第4話 「境界線の侵食」

朝、目覚めた瞬間から、俺の身体は俺のものではなくなっていた。


ベッドから起き上がろうと手をついた瞬間、ミシッという嫌な音が響いた。見ると、鋼鉄製のベッドフレームが手の形に凹んでいる。


「嘘だろ……」


昨夜、鉄山のルーンを捕食した影響だ。身体能力が急激に向上している。だが、それは同時に、日常生活を破綻させる要因でもあった。


洗面所で蛇口をひねろうとして、ハンドルをねじ切りそうになる。歯磨きをすれば歯ブラシの柄が折れ、タオルで顔を拭けば生地が裂ける。


鏡の中の自分を見る。顔色は土気色で、目の下に深いクマができている。だが、それ以上に気になるのは、瞳の奥に宿る冷たい光だった。


人を殺した者の目。


「俺は、松本蓮だ」


鏡に向かって呟く。それは確認であり、祈りでもあった。


階下に降りると、母さんと美月が朝食の準備をしていた。


「おはよう、蓮。顔色悪いわよ?」


母さんが心配そうに振り向く。その瞬間、俺の視界に母さんの首筋の血管が浮き上がって見えた。青い線が透けて見える。


ドクン。


右太ももの心臓が反応する。渇きが喉を焼く。


「ちょっと寝不足で」


声を絞り出し、テーブルに着く。


「お兄ちゃん、最近変だよ?なんか、近寄りにくいっていうか」


美月が首を傾げる。その距離、わずか50センチ。手を伸ばせば——。


思考を振り払い、箸を取る。目玉焼きを口に運ぶが、やはり味がしない。身体が人間の食事を拒絶している。


「しっかり食べなさい。就活で忙しいのは分かるけど、体調管理も大切よ」


母さんの優しい言葉が、刃物のように胸に刺さる。


俺が本当に食べているのは、人間の心臓が変化したルーンだけだ。そんなこと、口が裂けても言えない。


食事を終え、家を出る。玄関で振り返ると、美月が窓から手を振っていた。


その笑顔を守るために、俺は昨夜、人を殺した。そしてこれからも、殺し続けなければならない。


大学への通学路は苦痛の連続だった。聴覚が鋭敏になりすぎて、数百メートル先の会話まで聞こえてくる。無数の心臓の鼓動が、不協和音となって脳に響く。


ノイズキャンセリングのイヤホンを耳に押し込み、最大音量で音楽を流してようやく正気を保った。


キャンパスに着くと、いつもより学生たちがざわついていた。


「おい蓮!これ見たかよ!」


食堂で慶がスマホを突きつけてきた。


「……何だよ」


「Twitterでバズってる動画!『渋谷の人食い影』だってさ!」


画面を覗き込む。ブレた映像の中に、夜の路地裏が映っていた。黒い影のようなものが一瞬横切り、画面が激しく揺れて途切れる。


心臓が凍りついた。映っていた場所は、俺が最初の狩りをした雑居ビルの近くだ。


「……ただのフェイク動画だろ」


動揺を隠して答える。


「でもさ、最近の連続失踪事件と関係あるんじゃないかって噂なんだよ。マジでヤバい奴がいるのかもな」


慶は興奮気味に語る。彼にとって、これは刺激的なエンターテインメントに過ぎない。だが、俺にとっては死刑宣告に近い。


「蓮、最近お前変だぞ?なんか隠してることない?」


慶の目が探るように俺を見つめる。親友だからこその鋭い勘。


言いたい。助けてくれと叫びたい。でも、言えば慶を巻き込むことになる。


「……就活が上手くいってなくてさ」


また嘘を吐く。また一つ、壁が厚くなる。


午前の授業は倫理学だった。白髪の教授が穏やかな口調で語り始める。


「今日のテーマは『人間の定義』についてです。皆さん、人間とは何でしょうか?」


学生たちが適当に答える。「理性を持つ存在」「言語を使う動物」「社会を形成する生物」。


「では、もし理性を失ったら?言語を話せなくなったら?その人は人間ではなくなるのでしょうか?」


その言葉が俺の胸に突き刺さる。


俺は、まだ人間なのか?


