第5話

火は、躊躇しない。


 黒い煙が倉庫裏から噴き上がり、乾いた木材が爆ぜる音がした。風は北から吹いている。炎はあっという間に屋根へ舌を伸ばし、煙が内庭へ流れ込む。


「水桶を並べろ! 走るな、列を作れ!」


 セラフィナの声が、混乱の中心に芯を刺した。


 兵が駆けようとして止まり、民が叫びかけて口を閉じる。指示が短く、やるべきことが一つずつ切り分けられているからだ。


「火元を囲むな。火は囲むほど、逃げ道を探して広がる。――“切る”のよ」


 セラフィナは倉庫の側壁へ視線を走らせ、建物と建物の間隔を見た。風下にあるのは、治療所の布と薬棚。燃え移れば、死者が増える。


「ルシアン、風下の布を全部出して! 治療所の周りは“濡れ壁”にする。水をかけ続けて、壁を冷やせ!」


「了解!」


 ルシアンは怒鳴らずに命じ、兵を振り分けた。彼は戦うのが仕事だが、今は火が敵だと理解している。


 タムシンは顔色を変えながらも動きが速い。薬棚から束を抱え、濡れ布で包み、兵に投げ渡す。


「これと、これ! あと傷薬! 他は捨てる、いいね!」


「捨てる」――その言葉に民が息を呑む。飢えた土地で捨てるとは、罪に近い。


 セラフィナは言い切った。


「捨てるのは物じゃない。時間よ。時間が燃えている」


 倉庫の反対側で、オーウェンが帳面を抱えて立ち尽くしそうになる。


「オーウェン!」


「は、はい!」


「目撃者の名前。火の匂いを最初に嗅いだ者。最初に煙を見た者。――順番で記録して。あと、門番の交代表も」


 オーウェンが青い顔で頷き、震える手で筆を走らせる。恐怖で崩れない人間はいない。崩れる前に“作業”を渡せば、立っていられる。


 セラフィナは火元へ向かう兵の手元を見た。水桶は足りない。井戸は一つ。運ぶ距離が長い。桶が戻ってくる前に、火が勝つ。


「桶を回す速度が遅い。――木樋を作って」


 兵が呆けた顔をする。


「木樋?」


「板を割って、布で繋いで、溝にして。水は“運ぶ”より“流す”方が速い。今すぐ、樋を三本。井戸から治療所側へ一本、井戸から倉庫裏へ二本」


 誰かが「そんなの無理だ」と言いかけたが、口に出す前にルシアンが叫んだ。


「やれ! 板を割れ! 釘を持ってこい!」


 命令が二つ重なると、人は動く。セラフィナが設計し、ルシアンが現場に落とす。役割が噛み合い始めていた。


 火はしつこい。だが、火にも癖がある。燃えやすい場所、燃えにくい場所、風に煽られる角度。


 セラフィナは倉庫裏の地面を見た。油の匂い。さらに、焼け跡の縁に不自然な濡れがある。水ではない。粘りのある液体――燃料だ。


「放火ね」


 呟きは感情ではなく、確認だった。


 次の瞬間、彼女は人の流れの“逆”を見た。火の方へ駆ける者が多い中で、ただ一人、壁沿いに外へ出ようとする影がある。荷を持っていない。桶もない。なのに急いでいる。


「……あの男、止めて」


 セラフィナが顎で示す。ルシアンも同時に気づき、短く笛を鳴らした。


 兵が二人、影に飛びつく。男が暴れ、袖から小さな瓶が転がった。鼻を突く油の匂いが、確信に変わる。


「違う! 俺は――!」


「黙れ」


 ルシアンが低く言い、男の腕を捻った。男の顔が歪む。歯を食いしばり、なお逃げようとする。


 セラフィナは男の前にしゃがみ込み、目線を合わせた。


「名前は」


「……」


「名前。言わないなら、あなたは“誰でもいい放火犯”として処理される。言えば、あなたを雇った者を辿れる」


 男の喉が動く。背後で、炎が一段大きく鳴った。


「……ゲイルだ。俺は……ただ金で……」


「誰から?」


「白い……白い衣のやつだ。関所の……司祭の……」


 そこで男の目が泳いだ。嘘ではない。だが、全てでもない。


 セラフィナは頷いた。


「いい。そこまでで十分。オーウェン、記録。ゲイル。放火の動機は金銭。依頼者は白衣の聖職者と証言」


 男が叫ぶ。


「殺される! 言ったら――!」


「ここで死ぬより、話して生きる方が確率は高い」


 セラフィナは淡々と告げた。


「あなたは“証人”になる。砦が守る。――その代わり、あなたの罪は帳簿に残る」


 罪を消すのではない。罪を材料に変える。辺境で生き残るやり方だった。


     ◆


 樋ができた。布で継いだ即席の水路から水が流れ、火元へ叩きつけられる。濡れ壁が治療所側を守り、火は風上へ逃げ場を失った。


 セラフィナは叫んだ。


「今! 屋根を落として!」


 兵が躊躇する。


「倉庫が――!」


「落とさなければ砦が落ちる! 屋根を落として火を“閉じ込める”!」


 ルシアンが剣の柄で梁を叩き、兵が槍で支えを崩す。屋根が沈み、火が一気に中へ吸い込まれた。煙が濃くなるが、炎の舌は外へ伸びにくくなる。


 数刻後、火は“燃え尽きる場所”を失い、ようやく勢いを落とした。


 内庭に灰が降る。人々の顔は煤だらけで、目だけが白い。


 だが――治療所は無事。井戸も無事。回収した荷の大半も、持ち出せた。


 生き残った。


 初日の勝利は、剣で怪物を倒すことではない。


 今日を守ったことだ。


 タムシンが息を吐く。


「……やるじゃない。王都の女」


「王都は関係ない。ここは、火が燃える場所」


