第2話『閉ざされた扉と、拒絶する背中』
黒い扉が重々しい音を立てて開く。
その瞬間、私の頬を撫でたのは、鋭い刃物のような、けれどどこか透き通った冷気だった。
足を踏み入れたエントランスホールは、天井が高く、仄暗い。
明かり取りの窓は高い位置にあるものの、分厚い雪に覆われているのか、落ちてくる光は弱々しい青灰色だけだ。
広い。
そして、あまりにも静かだった。
「ごめんください」
恐る恐る声を上げてみる。
けれど、返ってきたのは自分の声の反響だけだった。
人の気配がない。執事やメイドの姿はおろか、足音ひとつ、衣擦れの音ひとつ聞こえないのだ。
まるで、この城全体が巨大な氷の棺の中に閉じ込められ、時が止まってしまったかのような錯覚を覚える。
私はトランクを持ち上げ、ゆっくりとホールを進んだ。
靴音が石床に響くたび、その音が波紋のように広がり、静寂を少しだけ揺らす。
ふと、視界の端で何かがきらりと光った気がして、私は足を止めた。
壁際に置かれた大きな装飾花瓶。そこに活けられた薔薇の花が、あろうことか、そのままの形で凍りついていたのだ。
真紅の花弁の一枚一枚が、薄い氷の膜に覆われ、ガラス細工のように繊細な輝きを放っている。
その隣のサイドテーブルも、上に置かれた燭台も、すべてが薄氷に閉ざされている。
美しい、と思ってしまった。
けれど、それは生命の温かみを奪われた、残酷な美しさだった。
――ここは、生きているものが住む場所ではないのかもしれない。
そんな不安が胸をよぎった時、ホールの奥にある大階段の上から、微かな気配が降りてきた。
冷気だ。
今まで感じていたものよりも、さらに密度が濃く、肌を刺すような寒気。
見上げると、階段の踊り場に人影があった。
逆光で表情は見えない。けれど、その佇まいだけで、彼がこの城の主であることは理解できた。
長身のシルエット。肩にかかるほどの銀髪が、微かな光を吸い込んで青白く光っている。
ギルバート・フォン・アイゼンシュタイン公爵。
私の、夫となるはずの人。
「……誰だ」
落ちてきた声は、予想していたよりもずっと低く、そして掠れていた。
怒声ではない。威圧ですらない。
それはまるで、深い深い井戸の底から響いてくるような、重苦しい響きを持っていた。
私はトランクを置き、その場で深く礼をした。
スカートの裾を掴む指先が、緊張で冷たくなっているのがわかる。
「お初にお目にかかります。王都より参りました、エルマと申します。ソフィア・ローレンツの妹で……この度、公爵様のもとへ嫁ぐよう命じられました」
顔を上げる。彼がゆっくりと階段を降りてくるところだった。
一段、また一段と彼が近づくにつれて、周囲の空気が凍てついていくのがわかる。手すりに霜が降り、彼の足元から白い冷気が這うように広がっていく。
恐ろしい光景のはずだった。
けれど、私の目は彼から離せなかった。
彼の纏う空気が、あまりにも悲痛だったからだ。
階段の最下段で、彼は足を止めた。
私との距離は、まだ十歩以上ある。
ようやくその姿がはっきりと見えた。彫像のように整った顔立ち。けれどその肌は病的なまでに白く、目の下には濃い隈が刻まれている。
そして何より、その瞳だ。
氷河のような青い瞳は、私を見ているようで、何も見ていない。
そこにあるのは、諦めと、拒絶と、そして果てしない疲労だけだった。
「……ローレンツ家か」
彼は私の名を呼ぶことすらせず、忌々しげに吐き捨てた。
その声には、明確な嫌悪が混じっていた。
「聖女が来るとは聞いていたが、まさかこんな……魔力のかけらも感じられない子供を寄越すとはな。あの家は、私を愚弄しているのか、それともお前を捨てたのか」
心臓が、とくんと跳ねる。
