第2話
王都の門を出た瞬間、空気が変わった。
石畳の余熱は薄れ、風は乾き、匂いから人の密度が消える。背後にそびえるアイヴォリーの白い城壁は、遠ざかるほど“正しさ”の顔をして見えた。
セラフィナの馬車は、質素だった。王家の紋は小さく、護衛は最低限。追放者に与えるのは体裁だけ――それでも、紙一枚の権利は、剣より重い。
膝の上の羊皮紙に、王家の赤い印がある。
ブラックソーン辺境領、統治権付与。
そして同じ紙の余白に、教会の告示が貼り付けられている。
禁域。破門。異端の烙印。
馬車の揺れが、腹の底に響く。セラフィナは揺れを数えながら、視線だけで同行者を確認した。
御者が一人。荷車が二台。護衛騎士が四名――そのうち二名は王都で雇われた“監視”の顔をしている。もう二名は、口数が少ないが目が死んでいない。
そして、正面の座席に座る老紳士が一人。白髪混じり、眼鏡の奥の目は鋭い。
「――ヴェイル家書記官、オーウェンと申します。最後までお供いたします」
昨日、審理殿の外で名乗った男だ。誰も彼女に近づこうとしない中、唯一、礼を失わなかった。
セラフィナは小さく頷いた。
「最後まで、ではなく。ブラックソーンまで。そこから先は、あなたの意志で選びなさい」
「意志で選べるからこそ、ここにおります」
答えは簡潔で、逃げ道を作らない声だった。
馬車の外で、蹄が跳ねる音がする。追放の行列は、街道の視線を集めるには十分だった。村の子どもが指をさし、大人は扉を閉める。
“破門者”――その噂は、王都の門を出る前から先回りしている。
だがセラフィナは、噂と闘う気はなかった。噂には、記録で勝つ。
彼女は小箱から帳面を取り出し、オーウェンへ差し出した。
「ブラックソーンの現行台帳。王都の保管庫から抜き出してきた分だけでも、確認したい」
オーウェンは驚きに眉を上げた。
「……よく、これだけ集められましたね。追放の準備時間は、ほとんど無かったはず」
「無かったから、奪い取ったのです」
淡々と言い、セラフィナは頁を開く。
税の記録は途切れがち。食糧の搬入欄は空白が多い。兵の名簿は古く、補給の項目は“未達”。そして同じ場所で繰り返される単語――
《失踪》《焼失》《汚染》
オーウェンが低声で説明する。
「ブラックソーンは“領地”というより……放棄寸前の負債です。土が死に、森が黒くなり、怪物が増え、住民は逃げました。残っているのは、逃げられない者と、逃げない者だけ」
「逃げない者」
セラフィナはその言葉を、舌の上で転がした。
そこに人がいるのなら、国家は義務を果たしていない。
彼女はペンを取り、紙を一枚切り離す。
「王家印の付与は、供給の義務も生む。これは権利ではなく、契約よ。――書記官、文面を」
オーウェンが即座に筆を取った。セラフィナは口述する。言葉は冷静で、刃物のように端正だった。
「『王家はブラックソーン辺境領の統治者に対し、初年度の最低補給量を保障すること。食糧、塩、鉄、薬草、簡易武具。王都倉庫より搬出し、北街道の関所にて引き渡す』」
護衛の一人が鼻で笑った。
「無駄です、令嬢。教会が止める」
セラフィナは目も上げない。
「止めるなら、止める理由を残させる。関所で拒否すれば、王家の印を踏みにじった“記録”になる。後で首を絞める縄になる」
護衛が言い返しかけ、オーウェンが静かに咳払いをした。
馬車の中に、彼女の支配が定着していく。命令ではない。筋道があるから従わされる。
――それが、彼女の武器だった。
◆
北街道は、途中までは穏やかだった。
畑があり、川があり、宿がある。だが二日、三日と進むにつれ、景色は痩せていった。土の色が鈍くなり、森が黒ずみ、空が重くなる。
夜、宿の食堂で、隣の卓の商人が囁く声が聞こえた。
「ブラックソーン行きだってよ」
「破門者の貴族だろ。よく行くな……」
「行けば食われる。怪物にも、森にも、そして……人にも」
セラフィナは湯を飲み、聞こえなかったふりをした。恐怖は伝染するが、恐怖に反応した瞬間、相手の物語に組み込まれる。
代わりに彼女は、宿の主人に淡々と尋ねた。
「この先、北の関所はどこで検問している?」
「……灰の橋です。黒い森の手前。あそこから先は、兵も増えます。ええ、増やしても……減るんですが」
主人の苦笑は、冗談ではない顔をしていた。
◆
四日目、灰の橋に着いた。