 セラフィナは灰の倉庫を見た。失った分もある。だが、失ったものを数え、残ったものを守ればいい。


 ルシアンが近づく。煤で黒くなった頬、息はまだ荒い。だが目は冷静だった。


「指示がなければ、治療所が燃えていた」


「あなたが動いたから守れた」


 セラフィナは言い切った。褒めるためではない。事実として置く。


 ルシアンの喉が少し動き、短く頷く。


「……次は人が燃やす。教会だけじゃない。中に手がいる」


「だから帳簿を作る。配給札も、哨戒表も、門番交代も。――“中”の穴を塞ぐ」


 セラフィナは振り返り、民へ向けて声を張った。


「列を作って。配給は“平等”じゃない。“必要”に合わせる。負傷者の家から。次に子どものいる家。次に作業に出る者。――私は、食糧を恵みとして投げない。契約として渡す」


 ざわめきが変わる。期待ではない。理解が混じるざわめきだ。


 ガレン・ブラックソーンが、灰の向こうから歩いてきた。足を引きずりながらも、目がまっすぐにセラフィナを刺す。


「契約、か」


「ええ。ブラックソーンは施しで生きる土地じゃない。働いた者が生きる土地にする」


 ガレンが鼻で笑った。


「口だけなら、王都の連中と同じだ」


「なら見ていなさい。今日の配給から始める」


 セラフィナはオーウェンに合図し、帳面を開かせた。名前を呼び、札を受け取り、配給量を決め、記録する。手続きが回り始めると、盗みは減る。争いも減る。恐怖が“順番”に変わる。


 そのとき、門の外から蹄の音がした。


 哨戒の兵が叫ぶ。


「南じゃない! 西道から馬車だ! 旗は……旗は――商人の印!」


 門が慎重に開き、黒い外套の女が入ってくる。髪はまとめ、指先にインクの染み。目は獣のように速く、砦の様子を一瞬で計算している。


 彼女はセラフィナを見つけると、躊躇なく一礼した。


「商会のマラ・フェンウィック。――噂を聞いて来た」


 民がざわめく。“商人”は希望であり、同時に狼でもある。


 マラの視線が、燃えた倉庫の灰と、整列し始めた配給の列を行き来する。


「放火ね。教会の臭いがする」


 セラフィナは微笑まない。


「臭いじゃ足りない。記録はある」


 オーウェンが帳面を上げる。マラの眉がわずかに上がった。


「……あなた、追放された貴族だと聞いたけど。帳簿の作り方は、まともみたい」


「まともにしないと死ぬから」


 マラは肩をすくめ、低い声で続ける。


「結論から言う。南街道は塞がれた。商人は教会の告示を怖がる。けど、西の小道と北の川筋なら、まだ息をしてる。――ただし、条件がある」


「条件を聞く前に、こちらの条件を言う」


 セラフィナは一歩前へ出た。


「私は、搾取は許さない。代価は払う。だが、命に値札を付ける商売をここではさせない」


 マラの口角が上がる。面白がっている顔だ。怖がっていない。


「強気ね。好きだわ」


 次に、彼女は指を一本立てた。


「条件その一。護送。ルートを知ってるのは私だけじゃない。襲われる。怪物にも、人にも」


 セラフィナは即答した。


「護送は出す。ルシアン、可能?」


「人数が足りない」


「足りないなら、作る。――今夜から民兵訓練を始める。武器は矢と槍。塩を支給する。まずは護送のために」


 ルシアンがセラフィナを見る。驚きがある。だが否定しない。


 マラは指を二本立てた。


「条件その二。支払い。現金は?」


「ない」


「なら信用?」


「ある」


 セラフィナは言った。


「王家印の統治権と、帳簿。支払いは“収穫の先払い”で約束する。――そして、あなたに利を与える。ブラックソーンに市場を作る。あなたが最初に席を取れる」


 マラの目が細くなる。利益の匂いを嗅いだ顔だ。


「市場……この土地で?」


「この土地だから。南が塞がれたなら、北と西で回る。教会が握る道以外を育てる。あなたの商会は、その最初の血管になる」


 数拍の沈黙の後、マラは笑った。


「……いい。契約しよう、領主様」


 その言葉に、内庭の空気が変わる。


 “領主”。まだ誰も彼女をそう呼んでいなかった。


 セラフィナはマラの差し出した手を取らない。代わりに、オーウェンへ言う。


「契約書を。物資の種類、量、納入日、護送の人数、支払いの期日。――全部、紙に落とす」


 マラが肩をすくめる。


「面倒ね」


「面倒が命を守る」


 ルシアンが、セラフィナを横目で見た。火を消し、放火犯を捕まえ、商人と契約の芽を作った――たった一日で、砦の“流れ”が変わった。


 そのとき、見張り台から声が落ちた。


「森が……森が鳴いてる」


 風が止まったように、空気が重くなる。


 遠く、黒い森の奥で、低い呻きが連なった。昨夜の怪物の数ではない。群れの気配。飢えが集まる音。


 ルシアンが歯を食いしばる。


「……来るぞ。次の夜が」


 セラフィナは、灰の倉庫の前に立ったまま、静かに頷いた。


「来させる。――そして、今度は“迎え撃つ準備”をしておく」


 彼女の指先に灰が付く。けれど、その灰の向こうで、帳簿の筆が止まらない。


 ブラックソーンは、燃やされても終わらない。


 燃やされた分だけ、次の形に組み直す。

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