第4話『色彩を取り戻した瞳』

 いつものように、泥のような重苦しい朝が来るはずだった。


 目覚めと共に全身を襲う、鉛を流し込まれたような倦怠感。


 まぶたの裏にこびりついた灰色の残像。


 耳の奥で鳴り止まない、無数の悲鳴にも似た耳鳴り。


 それが、ギルバートにとっての「日常」であり、死ぬまで逃れられない呪いだった。


「……ん」


 けれど。


 今朝、彼を意識の海から引き上げたのは、不気味なほど透明な「静寂」だった。


 痛みがない。


 ギルバートは、恐る恐る目を開けた。


 いつもなら、視界のすべてが薄汚れた灰色に覆われているはずだった。どんなに晴れた日でも、彼には曇天にしか見えない。色彩は失われ、世界はモノクロームの牢獄でしかなかった。


 だが、今の彼の目に映ったのは、信じがたい光景だった。


 高い天井には、艶やかな飴色の木目が走っている。


 窓から差し込む朝日は、眩しいほどの黄金色。


 そして、風に揺れるベルベットのカーテンは、深く、高貴な群青色をしていた。


「……色が、ある」


 乾いた唇から、掠れた声が零れた。


 夢だろうか。


 だとしたら、あまりにも残酷で、美しい夢だ。


 ギルバートは震える手で、自分の顔を覆った。指の隙間から見える世界にも、確かに色が宿っている。


 灰色ではない。棘の影もない。


 ただ、静かで穏やかな朝が、そこにあった。


 なぜだ。


 昨夜、限界に近い穢れの発作に襲われていたはずだ。


 全身を引き裂かれるような激痛の中で、意識を手放した記憶がある。あのまま怪物になり果ててもおかしくなかった。


 それなのに、今の体は嘘のように軽い。


 まるで、降り積もっていた雪が、一夜にしてすべて溶けてしまったかのように。


「……?」


 ふと、ベッドの脇に違和感を覚えた。


 シーツが乱れている。


 そして、ベッドからずり落ちるようにして、何かが床に倒れていた。


 ギルバートは上体を起こし、息を呑んだ。


 そこにいたのは、昨日この城へやってきたばかりの、あの華奢な少女だった。


 エルマ。


 確か、そう名乗っていたはずだ。


「おい……!」


 ギルバートは慌ててベッドから飛び降りた。


 彼女は、冷たいカーペットの上で、糸が切れた人形のようにぐったりとしていた。


 その顔色は、死人のように青白い。


 栗色の髪が乱れ、その隙間から覗く肌には、まるで凍傷のような青紫色の痕が浮き出ていた。


「おい、しっかりしろ! 息は……!」


 抱き上げた体は、氷のように冷たかった。


 生きている人間のものではない冷たさ。


 ギルバートの指先が、恐怖で震えた。


 心臓の音が聞こえないほど微弱だ。呼吸も、今にも途切れそうなほど浅い。


 なぜ、彼女がここにいる?


 俺の部屋には入るなと言ったはずだ。


 それなのに、どうしてこんな姿で倒れている?


 混乱する思考の中で、一つの仮説が閃光のように走った。


 ――昨夜の、あの微かな記憶。


 穢れの嵐の中で、誰かが彼の手を握っていた。


 小さな、温かい手。


 その手が触れた場所から、痛みが吸い出されていくような感覚があった。


 まさか。


 ギルバートは愕然として、腕の中の少女を見下ろした。


 彼女は、俺の穢れを引き受けたのか?


 浄化の力など持たないと言っていた。魔力のかけらも感じられなかった。


 それなのに、俺の中にあった致死量の毒を、この小さな体一つで受け止めたというのか。


「馬鹿な……死んでしまうぞ、こんな……!」


 呻き声と共に、ギルバートは彼女をきつく抱きしめた。


 冷たい。あまりにも冷たい。


 彼女の体温が、命そのものが、穢れという氷に食い尽くされようとしている。


 温めなければ。


 どうすればいい? 医者を呼ぶか? いや、間に合わない。それに、この症状は医学では治せない。


 聖女の力が必要だ。だが、この城には聖女はいない。


 俺にできることは何だ?