川は浅く、橋の石は煤を被っている。関所の兵は、こちらを見る目が硬い。入口に立つ聖印の旗が、風に鳴る。
兵長が馬車へ近づく。視線はセラフィナの指輪ではなく、額の見えない“烙印”を探している。
「目的地は?」
「ブラックソーン辺境領。統治権付与状を所持している」
オーウェンが文書を出す。兵長は赤い印を見て、眉を動かした。だがすぐ、背後の聖職者に目をやる。
白衣の若い司祭が一歩前へ出た。穏やかな笑み――どこか王都の聖女に似た、作りものの柔らかさ。
「破門者に、教会の道は通せません」
セラフィナは馬車の窓を開け、外気を吸った。
「教会の道? ここは王国の街道でしょう。通行税を徴収しているのは王家。門を守るのは王兵。――教会は“告示”を出せても、“関所の鍵”は持っていない」
司祭の笑みが薄くなる。
「禁域の統治を試みる者は――」
「それは、あなた方の定義。私は王家の法に従う」
セラフィナは窓辺に肘を置き、淡々と続けた。
「拒むのなら、拒否の理由を書面にしなさい。司祭の署名と、関所兵長の署名と、日時。王都の保管庫へ送る。王家印の命令を拒否した記録として残す」
兵長の喉が動く。書面に残ることを、兵は嫌う。責任は上に押し付けられない。
司祭が一瞬だけ焦りを見せ、すぐに取り繕った。
「……通行は許可します。ただし、補給物資の受け渡しはできません。教会が“汚染”の拡散を危惧している」
「なるほど。汚染の拡散を危惧するのに、辺境は放置するのね」
セラフィナは笑わない。言葉だけが冷える。
「ならば、受け渡し拒否の書面を。今言った形式で」
司祭が唇を噛む。兵長が目を逸らす。数拍の沈黙の後、司祭は声を落とした。
「……本日は通行のみ。書面は後日」
「後日など、存在しない。書面は今」
セラフィナの声が、灰の橋の空気を切った。
結局、司祭は署名をした。兵長も渋々筆を入れた。セラフィナはその写しを受け取り、オーウェンに渡す。
「保管して。これは“始まりの証拠”よ」
オーウェンが深く頷いた。
馬車が橋を渡る。背後で聖印の旗が、嫌な音を立てて翻った。
◆
その日の夕暮れ、森が変わった。
木の幹が黒い。苔が灰色で、地面には細かな裂け目が走っている。空気は湿り、甘い腐臭が混じる。
荷車の馬が不安げに嘶いた。
「……ここからがブラックソーンだ」と護衛の一人が呟く。
セラフィナは窓の外を見た。遠くに、崩れた見張り塔。錆びた鉄柵。道端に残る、焼け焦げた車輪の骸。
そして、森の奥から――音がする。
ぬちゃり、と。
濡れた皮を引きずるような足音。
護衛が手綱を引き、隊列が止まった。
「止まるな!」と別の護衛が叫ぶ。「森に止まったら――」
遅かった。
木陰から、影が滑り出る。人の背丈ほどの獣――いや、獣に似せた何か。皮膚の一部が土と同化し、目が白濁し、口の端から黒い涎が垂れている。
怪物は、馬ではなく荷車の布を嗅いだ。
食糧の匂いを知っている。
護衛が剣を抜く。馬が暴れ、荷車が軋む。オーウェンが息を呑み、セラフィナの前へ立とうとする。
セラフィナは、立たなかった。
代わりに、窓から外へ顔を出し、静かに言った。
「隊列を崩さない。荷車を内側に。馬を守りなさい。――そして、あれを引きつけるなら“塩”を投げて」
「塩?」護衛が叫ぶ。
「帳面にある。ブラックソーンでは、塩が通貨であり、薬であり、武器よ。早く!」
護衛が躊躇なく動いたのは、彼女の声に迷いが無いからだった。荷車の麻袋が裂かれ、白い塩が地面に撒かれる。
怪物が一瞬だけ身を引いた。低い唸り。嫌悪――だが、恐怖ではない。
塩だけでは、止まらない。
次の瞬間、森の奥で別の影が動いた。二体目。三体目。
数が多い。
護衛が歯を食いしばる。
「……増えるぞ!」
セラフィナは、灰色の森を見据えた。
王都の断罪より、ここは正直だ。敵は微笑まない。涙も流さない。食うか食われるか、それだけ。
そして――彼女は理解した。
ブラックソーンは“死刑”ではない。
“戦場”だ。
馬車の外で、金属がぶつかる音がした。護衛の剣が怪物の爪を弾く。馬が悲鳴を上げる。
セラフィナは息を吸い、短く命じた。
「……前進。今夜、辺境の砦まで辿り着く」
その言葉に呼応するように、闇が一段濃くなる。
遠く、砦の烽火が――かすかに、揺れた。
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