第3話 「影の洗礼」
夜の渋谷は、昼間とは全く別の生き物だった。
ネオンの光が極彩色に街を染め上げ、酔客と若者たちの喧騒がアスファルトに反響する。だが、一歩裏通りに足を踏み入れれば、そこは死と暴力が支配する狩場となる。
俺、松本蓮は、雑居ビルの屋上に身を潜めていた。
変身後の身体は軽やかで、十階建てのビルの屋上まで壁面を蹴って登ることなど造作もなかった。冷たい夜風が頬を撫でていく。人間だった頃なら凍えていただろうが、今の俺には心地よい。
「腹が……減った」
無意識に漏れた言葉に、自分でも驚く。
昼間に摂った食事は、何の栄養にもなっていなかった。右太ももの心臓が、激しく渇きを訴えている。ルーンだ。ルーンを寄越せと叫んでいる。
眼下を見下ろす。無数の人間が蠢いている。彼らの心臓が、まるで熟れた果実のように見える。温かい血液が皮膚の下を流れているのが、透けて見えるような錯覚さえ覚える。
もし、ここから飛び降りて、手当たり次第に襲ったら?
そんな危険な誘惑を、俺は必死に理性で抑え込んだ。
違う。俺が狙うのは人間じゃない。ヴァンパイアだ。
黒崎巌の言葉を思い出す。『理性を保つために、他のヴァンパイアを殺して喰うしかねえ』。
同族喰らい。共食い。言葉にするだけで吐き気がするが、やらなければ俺が理性を失い、家族を襲うことになる。
俺は意識を集中させた。視覚ではない、もっと別の感覚。昨夜、ルーンを食べた時に目覚めた感知能力だ。
街のノイズの中から、異質な波長を探り当てる。
ドクン、ドクン。
人間のそれとは違う、重く、力強い鼓動が複数聞こえてくる。
見つけた。
道玄坂の裏手、古い雑居ビルの三階から血の匂いが漂っていた。
俺は影を使ってビルの外壁を登り、窓から中を覗き込む。薄汚れたワンルーム。そこには信じられない光景が広がっていた。
黒いパーカーを着た男が、ベッドの上で若い女性に馬乗りになっている。男の顎は異様に膨らみ、そこから骨のような突起が数本伸びていた。その先端は鋭く尖り、血で濡れている。
床には既に二体の人間の死体が転がっていた。
「お前さぁ、俺に見つかったのが運の尽きなんだよ。この階、今日だけで何人分だと思う?」
男が女の涙を指ですくい、そのまま舐める。俺は吐き気を堪えた。
女の脈拍はまだ安定している。間に合う。
俺は窓の外枠に小さな影の針を生成し、静かにガラスの四隅を切断した。音を立てないよう、慎重に。
「影の針(シャドウニードル)」
男が女に夢中になっている隙を突き、俺は影でガラスを持ち上げた。
ガシャン!
ガラスが内側に倒れ込み、破片が男の背中に突き刺さる。
「あぁ!?何だテメェ——」
驚いて振り向く男の顔面に、俺は影の針を三本叩き込んだ。
「ぎゃああっ!目が、目があああ!」
男がのたうち回る隙に、俺は窓から部屋に飛び込んだ。
「大丈夫か!」
ベッドの女は恐怖で声も出せずにいたが、まだ致命傷は負っていない。
「テメェ……新入りかよ……!」
床で暴れていた男が立ち上がる。その背中から、蜘蛛の脚のような骨の突起が五本ほど突き出していた。
「新入りはテメェの方だろ。ルールも守れねえで、好き勝手やってんなよ」
「ここは俺の狩り場だぞ!弱え奴から喰うのは当たり前だろうがよ!」
交渉の余地はない。やるしかない。
男の骨脚が一斉に俺に向かって射出される。速いが、見える。俺は影の盾を展開して攻撃を受け止めた。
「影の盾(シャドウシールド)!」
ガンガンと重い衝撃が腕に伝わる。だが、俺の狙いは防御ではない。
男が攻撃に集中している隙に、俺は足元の影を操作して男の影を踏みつけた。
「影の拘束(シャドウバインド)!」
「あ?」
男の動きが一瞬止まる。その隙に俺は距離を詰め、影の刃で男の胸部を貫いた。
