第3話

 烽火は、風に削られた赤だった。


 黒い森の縁に建つ砦――黒棘砦は、石の肌を煤で固めたような色をしている。かつては北の盾だったのだろう。だが今は、壁の一部が欠け、門の鉄は赤錆に食われ、見張り台の灯りは心許ない。


 それでも、砦は“人の輪郭”をしていた。


 生きている。まだ。


「門だ! 門を開けろ!」


 護衛が叫んだ瞬間、怪物の一体が荷車へ跳びついた。爪が布を裂き、食糧袋の匂いに喉を鳴らす。


 セラフィナは窓から身を乗り出し、声を張った。


「塩を撒くのは“線”にして。点じゃ足りない。前へ――馬を止めない!」


 指示が通る。護衛が麻袋を抱え、荷車の左右に白い筋を引いた。怪物は線を跨ぐのを嫌がり、回り込もうとする。


 そこへ、砦の上から矢が降った。


 乾いた音。次いで、怒号。


「森際で止まるな! 門前へ突っ込め!」


 門の上、黒い外套の男が見えた。肩に防寒の毛皮。声は冷たいのに、判断が速い。


 ――あれが、指揮官。


 セラフィナの目が細まる。砦側がこちらを“救う”つもりなら、まだ終わっていない。


 だが、門はすぐには開かない。


 門前の空地に足を踏み入れた瞬間、怪物が二体、塩の線を避けて跳ねた。護衛の剣が受ける。火花。血。馬の悲鳴。


 次の一拍で、セラフィナは決めた。


「荷車の一台を捨てる」


「令嬢!?」と護衛が叫ぶ。


「捨てるのは荷車、物資じゃない。――布を裂いて中身を門前に“広げて”」


 言い終える前に、護衛の一人が理解した。荷車の縄を切り、荷台の布を引き裂く。乾物と塩が地面に散る。匂いが、森へ向かって流れる。


 怪物の眼がそちらへ寄った。


 セラフィナは続ける。


「矢を撃つ人へ伝えて。今、門前の“餌”を狙って。人と馬を狙わせない」


 オーウェンが即座に身を乗り出し、門上へ叫んだ。砦の男が一瞬こちらを見て、短く指を振る。矢が怪物の背へ刺さり、怪物が地を転がった。


 門が軋み、開き始める。


「今だ、押し込め!」


 隊列が一気に突入する。護衛が最後尾で剣を振り、門内へ転がり込むように入った。


 次の瞬間、門が閉じられた。


 轟音。鉄の閂が落ちる音。


 門の外で、怪物の爪が石を引っ掻いた。低い唸り声が、厚い壁を通しても耳の奥に残る。


 静寂が戻るまで、数呼吸。


 セラフィナは、ようやく馬車の床を踏みしめて立った。


     ◆


 門内は、想像以上に痩せていた。


 兵が少ない。目が疲れている。鎧が継ぎ接ぎで、刃は鈍い。焚き火の匂いより先に、薬草の苦さと、古い血の匂いが来る。


 門上から降りてきた男が、こちらへ歩いてくる。背が高く、歩き方が静かだ。疲労を隠すのが上手い人間の足取り。


 近づくにつれ、その目がセラフィナを測る。


 疑いと警戒。だが、軽蔑はない。


「……黒棘砦守備隊長、ルシアン・クロウ」


 名乗り方が簡潔だった。余計な礼を削り、必要な礼だけ残した声音。


「あなたが、王都から来た“統治者”ですか」


 セラフィナは馬車を降りた。足元の泥は黒く、踏むたびに粘る。貴族の靴が汚れることを、誰も気にしない場所。


「セラフィナ・ヴェイル。王家印の付与状を持っている」


 オーウェンが封蝋の押された羊皮紙を差し出す。ルシアンは受け取り、赤い印を見た。次いで、貼り付けられた教会の告示へ視線を落とす。


 眉がわずかに動く。


「破門……」


「教会の都合よ。王家は承認した」


 セラフィナの声は淡々としている。挑発もしない。正当性だけ置く。


 ルシアンは紙を返し、周囲の兵へ短く命じた。


「負傷者を運べ。馬を繋げ。荷車は内庭へ。――今夜は二重哨戒だ」


 兵が動く。動きは荒いが、止まってはいない。砦はまだ指揮で立っている。


 セラフィナは、門前で倒れている護衛の一人を見た。腕に深い裂傷。血が止まりきっていない。息が浅い。


「医療担当は?」


 ルシアンが、砦の奥へ目を向けた。


「タムシン。だが薬が尽きかけている」


 セラフィナは即座に言った。


「呼んで。今は“薬が少ない”じゃない。“誰を生かすか”の段階に入る前に止血する」


 その言葉に、ルシアンの目がほんの少しだけ変わった。


 貴族令嬢が、こういう命令を躊躇なく出すのを彼は見慣れていないのだろう。けれど、必要な命令だと理解している顔だった。


     ◆


 内庭の一角に簡易の治療所がある。藁の上に寝かされた兵や民が、短く呻く。


 タムシンはそこにいた。灰色の髪を束ね、袖を肘まで捲り、血に濡れた布を洗っている。目が鋭い。優しいだけの治療者ではない。


「王都の人間が来たって?」


 言葉はぶっきらぼうだが、手は止まらない。


 セラフィナは自己紹介を省き、状況だけを見る。負傷の種類、人数、薬草の残量、包帯の質。視線で棚を数える。


「酒はある?」


「飲む分なら少し。消毒に回すと、兵が荒れる」


「荒れても生きていれば戻せる。死んだら戻らない」


 セラフィナは言い切り、オーウェンに指示する。


