”」


 内庭の空気が冷えた。怪物の群れが自然に集まるのは分かる。だが、追い立てられる――それは“意思”があるということだ。


 セラフィナは炭の線を止め、顔を上げた。


「追い立てる者がいるなら、目的は砦だ。――今夜、砦を燃やし切れなかった分の“次”が来る」


 ガレン・ブラックソーンが、杖を鳴らした。


「……やっと分かってきたな。ここは森だけが敵じゃねぇ」


 セラフィナは頷く。


「だから、今夜は勝ち方を決める。逃げ方じゃない」


 彼女はオーウェンへ目配せした。


「記録係は、門の内側。負傷者の名前と時間。矢の消費数。塩の消費量。火種の数。――全部残す」


「はい」


 オーウェンが帳面を抱える手に力を入れる。


 セラフィナは次に、マラへ視線を向けた。商人は荷を守るために、目が冷たい。


「マラ。あなたの荷は今夜、倉庫の奥へ。火が来るなら、守り切れない」


「分かってる。だから言ったでしょ、護送が要るって」


「護送は約束した。今夜を越えたら、明日から“線”を作る」


 その言葉に、マラが小さく笑った。


「線、ね。領主様らしくなってきた」


 セラフィナは笑わない。


「らしくなる必要はない。生きるための形を取るだけ」


 ルシアンが短く息を吐く。


「配置に移る」


 号令が飛び、兵が散る。民兵志願者には槍と短弓。塩の小袋が配られ、火種が分けられる。


 夜が、砦の周りに座った。


     ◆


 来たのは、月が雲に隠れた瞬間だった。


 森の縁から、低い呻き声が連なり、次に“同じ間隔”の足音が響いた。ぬちゃり、ではない。どん、どん、と、土を踏み固めるような音。


「……揃ってる」


 エイラが門上で呟く。ルシアンが無言で頷き、矢を番える兵へ合図した。


 塩の線の向こう、暗闇が動く。


 最初に現れたのは、背丈ほどの獣型――だが皮膚が木の樹皮のように硬化し、脚の関節が不自然に長い。次いで、四足。六足。数が増え、目の白濁が揺れる。


 そしてその後ろ――黒い影が、ひときわ高い。


 人の形に近い。だが、肩の輪郭が歪み、首が長い。腕は細いのに、爪だけが異様に太い。


 民兵の誰かが息を呑む。


「……人、か?」


「違う」


 タムシンの声が冷たい。


「似せてるだけ。食い方が、人の真似をするだけ」


 怪物たちは塩の線に近づき、鼻を鳴らした。嫌悪の呻き。だが止まらない。線を避け、横へ、横へと移動する。


 ――誘導が効いている。


 セラフィナは門の内側から、その流れを見ていた。彼女の隣にはガレン、背後にオーウェン。彼女は戦場に立つ指揮官ではない。戦場を“数”で握る者だ。


「矢、第一波。火はまだ。――焦ると足りなくなる」


 ルシアンが門上で手を上げる。


 矢が降った。


 暗闇に刺さる音が続き、怪物が数体、塩の線の手前で転がる。だがすぐ、後ろの連中が踏み越えてくる。踏み越える――塩を嫌がって避けるはずが、避けない個体が混じった。


 エイラが叫ぶ。


「効かないのがいる!」


 ルシアンが即座に返す。


「線を広げろ! 二重線に入れ替え!」


 民兵が慌てて塩を撒こうとする。袋が足りない。手が震えて撒き方が荒い。


 セラフィナは声を張った。


「撒くな、置け! 塩は“粉”じゃなく“壁”にする! 袋を裂くんじゃない、袋の口を絞って“線”を引け!」


 指示が通り、塩の線が細く、連続した筋になる。怪物が嫌がり、また横へ流れる。流れた先は――火種の置かれた溝。


 ルシアンが短く合図した。


「火」


 火がついた。


 炎が溝を走り、怪物の足元を舐める。焦げた匂いと、腐臭が混じり、悲鳴が上がる。怪物は塩の線と火の溝の間で身を捩り、隊列が乱れた。


 乱れた瞬間に、矢が刺さる。


 “数”が削れる。


 だが――人型の影だけが、乱れない。火の前に立ち止まり、首を傾げるような動きを見せた。そして、火の溝の端へ回り込み、塩の線を爪で引っ掻いた。


 塩が、黒く濁った。


 線の一部が、溶けるように崩れた。


 タムシンが、息を呑む。


「……ワードブライトだ」


 初めて出た名前が、夜気をさらに重くした。


 セラフィナが、低く尋ねる。


「塩を崩す?」


「崩すんじゃない。……塩の“効き”を殺してる。汚染が濃い」


 人型が、崩れた線から一歩踏み込もうとする。


 その瞬間、ルシアンが門上から飛び降りた。


 鎧が鳴り、着地の衝撃で砂が跳ねる。彼は剣を抜き、迷いなく人型へ向かった。


「隊長が出た!」


 兵が動揺し、民兵が息を止める。だがルシアンは、出ることで流れを作る人間だった。彼が出れば、“ここが戦場だ”と全員が理解する。


