氷の城の公爵様は、身代わり花嫁の「痛み」だけを愛せない ~魔力を持たない私が、あなたの孤独を溶かすまで~
伝福 翠人
第1話『灰色の雪が降る日、私は氷の城へ向かう』
窓の外を、灰色の雪が音もなく落ちていく。
空は厚い鉛色の雲に覆われ、どこからが空で、どこからが地平線なのかも判然としない。
世界はただ、白と灰色だけで構成された、退屈で、それでいてひどく静謐な絵画のようだった。
「……随分と遠くまで来たものね」
古びた馬車の窓枠に指を這わせると、指先からじわりと冷たさが伝わってくる。
硝子一枚隔てた外の世界は、生き物の気配を許さない極寒の地だ。吐き出した息が白く曇り、すぐに消えていく。その頼りない白さは、まるで私自身のようだと思った。
王都を出発してから、もう十日が過ぎていただろうか。
車輪が凍った地面を噛む、ゴトゴトという鈍い音と、馬の荒い鼻息だけが、耳鳴りのように響き続けている。
私が生まれ育った家は『太陽の聖女』を輩出する名門で、いつだって暖炉には火が灯り、華やかな花の香りに満ちていた。
けれど、私に与えられた部屋は屋敷の北向きにある塔の一室で、そこだけはいつも、冬のようにひっそりと静まり返っていたのを思い出す。
エルマ。
そう名前を呼ばれることは、稀だった。
色のない子。出来損ない。影。
父も母も、そして太陽のように眩しい姉のソフィア様も、私を見る時はいつも、まるで薄汚れた窓ガラスでも見るような、何も映していない瞳をしていた。
彼らの目に映っているのは私という人間ではなく、私の背後に張り付いた『無価値』という烙印だけだったのかもしれない。
――あの子の代わりに、行ってくれるわよね? エルマ。
出発の朝、ソフィア様は満面の笑みでそう言った。
それは悪意というよりも、無邪気な残酷さだった。私が犠牲になることを微塵も疑わず、むしろ姉の役に立てるのだから光栄でしょう、と本気で信じている声色。
両親は私の顔を見ることもなく、ただ厄介払いができたという安堵を滲ませて、準備された古びた馬車を指差した。
誰も、私のために涙を流さない。
誰も、「元気でね」と手を振らない。
まるで、壊れた家具を納屋へ片付けるような手際で、私はこの北の果てへと送り出された。
だからだろうか。
生贄同然に嫁ぐことになっても、恐怖よりも先に、妙な納得が胸に落ちていた。
ああ、ようやく。
ようやく私は、私に相応しい場所へ行けるのだ、と。
「お、お嬢様……そろそろ『氷の城』が見えてまいります」
御者台から、震える声がかかった。
振り返ると、御者の男性は青ざめた顔で手綱を握りしめ、歯をカチカチと鳴らしている。
彼もまた、恐ろしいのだろう。私たちが向かっているのは、この国の守護者にして、最も恐ろしい『怪物』と噂されるギルバート公爵の居城なのだから。
世界に降り注ぐ『穢れ』――人々の悪意や絶望が澱んだ灰色の雪を、その身ひとつで引き受け、心を凍らせた処刑人。
その体には致死量の毒が蓄積されており、近づく者は皆、その冷気に当てられて正気を失うと言われている。
本来ならば、聖女の浄化によって癒やされるべき存在。けれど、輝かしい未来を持つソフィア様を、そんな怪物の生贄にするわけにはいかないと、両親は私を選んだ。
「ええ、ありがとう」
私は短く答え、息で曇ったガラスを袖口で拭った。
視界が開ける。
雪煙の向こう、切り立った崖の上にそびえる、巨大な影が見えた。
陽の光を一切反射しない、黒曜石のような石積み。尖塔は空を突き刺すように高く、その周囲だけ、吹雪が生き物のように渦を巻いている。
木々も、岩も、すべてが凍りつき、時が止まったような静寂に包まれていた。
あれが、私の新しい墓標になる場所。
不思議と、心臓の鼓動は落ち着いていた。
むしろ、あの拒絶的なまでに静謐な佇まいに、懐かしささえ覚えている自分がおかしい。
降り積もる雪が、すべての音を、すべての色を塗りつぶしていく。
私の中にある空っぽの心と、あの景色は、どこか似ている気がしたのだ。
馬車がゆっくりと速度を緩める。
重厚な鉄の門が、錆びついた悲鳴のような音を立てて開いていくのが見えた。門番の姿はない。まるで、一度入ったら二度と出られない檻が、口を開けて獲物を待っているようだ。
石畳の前で馬車が完全に停止すると、御者は逃げるように荷物を雪の上に下ろした。
「こ、ここまでです! これ以上中に入ったら、俺まで凍っちまう!」
謝罪の言葉もなく、彼は慌てて馬車を反転させると、鞭打つ音と共に雪煙の中へ消えていった。
取り残されたのは、私と、小さなトランク一つだけ。
肌を刺すような寒気が、コートの隙間から入り込んでくる。
けれど、それはただの気温の低さではなかった。
空気そのものが重く、鋭い棘を含んでいるような感覚。呼吸をするたびに、肺の奥がチリチリと痛む。
これが、噂に聞く公爵様の『穢れ』の影響なのだろうか。
私は震える指先でトランクの取っ手を握りしめ、顔を上げた。
目の前には、見上げるような黒い扉。
出迎えはない。
使用人が並んで頭を下げることも、温かいスープの香りが漂ってくることもない。
ただ、圧倒的な沈黙がそこにあるだけだ。
けれど、ふと気づく。
扉の隙間から漏れ出る冷気の中に、微かな震えが混じっていることに。
それは威圧や殺意というよりも、傷ついた獣が巣穴の奥で息を潜めているような、張り詰めた孤独の気配だった。
誰も寄せ付けないのではなく、誰も傷つけないために、自らを閉じ込めているような――。
私は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
新雪がブーツの下で、キュッ、と小さな音を立てる。
その音だけが、世界で唯一の音のように響いた。
さようなら、私の色のない日々。
そして、はじめまして。私の凍りついた旦那様。
私は、冷え切った両手で重い扉に手をかけた。
指先の感覚はもうないけれど、胸の奥に灯った小さな予感だけは、消えずにそこにあった。
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