「記録。負傷者の名前、怪我の部位、治療に使った物。今日から全部残す。後で“足りない”と訴えるためじゃない。足りないなら、足りない前提で配分を決めるため」


 オーウェンが頷き、帳面を開く。


 ルシアンは腕を組み、黙って見ていた。彼は現場の人間だ。机の理屈で命を弄ぶ貴族を何人も見てきたはずだ。


 だからこそ、試している。


 セラフィナは負傷した護衛の裂傷に目を落とし、短く言った。


「縫う。今すぐ。塩水で洗って、酒で消毒。痛み止めは半分だけ。残りは次の負傷者へ」


「命令する気?」とタムシン。


「提案よ。拒否するなら、代案を」


 タムシンは一瞬だけ口角を上げた。


「……嫌いじゃない」


 針が通る。呻き声が上がり、歯を食いしばる音がする。


 その間に、セラフィナはルシアンへ向き直った。


「門前で荷車を一台捨てた。だが中身は外に“広げた”だけ。怪物はそっちへ引かれた。つまり、餌の回収ができる可能性がある」


 ルシアンの眼が鋭くなる。


「外は危険だ」


「危険だからこそ、今夜のうちに。怪物は食べ散らかす。夜明けには森へ戻る。――あなたの兵が少ないのは見ればわかる。でも、ここは補給が切れている。食糧を一晩で失うのは、戦死より痛い」


 ルシアンは唇を薄く結び、数拍考えた。


「回収班は五名までだ。俺が出る」


「あなたが出るなら、あなたが戻る確率を上げる。哨戒の配置図を見せて」


「……配置図なんて立派なものは無い」


「なら、今から作る」


 セラフィナは地面に炭を取り、内庭の石に線を引いた。門、壁、見張り台、死角、森との距離。兵の立てる場所。火の置き方。


 貴族の手が泥と炭で汚れていく。誰も止めない。止められる空気ではない。


「火を二つ。ひとつは門前、ひとつは左翼。塩の線を引いて誘導する。回収班は短時間で戻る。――怪物が増えたら、餌を捨てて引く。命を優先」


 ルシアンが、初めて短く笑った。


「……机上の人間じゃないな」


「机上の人間ほど、現場の数字が必要なのよ」


 セラフィナは線を引き終え、顔を上げた。


「ルシアン・クロウ。私はここを“領地”として受け取った。だからこそ、あなたの砦を“死なせない”。協力して」


 ルシアンは一瞬だけ目を閉じ、次に開いた。


「協力の前に確認する。――あなたは、この地を“捨て場”にされた怒りを、王都へ向けるか?」


「怒りは向ける。でも、順番はある」


 セラフィナは静かに言った。


「まず、生き残る。次に、立て直す。最後に、首を取りに行く。順番を間違えた者は、いつも途中で死ぬ」


 ルシアンは頷いた。


「……分かった。今夜、回収に出る」


     ◆


 深夜、門がわずかに開く。


 風が冷たい。森の匂いが重い。外では何かが蠢く気配がするが、足音は遠い。怪物は“餌”に集まっている。


 回収班が影のように滑り出る。ルシアンの手信号。火が揺れ、塩の白い線が月に浮く。


 セラフィナは門内で待った。待つしかないのではない。門内を守り、次の手を準備するために待つ。


 タムシンが横へ来る。


「あなた、王都で何をした?」


「婚約を破棄され、断罪され、追放された」


「それでここへ?」


「それでここへ」


 タムシンは息を吐いた。


「この地は、優しい人間から先に腐る」


「優しくはない」


「そう見える」


 セラフィナは答えず、門の隙間を見る。


 やがて、戻ってくる足音。荷を担いだ影が門内へ転がり込む。乾物、塩、布、矢束。半分以上が戻った。


 ルシアンが肩で息をしながら言った。


「……回収は成功だ。だが、森の縁に“増え方”がある。今夜の数じゃない。次はもっと来る」


 セラフィナは頷いた。


「なら、次までに壁を直す。哨戒を整える。塩を武器として配る。――そして、食糧の配給を今日から再設計する」


 ルシアンが眉を寄せた。


「配給? もう配ってる」


「配って“終わってる”のよ。配給は設計。――兵の分、民の分、作業の分、治療の分。明日から帳面に落とす。浪費を止める。盗みを止める。止められないなら、盗みの“動機”を潰す」


 砦の兵たちが、遠巻きにこちらを見る。追放者の貴族令嬢が、最初の夜に“勝った”のを見た目だ。


 セラフィナは荷の山に手を置いた。


 冷たい布越しに、確かな重さがある。


「これは、私たちが生きるための一日分。――十分よ。明日、二日目を作る」


 そのとき、見張り台から声が飛んだ。


「旗だ! 南街道から!」


 セラフィナとルシアンが同時に見上げる。


 霧の向こう、砦へ向かってくる一団。白い布に聖印。教会の旗だ。


 そして先頭の者が掲げているのは、板に打ち付けた告示。


 《ブラックソーン禁域。破門者への物資提供を禁ず》


 ルシアンが低く吐き捨てた。


「……来たか。首輪を締め直しに」


 セラフィナは、静かに息を吸った。


「いいえ」


 彼女の声は冷えた刃だった。


「首輪なんて、最初から嵌めさせない。――迎え入れなさい。門の中で“記録”を取る」


 教会の灯が、霧の中で揺れた。

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