第5話 マニュアル不在の魔法使いと、暴走する相棒


 ふわり、と浮遊感がほどけた。次の瞬間、背中に硬い土と草の感触が刺さる。

 まぶた越しに日差しが白く滲み、風が頬を撫でた。――アスファルトでも排気ガスでもない。むせるほど濃い、青い匂い。


「……着いた、のか?」


 ゆっくり起き上がる。視界いっぱいに広がるのは草原。遠くに鬱蒼とした森、反対側には石造りの巨大な城壁の影が霞んでいた。空が、やけに高い。


「うおおおおっ! すげぇ! マジで異世界だ! 空気うめぇ!」


 隣で跳ね起きたザキが、開口一番に叫んだ。死んだはずの男が、相変わらず生きるのに全力である。


「おい、ザキ。あまり大声を――魔物が……って、ん?」


 諌めかけて、自分の声に引っ掛かった。高い。若い。喉が十代に戻ったみたいだ。

 慌てて手を見る。シミひとつない滑らかな肌。節くれだった指は細くしなやかで、視線を落とせば腹の重みも消えていた。ローブ越しでも分かるほど、身体が締まっている。


 ……それだけじゃない。


 頭の上がむず痒い。尻のあたりにも、妙な「重さ」と「意思」がある。勝手に動く器官が、そこにあるような。


 恐る恐る頭に手をやると――


 指先に触れたのは、ふさふさした毛並みの良い、三角形の“耳”。


「……マジで、人狼になってるなてか獣人に」


「ぶはっ! シン、それ似合いすぎだろ! 完全にワンちゃんだ!」


 ザキが腹を抱えて笑う。言い返そうとして、俺はザキの姿に目を丸くした。


 燃えるような赤髪のツンツン。革鎧の隙間から覗く筋肉は、ギリシャ彫刻みたいに鋭く削れている。三十年前の水泳部時代より、はるかに仕上がっていた。


「……お前、すげぇ体してんな」


「だろ? この筋肉があれば無敵だぜ!」


 ポーズを取ると大胸筋がピクピク動いた。暑苦しい。胃もたれしそうな生命力だ。


「さて……まずは状況確認だ。あのふざけた神様、ステータス画面くらい用意してるだろ」


 俺は空中へ意識を投げる。『ステータス、オープン』。


 視界に、半透明の青いウィンドウが展開された。


【名前】シン(神詠 仁之進)

【種族】ライカンスロープ

【年齢】16歳

【スキル】

・鑑定

・魔法マスタリ

・体術マスタリ


「……ん?」


 俺は『魔法マスタリ』を指で叩いた。……反応なし。詳細説明も、呪文一覧も、チュートリアルも出ない。


「……おい。使い方が書いてないぞ」


 試しに手のひらを前へ突き出し、適当にイメージしてみる。

 火球。ファイアボール。メラ。火よ出ろ。――


 ……シーン。


 草が揺れるだけ。風が抜けていく。魔法は沈黙したままだ。


「マジかよ。スキルはあるのに発動方法が分からん。詠唱か? 特定のポーズか? ……マニュアルのない家電じゃねぇか」


 今の俺は、ただの「魔法使いのコスプレをした格闘家」である。


「おーいシン! 俺のステータスすげぇぞ! スキルに『超加速』ってのがある!」


 ザキが無邪気に報告してきた。嫌な予感しかしない。


「……おい、待て。テストするなら段取りを――」


「よし、早速テストだ! あの木まで競争な! スキル――『超加速』!!」


 ドォン!!


 爆発音みたいな踏み込みの衝撃。ザキの姿が“消えた”。

 いや、消えたんじゃない。制御の利かないロケット花火みたいに、文字通りすっ飛んでいった。


「あ」


 ドガアアアアアン!!


 百メートル先の大木に、赤い流星が激突した。木がへし折れ、土煙が舞い上がる。


「……痛ってぇ〜〜〜! おいシン! これ止まり方わかんねぇぞ!」


「当たり前だ馬鹿者。慣性を考えろ、慣性を」


 溜息をついて歩き出す。倒れた親友は、異世界でも平常運転である。


「とりあえず治してやる。魔法はまだ使えんからな……覚悟しろよ?」


「え? 覚悟? ちょ、待――ギャアアアアッ!!」


 森の入り口に、ザキの絶叫と、骨を無理やり元へ戻す『活法(物理)』の音が響いた。


 ひとしきり騒いだ後、俺たちは遠くの城壁――街を目指して歩き始めた。

 草原を抜けると、踏み固められた土の道に出る。轍がある。人通りのある街道だ。


「へへっ、すげぇなシン。狼の耳ってやつ?」


「ああ。聴覚と嗅覚が鋭くなってる。……ん?」


 風に混じって、微かな匂いが鼻を刺した。鉄錆。いや――血だ。


 耳がピクリと動く。怒号と、金属がぶつかる音。刃鳴り。


「ザキ、前方だ。誰か襲われてる」


「マジか! 行くぞシン!」


 俺たちは街道を駆けた。カーブを曲がった先にあったのは、横転した馬車。周囲を囲む十人ほどの小汚い男たち。粗末な武器、下卑た笑い。――野盗だ。


 馬車の前には護衛らしき兵士が数人、血を流して倒れている。最後の一人が必死に剣を振るうが、多勢に無勢だった。


「ヒャハハ! 観念しな! 女と荷物を置いてきゃ、命までは取らねぇよ!」


「くそっ……!」


 野盗の一人が馬車の中へ手を突っ込み、隠れていた少女を引きずり出そうとしている。

 ベタだ。異世界テンプレの見本市みたいな光景。――だが。


「てめぇら! 寄ってたかって何してやがる!!」


 俺が止める間もなく、赤髪の筋肉馬鹿が吠えた。


 ザキは腰の剣に触れもしない。素手のまま、野盗の群れへ突っ込んでいく。


「あ、おい待てザキ! 作戦を――!」


「うおおお! 正義の鉄拳んんん!」


 聞いてない。知ってた。

 俺は深く溜息をつき、ローブの裾をまくり上げた。


 魔法は使えない。だが、この身体能力(ステータス)なら――実家の道場『神詠一灯流』の技は、全盛期以上に振れるはずだ。


「……仕方ない。援護するぞ、ザキ!」


 地面を蹴り、俺も戦場へ躍り出た

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