婚約破棄? 結構です。――ならば辺境を頂き、あなたたちを跪かせましょう

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第1話

アイヴォリー王都の大審理殿は、冬の白い光を吸い込んだまま、ざわめきだけを膨らませていた。


 高い天窓。黒檀の法卓。王家の紋章の下に、教会の聖印が並んで掲げられている。ここは裁きの場であり、同時に見世物の舞台でもあった。


「――ヴェイル家の令嬢、セラフィナ・ヴェイル」


 名を呼ばれた瞬間、傍聴席から低い嘲りが漏れた。扇子で口元を隠す貴婦人たち。石段を踏み鳴らす靴音。囁きの刃が、彼女の背に突き立つ。


 セラフィナは、ただ背筋を伸ばして前へ出た。


 鎖はない。だが、ここにいる全員の視線が鎖だった。


 対面の高座に立つのは、アラリック皇太子。金糸の礼服、王家の指輪、慈愛を貼り付けた微笑み。隣に座るのは、白衣の聖女クラリス。花のように清らかな顔立ち、涙を湛えた瞳――その涙さえ、計算された光を纏っているように見えた。


 さらにその影。黒い法衣の男が一歩、前に出る。


「審問官長ロゼン。教会を代表し、異端の疑いを確認する」


 ロゼンの声は鈍い金属のようだった。聖印の鎖を振り回すのではなく、真綿で首を絞める類の口調。


 書記官が羊皮紙を広げる。朗読が始まった。


「罪状一、王都施療院への寄進金横領。罪状二、聖刻印の不正所持。罪状三、皇太子殿下への毒殺未遂。罪状四、民への虐待、ならびに――」


 言葉が積み上げられるほど、傍聴席の熱が上がった。人は事実より“筋書き”が好きだ。誰かが悪役であれば、世界はわかりやすくなる。


 セラフィナは、視線だけを上げた。


「――毒殺未遂、ですか」


 静かな声だった。けれど、広間のざわめきが一瞬だけ薄くなる。


 アラリック皇太子が悲しげに首を振る。


「セラフィナ。君が自ら誓いを踏みにじったのなら、私は……王国の未来のために、これ以上、目を逸らせない」


 “未来”。“王国”。“彼女のためではない”という装い。見事な演説だった。拍手さえ起きかける。


 クラリスが両手を胸の前で重ね、涙の粒を落とした。


「わたしは……裁きを望みません。でも……真実が、闇に沈んでしまうのは、もっと……」


 傍聴席がざわめく。“聖女が泣いた”。それだけで天秤は傾く。


 ロゼンが羊皮紙の束を掲げた。


「証拠も揃っている。毒物の小瓶はヴェイル家の香室から。聖刻印の媒紙は彼女の化粧箱から。さらに施療院の会計帳は改竄されている。――神の前で言い逃れはできぬ」


 セラフィナは、机上の証拠の山を見た。瓶の封蝋。筆跡。紙の質。すべてが整いすぎている。


 整いすぎているからこそ、これが“作られた”ものだとわかる。


 だが、彼女は反論しなかった。


 反論とは、相手の土俵に乗ることだ。今、土俵そのものが歪められている。ここで正しさを叫べば叫ぶほど、“悪役の抵抗”として消費されるだけ。


 セラフィナは、ゆっくりと一礼した。


「申し立てがございます」


 その言葉に、アラリック皇太子の眉が僅かに動いた。クラリスの睫毛が震え、ロゼンが面白そうに目を細める。


「弁明か?」とロゼン。


「いいえ。弁明ではありません」


 セラフィナは、広間をぐるりと見渡した。自分の死を待つ顔。自分の没落を祝う顔。自分を踏み台にする顔。


 そして、法卓の上に置かれた王家の印璽箱へ視線を落とす。


「わたくしは、婚約の破棄と、ヴェイル家の権利剥奪を受け入れます」


 ざわめきが大きくなった。拍子抜けと興奮が混ざる。


 アラリック皇太子が、安堵したように息をつく。


「理解してくれたのだな。君なら――」


「ただし」


 セラフィナの声が、その先を切った。


「王家の古き条項に基づき、わたくしは“追放”を選びます」


 空気が変わる。笑いが止まる。書記官が筆を落としかける。


 ロゼンが眉をひそめた。


「追放だと?」


「はい。『血の負債条項』。王家が貴族に負う“血の借り”を返済するため、剥奪された家は、無主の辺境を一領地として請求できる――忘れられた古条項です」


