第4話

夜明け前、黒棘砦の中庭は凍るように静かだった。


 焚き火の灰を踏む音と、遠くの森が軋む気配だけが残る。門外の怪物の唸りは薄れたが、消えたわけではない。飢えは、いつも戻ってくる。


 セラフィナは倉庫へ向かった。昨夜回収した荷が山になっている。塩、乾物、布、矢束。どれも、ここでは命の形だ。


「今日から“配る”のをやめる」


 オーウェンが筆を止めた。


「……配らない、と?」


「“投げる”のをやめるの。配給は設計よ。帳面で動かす」


 セラフィナは炭で床に線を引き、荷の山を三つに分けた。


「兵糧。治療。作業。――この三つは混ぜない。混ぜた瞬間、どれも足りなくなる」


 タムシンが腕を組み、棚を睨む。


「薬は?」


「薬草は、あなたが管理。代わりに“使った分”を記録して。罪にするためじゃない。次の不足を予測するため」


 ルシアンは倉庫の入口に立ち、黙って見ていた。昨夜の回収で、彼は“運”ではなく“手順”を見た。だから、今は口を挟まない。


 セラフィナは薄い木札を束で出した。粗末だが、数だけは揃っている。


「配給札。家族単位で渡す。札がない者に配らない、じゃない。札がない者は“誰が見落としたか”が分かるようにする」


 オーウェンが静かに息を呑む。


「見落としを責めるのではなく、見落としの場所を消す……」


「そう。飢えは感情より早い。だから仕組みが必要」


 そこへ、見張り台から短く笛が鳴った。


「来ます」


 ルシアンが外へ出る。セラフィナも続いた。


 霧の向こう、白い布が揺れている。聖印の旗。数は十数名。護衛の騎士が数人、司祭が二人、荷車は一台。告示板を掲げて歩いてくる。


 門前で止まり、先頭の若い司祭が声を張った。


「告示! ブラックソーン禁域! 破門者への物資提供を禁ず! 逆らう者は同罪と見なす!」


 砦の兵がざわつく。民も集まってきた。飢えた目が荷車に吸い寄せられる。誰もが分かっている――あれが、今日の命綱だ。


 ルシアンの手が剣の柄にかかりかけた。


 セラフィナは一歩前へ出た。


「門を開けて」


「セラフィナ」とルシアンが低く止める。


「外でやり合えば、向こうの望み通りになる。――中へ。証人の目の前で話す」


 門が半分だけ開いた。聖職者たちは、勝ち誇るでもなく、慎重に入ってくる。罪人の砦に足を踏み入れるのは、彼らにとっても不吉なのだろう。


 内庭の中央。焚き火のそばに簡易の机が置かれた。オーウェンが帳面を開き、筆を構える。タムシンは棚の前に立ち、薬草の束を抱えたままこちらを見ている。


 若い司祭が告示板を机に打ち付けた。


「教会の定めた禁域に、破門者が居座るのは許されません。直ちに統治を放棄し――」


「その前に確認を」


 セラフィナは穏やかな声で遮った。


「あなたの所属と氏名」


 司祭が眉をひそめる。


「ルーメン大聖堂、第七教区司祭、エドモンド」


「同席の者も」


 名乗らせ、オーウェンに記録させる。兵がざわつき、民が固唾を飲む。


 セラフィナは次に、荷車へ視線を向けた。


「その荷は、どこから来たの?」


「……救済の物資です。禁域の汚染が広がらぬよう、境界で管理し――」


「ならば、境界で管理すればいい。なぜ砦へ持ってきたの」


 司祭の口が止まる。


 セラフィナは淡々と続ける。


「あなた方は今、“提供を禁ず”と言いながら、荷を砦の門まで運んだ。飢えた民の前に。兵の前に。これは救済ではなく、示威。――飢えを使った統治よ」


「言いがかりだ!」


 騎士の一人が声を荒げる。ルシアンが目を細め、半歩前へ出た。だがセラフィナは手のひらで制した。


「言いがかりではない。だから、ここで書面にしてもらう」


 セラフィナは王家印の付与状の写しを机に置いた。


「王家印。私は統治者。王国の街道と砦は王家の権限下にある。教会が“禁域”を主張するのは構わない。――では、教会が“王家の補給を阻む”という命令を、誰の権限で出したのか、書面で示しなさい」