図星だった。彼には一目で見抜かれているのだ。私には浄化の力などなく、ただの身代わりであるということが。
「……おっしゃる通りです。私には、姉のような力はありません」
「ならば、帰れ」
即答だった。
彼は私に背を向け、興味を失ったように階段を上ろうとする。
「ここは、ただの人間が生きていられる場所ではない。私のそばにいれば、お前のその小さな命など、三日と持たずに凍りついて砕け散るだろう」
「公爵様、お待ちください」
「帰れと言った!」
突然、空気が爆ぜた。
彼の感情の高ぶりに呼応するように、周囲の冷気が一気に強まり、床の氷がバキバキと音を立てて私の足元まで迫ってくる。
普通の人間なら、悲鳴を上げて逃げ出す場面かもしれない。
けれど、私は動けなかった。
恐怖で足が竦んだのではない。
――痛い。
胸の奥が、軋むように痛んだのだ。
私の能力である『共鳴』が、彼の感情の残滓を拾ってしまったのかもしれない。
今の怒鳴り声の裏側に、鋭いガラスの破片のような感情が混じっていたことに気づいてしまった。
帰れ。
それは「邪魔だ」という拒絶ではない。
「巻き込みたくない」という、悲鳴のような懇願だった。
彼は知っているのだ。自分のそばにいる者がどうなるのかを。これまで何人の人間が、彼の冷気に耐えられずに去っていったのか、あるいは壊れてしまったのかを。
だから、誰も近づけようとしない。
自らを『怪物』と呼び、孤独という氷の壁の中に閉じこもることで、彼は世界を守ろうとしている。
「……帰りません」
私の口から零れた言葉は、自分でも驚くほど静かで、はっきりとしていた。
ギルバート公爵の足が止まる。
彼がゆっくりと振り返る。その瞳には、驚愕と、わずかな揺らぎが浮かんでいた。
「何だと?」
「私には帰る場所などありません。それに……」
私は一歩、彼に向かって踏み出した。
靴底越しに伝わる冷気が、足首を這い上がってくる。寒い。
けれど、この城に満ちている冷たさは、実家で私が浴び続けてきた「無関心」という冷たさとは違う。
これは、誰かを想うがゆえの、優しすぎて不器用な冷たさだ。
「私には、ここが寒すぎるとは思えません」
真っ直ぐに彼の瞳を見つめて、私は告げた。
嘘ではなかった。
この孤独な城の空気は、私の心によく馴染む。
これまでずっと、誰にも見えない透明な檻の中で生きてきた私にとって、彼の纏う孤独は、初めて触れる「同じ色」のものだったから。
ギルバート公爵は、何かを言いかけ、口を閉ざした。
私を見る瞳が、探るように細められる。
しばらくの沈黙の後、彼は小さく舌打ちをした。
「……好きにしろ。だが、後悔しても知らんぞ」
「はい」
「部屋は勝手に使え。だが、私の視界には入るな。……目障りだ」
彼はそう吐き捨てると、今度こそ振り返ることなく、黒いマントを翻して階段を上っていった。
重厚な扉が閉まる音が響き、ホールには再び静寂が戻ってくる。
残された私は、大きく一つ息を吐いた。
緊張が解けて、膝が震える。
拒絶された。歓迎などされていない。
けれど、不思議と胸の痛みは引いていた。
目障りだ、と彼は言った。
それは裏を返せば、私を「そこにいる存在」として認識したということだ。
実家の家族のように、空気のように扱うのではなく、彼は私を見て、私に対して言葉を紡いでくれた。
たとえそれが、拒絶の言葉であったとしても。
「……ありがとうございます、旦那様」
誰もいない階段に向かって、私は小さく頭を下げた。
この城でなら、私は息ができるかもしれない。
そんな予感を抱きながら、私は再びトランクを持ち上げた。
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