 セラフィナは、胸元から小さな紋章札を取り出した。傷ついた銀。ヴェイル家の古い紋。法卓に置く音が、妙に大きく響いた。


「王家はかつて、ヴェイル家の先祖により救われました。王城が陥落しかけた夜の記録は、宮廷文庫に残っております。――その“借り”は、まだ返されていません」


 傍聴席の貴族たちが顔を見合わせた。知らないふりをしていた古い借り。口にすれば、王家の“純潔な正義”に泥がつく。


 アラリック皇太子の表情が、ほんの僅かだけ硬くなる。


「……君は何を望む」


 セラフィナは迷いなく言った。


「ブラックソーン辺境を」


 ざわめきが、悲鳴に近い形へと変わった。


「ブラックソーンだと!?」

「呪われた境界領……」

「死に場所を自分で選んだのか」

「……いや、あそこは領主が立つ前に食い尽くされる」


 ブラックソーン辺境。王国の北端。森は黒く、土は腐り、怪物が湧く。要塞は半ば廃れ、税の取り立ても届かない。誰も欲しがらず、誰も守れず、だからこそ“無主”として放置された地。


 セラフィナの唇が、薄く弧を描いた。


「わたくしは、そこを治めます。王都に戻るつもりも、赦しを乞うつもりもありません。ヴェイル家が剥奪されるなら、剥奪された者の権利で生き延びるだけです」


 ロゼンが冷たく笑った。


「自ら地獄へ赴くと? ならば教会も異議はない。異端の芽が王都に残るより、よほど清い」


 クラリスが小さく息を呑む。だが、その瞳の奥で、安心が瞬いたのをセラフィナは見逃さなかった。


 アラリック皇太子は、しばし沈黙した。ここで拒否すれば、王家が古い借りを踏みにじったことになる。受け入れれば、彼女は王都から消える。――どちらが“得”か。


 皇太子は、慈愛の仮面を貼り直した。


「……よかろう。セラフィナ・ヴェイル。君の求めを、王家の名において認める」


 印璽箱が開く。王家の赤い蝋が溶かされ、羊皮紙に落ち、印が押される。


 その瞬間、広間が息を止めた。


 セラフィナは、紙を受け取らない。受け取るのは勝利ではなく、責務だからだ。彼女はただ一礼した。


「ありがたく」


 勝ち誇った声ではない。泣き崩れる声でもない。淡々と、凍てついた水面のような声。


 ――これで、終わり。そう誰もが思った。


 だが、終わりは来なかった。


 聖壇側の扉が開き、香の匂いが流れ込む。白い法衣の高位司祭が進み出て、壇上に立った。肩には、ルーメン大聖堂の徽章。教会国家の威光そのもの。


 司祭の声が響く。


「王家の裁可、確かに見届けました。――しかし、ここに教会の告示を申し渡します」


 ロゼンが一歩下がり、口角を上げた。クラリスは俯き、祈るふりをする。


「ブラックソーン辺境は、“聖なる禁域”と定められております。そこは神の御業により封ぜられし地。無断で踏み入る者、あるいは統治を試みる者は――」


 司祭は、躊躇なく言い切った。


「破門。ならびに、異端の烙印をもって裁かれる」


 どよめきが爆発する。王家の印を得た瞬間に、教会が縄を締め直したのだ。逃げ道を“追放”ではなく“狩り”に変えるために。


 セラフィナは、静かに顔を上げた。


 皇太子の目が、勝利を隠しきれずに光る。クラリスの涙が、今度は“救いの涙”として輝く。ロゼンは、まるで獲物の首筋を見つけた犬のように微笑んでいる。


 セラフィナは、羊皮紙の赤い印へ視線を落とし、それから司祭へと戻した。


「……なるほど」


 彼女は笑わなかった。怒鳴りもしなかった。代わりに、たった一言だけ、丁寧に返す。


「ならば、わたくしは“破門者の領主”として、あの辺境を生き抜きます」


 広間が凍りつく。


 聖女が息を呑み、審問官長が目を細め、皇太子がわずかに眉を寄せた。


 セラフィナは一礼し、踵を返した。背中に投げつけられる視線は、もはや石ではない。刃だ。けれど彼女は、刃を受ける背中の角度さえ計算して歩いた。


 扉の向こうにあるのは、都の暖炉ではない。


 黒い森と、腐った土と、怪物の夜。ブラックソーン辺境。


 ――王都が“死刑”だと笑うその地へ、彼女は自分の足で向かう。

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