 人型の爪が薙ぐ。ルシアンが半身で躱し、斬る。刃が肉に入った感触が鈍い。普通の獣より硬い。


 人型が、笑うように喉を鳴らした。


 そして、背後の怪物たちが一斉に動く。ルシアンを囲むように、塩の線が崩れた箇所へ集まり始めた。


 ――狙いは彼だ。


 セラフィナは一拍も迷わず言った。


「槍隊、三列。隊長の後ろを塞げ。――エイラ、左翼の火を一段上げて、群れを押し返す!」


 エイラが矢筒を掴み、指示を飛ばす。槍隊が前へ出る。恐怖で足が震える者もいる。だが列で動けば、人は戦える。


 セラフィナは続ける。


「タムシン、塩が効かない個体に“別の線”はある?」


 タムシンが歯を食いしばり、短く言った。


「鉄。冷たい鉄。……それと、刻印」


「刻印?」


「教会が嫌う方の、刻印」


 その言葉が、夜に棘を立てた。


 セラフィナは即断した。


「なら、鉄を集める。――釘、鎖、割れた刃。何でもいい。火の溝の端に“鉄の屑”を撒け。塩の代わりに壁にする」


 兵が動く。砦の片隅から、錆びた鎖が引きずられ、釘箱がひっくり返される。鉄の音が、夜を硬くする。


 ルシアンの剣が、人型の腕を切り落とした。


 だが腕は、地面で蠢き、黒い液が滲む。普通の獣の血ではない。油のように粘り、土へ染み込む。


 タムシンが小さく呟く。


「……作られてる」


 セラフィナの目が細まる。


「作られてる?」


 答える暇はない。人型が、残った腕でルシアンの胸を狙った。槍隊が間に入るが、爪が槍を折りかける。


 セラフィナは叫んだ。


「捕らえろ! 殺すな、捕らえる! ――あれは“証拠”になる!」


 ルシアンが一瞬だけこちらを見た。理解の目だ。次の瞬間、彼は剣を引き、斬り落とす代わりに足を払った。人型が膝をつく。


 槍隊が押さえ、鎖が巻かれる。鉄が触れた瞬間、人型が激しく痙攣し、喉から嫌な鳴き声を上げた。


 鉄が効く。


 群れが怯み、火の溝が押し返す。矢が刺さり、数が減る。塩の線が崩れた箇所も、鉄屑の壁で塞がれ、流れが戻った。


 やがて、森の縁が静かになる。


 怪物は引いた。死体と焦げ跡と、腐臭だけを残して。


 砦の夜が、息を取り戻す。


     ◆


 門が閉じられ、内庭に灯が増えた。


 負傷者が運ばれ、オーウェンの筆が走る。矢の消費、塩の消費、鉄屑の消費。時間と名前。


 そして中央には、鎖で縛られた人型が膝をついている。白濁した眼が、灯を嫌がるように細くなる。


 ルシアンが息を整えながら言った。


「こんなのは初めてだ。……普通の群れじゃない」


 セラフィナは人型へ近づき、距離を測るように眺めた。臭い、皮膚の質、爪の形――そして、首元に走る不自然な痕。


 刻まれた線だ。傷ではない。焼き印に近い。


 タムシンがしゃがみ込み、指先でその線を追った。目が険しくなる。


「……エーテル刻印の残滓。しかも、教会の“聖印の型”に似てる」


 ルシアンが目を細める。


「教会が、これを?」


「断言はできない。でも――偶然の形じゃない」


 セラフィナは、静かに頷いた。


「偶然じゃないなら、今夜の群れは“宣戦”よ」


 彼女はオーウェンへ言った。


「この刻印を写して。正確に。私の帳簿とは別に、封をして保管。――明日、マラにも見せる。商会の情報網を使う」


 マラが焚き火の向こうで肩をすくめた。


「面倒なもの拾ったわね、領主様」


「拾ったんじゃない。向こうが落としていった」


 セラフィナの声は冷え切っていた。


「落としたなら、拾って返してあげる。首を繋いだまま、王都へ」


 ガレンが、低く笑った。


「……いい顔だ。やっと“辺境伯”の目になった」


 ルシアンがセラフィナを見た。煤と血の匂いの中で、彼女の目だけが澄んでいる。


「今夜、勝った。……だが次は?」


「次は、道を作る。補給を作る。人を増やす。――そして、これを武器にする」


 セラフィナは鎖の怪物を見下ろした。


 怪物は、喉の奥で笑うような音を鳴らした。まるで“見つけた”と言わんばかりに。


 そのとき、門番が走ってきた。


「南から使者! 王都印のある書状です!」


 セラフィナは受け取り、封蝋を割った。


 紙に書かれていたのは、短い通告。


 ――ルーメン審問官長ロゼン、ブラックソーン辺境に向かう。


 彼女は紙を折り、静かに息を吐いた。


「来るのね。……本物の“狩り”が」

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