第3話『あなたが寒くないように』
あてがわれた客室は、広くて、やはり寒かった。
暖炉に薪はくべられていない。ベッドの上には分厚い毛布が重ねられていたけれど、空気そのものが凍りついているようなこの城では、どれだけ布を重ねても心の震えまでは止められそうになかった。
窓の外は、漆黒の闇に包まれている。
降り止まぬ雪が窓ガラスを叩く音だけが、時計の針のように一定のリズムで響いていた。
「……眠れない」
私はベッドから起き上がり、肩にショールを巻きつけた。
寒さのせいだけではない。
胸の奥が、ざわざわと波打っているのだ。
昼間、ギルバート公爵と対峙した時に感じた、あの鋭いガラス片のような痛みが、まだ肌に残っている気がした。
――私の視界には入るな。
彼はそう言ったけれど、その声は拒絶というよりも、何かに怯えているようだった。
彼は一体、この広い城で、たった一人で何と戦っているのだろう。
気がつくと、私は部屋を出ていた。
廊下はさらに冷え込んでいた。
呼吸をするたびに、白い吐息が形を作っては消えていく。壁に掛けられた絵画の額縁には霜が降り、床に敷かれた絨毯さえも、踏むたびにシャリッという硬い音を立てた。
まるで、城全体が呼吸を忘れてしまったかのようだ。
けれど、その静寂の奥底から、微かな「音」が聞こえてくるような気がした。
耳で聞く音ではない。
肌を粟立たせるような、張り詰めた空気の振動。
苦しげで、重苦しい、何かの気配。
私は、吸い寄せられるようにその気配を追った。
廊下を進むにつれて、冷気は濃くなっていく。
指先の感覚がなくなり、まつ毛が凍りつきそうだ。
それでも足は止まらなかった。
その冷たさが、悲鳴に似ていると感じてしまったからだ。
辿り着いたのは、最上階にある大きな扉の前だった。
ここが冷気の中心地だ。
扉の隙間からは、目に見えるほどの白い冷気が漏れ出し、床を這っている。
普通なら、ここで引き返すだろう。これ以上近づけば、命に関わると本能が警告している。
けれど、私は扉に手をかけた。
重い扉を少しだけ開くと、そこは異界だった。
広い寝室。
その中央にある天蓋付きのベッドで、ギルバート公爵が眠っていた。
いや、あれは眠っているのではない。
彼はうなされていた。
額には脂汗が浮かび、苦悶に顔を歪ませ、荒い呼吸を繰り返している。
そして、何より異様なのは、彼の身体から溢れ出している『何か』だった。
灰色の雪だ。
窓は閉ざされているはずなのに、彼の周囲だけ、灰色の雪が舞っている。
それは天井から降ってくるのではなく、彼の内側からとめどなく溢れ出し、部屋中を埋め尽くそうとしていた。
床には黒い棘のような影が無数に走り、彼をベッドに縛り付けるように絡みついている。
『……くっ、ぅ……』
彼が呻き声を上げた瞬間、棘がさらに強く彼を締め上げた。
痛い。
私の胸が、焼けるように痛んだ。
これが『穢れ』の正体なのだろうか。
人々が抱える悪意や絶望。それを彼は、守護者としての義務感から一人で飲み込み続け、処理しきれずに内側から食い破られようとしているのだ。
誰も寄せ付けないはずだ。
こんなものを他人に晒せば、その人は瞬く間に正気を失うか、穢れに侵されて死んでしまう。
だから彼は、毎晩こうして一人きりで、この地獄に耐えている。
誰にも助けを求めず。
誰の手も借りず。
ただ、世界を守るためだけに。
「……なんて、馬鹿な人」
自然と涙が滲んだ。
それは同情などという生温かいものではない。
共感だった。
実家の塔の中で、誰にも名前を呼ばれず、世界から切り離されていた時の私と同じ。
いいえ、それ以上の孤独。
彼は自分の命を薪にして、この国の平和という暖炉を燃やし続けている。
私は部屋に入った。
一歩踏み出すたびに、灰色の雪が私の肌に触れ、ジリジリと焼けるような冷たさを伝えてくる。
視界が明滅する。
世界から色が抜け落ちていく感覚。
怖い。
引き返したいと、身体が叫んでいる。
でも、それ以上に。
彼をこのまま、一人で凍えさせたくなかった。
ベッドの傍らに立つ。
間近で見る彼は、昼間よりもずっと幼く、そして脆く見えた。
銀色の髪が汗で額に張り付き、睫毛が震えている。
私は震える手を伸ばした。
触れれば、私も無事では済まないかもしれない。私の『共鳴』は、他者の痛みを引き受けるだけの欠陥品だから。浄化なんてできない。ただ、一緒に痛むことしかできない。
それでも。
一人で痛むよりは、二人で分け合ったほうが、少しはマシかもしれない。
「……旦那様」
私は、彼の氷のように冷たい頬に、そっと手を添えた。
その瞬間だった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
次の瞬間、視界が真っ白に染まった。
痛い、寒い、苦しい、重い、暗い、寂しい、寂しい、寂しい――!
彼の中に渦巻いていた感情の濁流が、触れた掌を通して、堰を切ったように私の中へ流れ込んできた。
それは言葉になる前の、原初の悲鳴だった。
無数の棘が私の血管を駆け巡り、内側から突き刺してくるような激痛。
灰色の雪が私の心臓に降り積もり、体温を容赦なく奪っていく。
「っ……ぁ……!」
喉の奥から、声にならない嗚咽が漏れた。
膝から崩れ落ちそうになる。
けれど、私は彼から手を離さなかった。離してはいけないと思った。
今、手を離したら、彼は二度と戻ってこれない暗い深淵に沈んでしまう気がしたから。
歯を食いしばり、私は彼の中にある「冷たさ」を必死に吸い上げた。
私に移りなさい。
その灰色の雪も、黒い棘も、凍てつく孤独も。
全部、私が引き受けるから。
私は空っぽの器だから、あなたの痛みを詰める場所くらい、いくらでもある。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた嵐が、ふと凪いだ。
私の体は、芯まで冷え切って、指一本動かせないほど重かった。
視界はモノクロームのままで、色は戻らない。
けれど、目の前のベッドから、あの黒い棘の影は消えていた。
灰色の雪も止んでいる。
「……ん……」
ギルバート公爵の呼吸が、穏やかな寝息に変わっていた。
苦痛に歪んでいた眉間の皺が消え、安らかな表情に戻っている。
まるで、長い悪夢からようやく解放された子供のような顔だった。
「よかった……」
安堵の吐息と共に、私の意識も途切れた。
身体を支える力が抜け、私はそのまま、糸が切れた人形のように床へと崩れ落ちた。
薄れゆく意識の中で、最後に感じたのは、カーペットの毛足の柔らかさと、どこか遠くで聞こえた、誰かの驚くような息遣いだった。
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