 魔力を使えば、余計に彼女を傷つけるかもしれない。俺の魔力は、破壊するためのものだから。


 焦燥感に駆られたギルバートは、本能のままに行動した。


 彼女をベッドへ運び上げることもせず、その場で自分の上着を脱ぎ捨て、彼女を包み込むように抱き寄せた。


 自分の体温を、全て彼女に分け与えるように。


 心臓の鼓動を、彼女の止まりかけた心臓に重ねるように。


「頼む……目を開けてくれ」


 祈るような言葉が口をついて出た。


 これまで、誰かのために祈ったことなど一度もなかった。


 神などいないと知っていたからだ。


 だが、今だけは、どんな理不尽な神にでも縋りたかった。


 この少女は、俺を救おうとした。


 怪物と恐れられ、誰もが忌避する俺の痛みに、自ら触れたのだ。


 なぜだ。


 家族にすら捨てられ、生贄として送られてきた身の上だと聞いた。


 恨んでもいいはずだ。逃げ出してもよかったはずだ。


 それなのに、なぜ、自分の命を投げ打ってまで、俺なんかのために。


 その時。


 腕の中の少女が、微かに身じろぎをした。


 小さく、震えるような吐息が漏れる。


「……ぁ……」


 長い睫毛が震え、ゆっくりと、その瞳が開かれた。


 蜂蜜色の瞳が、ぼんやりと虚空を彷徨い、そして目の前のギルバートに焦点が合う。


「……だん、な様……?」


 消え入りそうな、掠れた声だった。


 けれど、その響きは確かに生きていた。


 ギルバートは安堵のあまり、全身の力が抜けそうになった。


 だが、すぐに腕の力を強め、彼女を逃さないように抱きしめ直した。


「ああ、そうだ。私だ。……わかるか?」


「はい……。あの、重く……ないですか?」


「重いわけがあるか。羽のように軽い」


 こんな時だというのに、彼女は自分の心配をしている。


 ギルバートは、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。それは涙ではなく、長く凍りついていた感情が溶け出した奔流だった。


「なぜ、こんなことをした」


 責めるような、けれど縋るような声になった。


 エルマは、まだ焦点の定まらない瞳で、不思議そうに瞬きをした。


「……だって、痛そうでしたから」


「それだけの理由で、命をかけたのか?」


「……一人で泣いている子供を、放っておく大人はいないでしょう?」


 彼女はふわりと笑った。


 顔色はまだ悪く、唇も白かったけれど、その笑顔は、今朝見た太陽の光よりもずっと眩しかった。


 子供。


 この国の誰もが恐れる『処刑人』を、彼女は泣いている子供だと言ったのだ。


 ギルバートは言葉を失った。


 喉が熱くて、何も言えなかった。


 ただ、彼女の冷え切った手を、自分の大きな手で包み込み、必死に擦り続けることしかできなかった。


「……暖かい」


 エルマが、嬉しそうに呟いた。


 その言葉に、ギルバートはハッとして顔を上げた。


 彼女の視線が、部屋の中を彷徨っている。


 そして、窓の外に広がる青空を見て、彼女の瞳が大きく見開かれた。


「旦那様、見てください」


「……ああ」


「色が……空が、青いです」


 彼女の声が弾んだ。


 その瞳に映る世界が、灰色ではなく、鮮やかな色彩を取り戻していることに、彼女自身が心底安堵しているようだった。


 自分の体がボロボロになっていることなど忘れて、ただ、世界が美しいことを喜んでいる。


 ああ、この人は。


 ギルバートは、胸の奥で何かが決定的に変わる音を聞いた。


 彼女は、俺の身代わりなんかじゃない。


 俺の痛みを受け止め、凍りついた世界に色を取り戻してくれた、たった一人の『灯火』だ。


「……きれいだ」


 ギルバートは呟いた。


 それは窓の外の景色に向けた言葉ではなかった。


 彼の腕の中で、青空を映して輝く、彼女の瞳に向けた言葉だった。


「君が、取り戻してくれたんだ」


 彼は彼女の額に、祈るように額を寄せた。


 伝わってくる体温が、愛おしかった。


 もう二度と、この手を離さない。


 例え世界中の全てを敵に回したとしても、この小さな灯火だけは、俺が守り抜く。


 ギルバートの瞳から、一雫の涙がこぼれ落ち、エルマの頬を濡らした。


 それは、氷の城に訪れた、最初の雪解けの雫だった。

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2026年1月2日 06:00
2026年1月3日 06:00
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氷の城の公爵様は、身代わり花嫁の「痛み」だけを愛せない ~魔力を持たない私が、あなたの孤独を溶かすまで~ 伝福 翠人 @akitodenfuku

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