 司祭の顔色が変わった。昨夜、灰の橋で書面を取らされたのと同じ形だ。


「……教会の告示は、神意だ」


「神意は紙にできない。でも“命令”は紙にできる。だからあなたがここに来たのでしょう?」


 セラフィナは静かに笑った。笑みは優しくない。


「署名と日時。あなたの権限の根拠。王家の命令に反して物資提供を禁ずる、という一文。――それを書きなさい。民と兵の前で」


 司祭は口を開けたが、言葉が出ない。署名した瞬間、これは“王家への干渉”として記録になる。後で首を締める縄になる。


 沈黙が続く。


 その沈黙を割ったのは、民の中から出てきた老人だった。


 背が低く、肩が落ち、片足を引きずっている。だが、目だけは死んでいない。古傷のような鋭さが残っている。


「……ガレン・ブラックソーンだ」


 名乗りに、空気が一段落ちた。辺境伯。かつてこの地の名を背負った男。


 司祭が一瞬、怯えを隠すように顎を上げる。


「老辺境伯が名を出されようとも、禁域の定めは――」


「禁域だと言うなら、なんで今まで放っておいた」


 ガレンの声は掠れていたが、刺さった。


「塩も鉄も薬も、何年も来なかった。怪物が増えても、祈って終わりだった。……今さら“救い”を看板にして、飢えた連中を踊らせるな」


 民がどよめく。兵が唇を噛む。


 セラフィナは、ガレンの言葉を拾い上げるように頷いた。


「証言、記録」


 オーウェンの筆が走る。


 司祭は焦りを隠して告示板を叩いた。


「ならば――この荷は回収する! 汚染の恐れがある!」


 騎士が荷車へ向かおうとした瞬間、ルシアンが前へ出て、短く言った。


「止まれ」


 声は低く、刃の冷たさがあった。騎士が反射的に足を止める。


 セラフィナは、荷車の前へ歩き、司祭を見た。


「その荷は、あなた方のもの?」


「教会の救済物資だ」


「救済物資なら、受領と配給の記録があるはず。提出して」


「……」


「無いなら、これは“見せ荷”だ。告示のために運んできただけ」


 司祭の沈黙が答えだった。


 セラフィナはそこで、声を張らずに言った。


「私が押収します」


 ざわめきが弾ける。司祭が叫ぶ。


「破門者が! 聖印の荷に触れるなど――!」


「聖印なら尚更、記録が必要ね。私は統治者として保管し、配給し、その帳簿を王都へ送る。――拒否するなら、あなた方は飢えを武器にしたと自ら認めることになる」


 司祭は、怒りと恐怖の間で揺れた。ここで暴れれば、民の前で“教会が食糧を奪った”になる。退けば、荷を失う。


 結局、司祭は唇を噛み、荷車の縄を投げ捨てた。


「……神は見ているぞ」


「なら、尚更。帳簿が必要」


 セラフィナは合図した。兵が荷を運び、倉庫へ入れる。民の目が、荷の移動を追う。飢えた視線が、初めて“届くかもしれない明日”を見た。


 司祭たちは、白い旗を揺らしながら退いた。門を出る直前、エドモンドが振り返り、歯の間から吐くように言った。


「今日から、南街道の商人にも告示する。塩一袋でも運べば同罪だ。……あなたは孤立する」


 セラフィナは瞬き一つせずに返した。


「孤立は、こちらの計算に入っている」


 門が閉じる。


 霧の向こうへ白い旗が消える。


     ◆


 内庭に、重い静けさが落ちた。


 勝ったのか。負けたのか。誰もすぐには判断できない。だが、倉庫に食糧が入ったのは事実だ。今日の命は、繋いだ。


 セラフィナはルシアンへ向き直った。


「今から配給を始める。兵と民を列に。――先に治療所へ、負傷者の家族を回して」


 ルシアンが頷き、すぐに動いた。命令に、もう躊躇いがない。


 タムシンが小さく舌打ちする。


「敵を作ったね」


「元から敵だった。今は“敵が何をしたか”が残った」


 オーウェンが帳面を抱えて言う。


「押収の件、王都に送れば……」


「送る。でも、“今すぐ”の効果は薄い。王都は遠い。ここは近い問題で死ぬ」


 セラフィナは倉庫の扉に手を置いた。


「だから――今夜から“密輸”じゃなく、“新しい道”を作る。教会が塞ぐのは南街道。なら北と西を探す」


 その瞬間、見張り台からまた笛が鳴った。


 今度は警戒の長音。


「煙だ! 倉庫裏!」


 セラフィナが振り返ると、倉庫の裏手から黒い煙が立ち上っていた。誰かが油を撒いたような匂い。火の回り方が早すぎる。


 ルシアンが剣を抜きかけ、叫ぶ。


「放火――!」


 タムシンが顔色を変える。


「薬棚! あっちに――!」


 セラフィナは一拍だけ目を閉じ、次の瞬間には声を張った。


「水桶を並べて! 火を囲むな、逃げ道を作れ! ――オーウェン、今この瞬間の目撃者を全員記録!」


 敵は告示だけでは終わらない。


 “飢え”に負けないと分かった瞬間、次は“火”で折りに来る。


 黒棘砦の朝が、燃え始めた。

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