「松本くん、どう思いますか?」


突然指名され、頭が真っ白になる。


「人間とは……境界線の上にいる存在だと思います」


口が勝手に動いた。


「境界線?」


「はい。人間と動物の境界、理性と本能の境界、善と悪の境界。その線の上で常に揺れ動いているのが人間だと思います」


「面白い視点ですね。では、その境界線を越えてしまった者は?」


「……もう、戻れないんだと思います」


俺の声は震えていた。


「でも、それでも戻ろうとする意志があるなら、まだ人間なんじゃないでしょうか」


教授は深く頷いた。


「素晴らしい。人間性とは、状態ではなく意志なのかもしれませんね」


昼間の捕食者

講義が終わり、俺が図書館に向かう途中、背後から優雅な声が聞こえた。


「大変だね、人間としての生活を演じるのも」


振り返ると、神宮寺陸が立っていた。今日も完璧な身なりで、手にはカフェラテを持っている。


「……何の用だ」


「冷たいな。同期のよしみで心配してあげているのに」


陸は近くのベンチに座るよう促した。人通りの多い場所だ。昼間のルールにより、互いに攻撃はできない。


「あの動画、見たかい?君だよね」


「……」


「脇が甘いよ、蓮くん。影の操作なんて派手な能力を使えば、目立つのは当たり前だ」


陸はカフェラテを一口飲み、続けた。


「真祖・夜刀零様の配下である『掃除屋』たちが、今頃動画の削除と目撃者の始末に動いているはずだ」


「掃除屋……?」


「人間社会に紛れ込んだ協力者たちさ。警察、メディア、ネット企業。ヴァンパイアの支配は、君が思っているよりずっと深く浸透している」


陸は俺の顔を覗き込んだ。


「君の不始末を尻拭いさせられた彼らは、君を良く思わないだろうね」


「脅しに来たのか?」


「忠告だよ。……それと、君の妹さん、可愛いね」


ドクン。


右太ももの心臓が跳ね上がった。全身の血液が逆流するような怒りが湧き上がる。


「テメェ……!」


立ち上がろうとして、陸が手を上げて制した。


「忘れたのかい?昼間のルール。殺意を持って攻撃すれば、君が死ぬ」


陸は楽しそうに目を細める。


「手なんて出さないよ。ただ、君がいつまでその『家族ごっこ』を続けられるか、興味があるだけさ」


陸は立ち上がり、去り際に振り返った。


「今夜、道玄坂の裏通りで面白いものが見られるよ。君も来るといい。この街の真実を教えてあげる」


放課後、俺は時雨堂を訪れた。


巌はカウンターで古い時計を修理していた。


「動画の件か?」


俺が口を開く前に、巌が言った。


「削除作業は進んでるが、コピーが出回ってる。完全に消すには時間がかかるだろうな」


「俺のせいで……」


「気にするな。新米の通る道だ。それより、お前、昨夜鉄山を喰ったな?」


「はい。力の制御が難しくなっています」


巌は作業の手を止め、俺を見た。


「適合率が上がってる証拠だ。だが、急激な成長は精神を蝕む。鉄山の記憶や衝動に流されるな」


巌は棚から分厚いファイルを取り出した。


「ヴァンパイア社会の階層を教えておく。新米の上には中級、上級、そして真祖がいる」


ページをめくると、ピラミッド型の図が描かれていた。


「東京の真祖は夜刀零。表では大企業のトップ、裏ではヴァンパイアの支配者だ」


「神宮寺陸が、その夜刀に取り入ろうとしているんですね」


「ああ。だが、お前はまだその段階じゃない。今は力を蓄えろ」


巌はカウンターの下から短剣を取り出した。


「これを持って行け。特殊合金製で、影の能力と相性がいい」


俺は短剣を受け取った。ずっしりと重い。


「それと、今夜は道玄坂には近づくな。危険すぎる」


「でも、陸が——」


「罠だ。お前を試すか、配下にするつもりだろう。まだ早すぎる」


店を出ると、日は既に傾いていた。


陸の挑発が頭を離れない。美月の名前を出された以上、逃げるわけにはいかない。


俺はスマホで家に電話をかけた。


『はい、松本です』


美月の明るい声。


「美月か。兄ちゃんだけど。今日は戸締まりをしっかりして、誰も家に入れるなよ」


『どうしたの急に?』


「最近物騒だから。心配でさ」


『分かった。お兄ちゃんも気をつけてね』


電話を切り、太陽が沈むのを待った。


路地裏で変身の激痛に耐える。全身の骨がきしみ、筋肉が膨張する。人間の殻が剥がれ落ち、化物が顕現する。


変身完了。


俺は短剣を握りしめ、影を流し込んだ。刀身が黒く染まり、闇のオーラを纏う。


巌の忠告に背くことになるが、俺は逃げるわけにはいかない。


家族を守るために、俺は戦う。


「行くぞ」


俺は影に身を沈め、道玄坂の裏通りへと向かった。


夜の教室

道玄坂の裏通りは、異様な静寂に包まれていた。


街灯の多くが消され、薄暗い闇が辺りを支配している。だが、俺の夜目には、至る所に潜む気配が見えていた。


5体、6体……10体以上のヴァンパイアがいる。


「来たね、蓮くん」


ビルの屋上から、陸の声が降ってきた。黒い翼を広げ、王のように見下ろしている。


「待っていたよ。君なら必ず来ると思っていた」


「美月に手を出させないために来た」


俺は影の短剣を構える。


「フフッ、家族思いだねぇ。でも安心したまえ。今夜は君に『授業』をしてあげるだけだ」


陸が指を鳴らすと、周囲に潜んでいたヴァンパイアたちが姿を現した。


「紹介しよう。彼らは皆、夜刀様の配下になりたがっている新米たちだ。でも残念ながら、枠は限られている」


陸の声に、残酷な響きが混じる。


「だから今夜は『選考試験』をすることにした。君も参加したまえ。最後まで立っていた者が、僕と戦う権利を得る」


「断る」


「断る権利はないよ。なぜなら——」


陸が翼を広げる。その瞬間、青白い電光が周囲を駆け巡った。


「君の妹の居場所を知っているからね」


怒りが爆発しそうになる。だが、ここで感情に任せれば陸の思う壺だ。


「分かった。やってやる」


「よろしい。それでは——始めたまえ」


陸の合図と共に、周囲のヴァンパイアたちが一斉に動き出した。


俺は短剣を構え、影を操作する。


生き残るために、俺は戦う。そして最後に、陸を倒す。


美月の笑顔を守るために。


夜の授業が始まった。血と影の、残酷な教室で。

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