「影の刃(シャドウブレード)!」
ザクリ。心臓を破壊する手応え。男の身体が光の粒子となって崩れていく。
地面に残されたルーンを、俺は迷わず口に運んだ。もう躊躇はなかった。
ガリッ。濃厚な液体が口内に広がり、男の記憶の断片が流れ込んでくる。
「ありがとう……ございました……」
女の震え声が聞こえた。俺は彼女のロープを影で切断する。
「警察が来る前に逃げろ。俺がここにいたことは忘れろ」
俺は影に潜り、その場を後にした。
時雨堂に戻ると、巌がカウンターで煙草を吹かしていた。
「帰ってきたか。生きてるってことは、最低でも1つは喰ったんだな」
「1つです」
「新米にしちゃ上出来だ。で、どうだった?」
「……人を助けることはできました。でも、やっぱり気持ち悪い。ルーンを食べる時、少しだけ美味いと思ってしまった」
「当たり前だ」
巌は淡々と言った。
「お前はヴァンパイアだ。ルーンを美味いと感じるのは自然なことだ。それを否定するな。ただし——」
巌は俺の目を見据えた。
「美味いと感じることと、快楽のために殺すことは別だ。その境界線を見失うな」
巌は立ち上がり、棚から古びた手帳を取り出した。
「これは俺が200年間で学んだ戦闘技術の記録だ。お前の影の操作、まだまだ荒削りだ。もっと効率的な使い方がある」
「教えてください」
「いいか。影ってのは単なる暗がりじゃねえ。光の裏側にある『実体』だ。物質として扱うこともできるが、空間として利用することもできる」
巌は自分の影を操作し、手の形を作ってみせた。
「影の領域(シャドウドメイン)。これを覚えろ。周囲の影を支配し、その空間内では絶対的な優位に立てる」
俺は真剣に聞き入った。生き延びるために、強くならなければならない。
格上との戦い
時雨堂を出た俺は、再び狩りに向かった。まだ夜は長く、もう一体は狩る必要があった。
道玄坂のホテル街裏手にある廃ビルの地下駐車場。そこから強い気配を感じ取った。
地下に潜入すると、広い空間の中央に大柄な男が立っていた。筋肉質の身体、両腕の鎖の刺青。その足元には若いヴァンパイアの死体が転がっている。
「チッ、またハズレかよ。最近の若造はルーンの質が悪くていけねえ」
男は地面のルーンをスナック菓子のように放り込んだ。
「誰だ?コソコソ隠れてねえで出てきな」
バレた。俺は覚悟を決めて影から姿を現す。
「おやおや、見ねえ顔だな。俺は鉄山。この辺りの縄張りを管理してる中級ヴァンパイア様だ」
中級。昨日の「鴉」よりも格上だ。
「挨拶もなしに俺のシマに入り込むとは、いい度胸だな。新入りのルーンは新鮮で美味いからな」
交渉の余地はない。
「影の針!」
俺は無数の針を射出したが、鉄山は腕を振るっただけで全て叩き落とした。
「甘ぇよ!俺の能力は『鋼鉄化』だ!」
鉄山の腕が鈍い金属光沢を帯びる。皮膚を鋼鉄に変える能力か。
「喰らえ!」
鉄山が地面を蹴る。巨体に見合わない速度で迫ってくる。
俺は影の盾で受け止めようとしたが、凄まじい衝撃で壁に叩きつけられた。
「脆い、脆いなぁ!」
追撃が来る。鋼鉄の拳が俺の顔面を狙う。
避けられない。
その瞬間、巌の教えが蘇った。『影は空間として利用できる』。
俺は影を盾にするのをやめ、自分の身体を影で包み込んだ。
「影潜り!」
鉄山の拳が俺の顔面を貫通する——かと思われた瞬間、俺の身体は影に沈み、壁の影へと移動していた。
「あ?消えた?」
鉄山が困惑する隙に、俺は彼の背後から飛び出す。
「影の刃!」
膝の裏を切り裂く。鋼鉄化していない関節部分を狙ったのだ。
「グオォッ!」
鉄山が体勢を崩す。
「チョロチョロと!」
鉄山が裏拳を放つが、俺は再び影に潜って回避する。
そして今度は、鉄山の真下から飛び出した。
「そこだ!」
影の刃を脇腹に突き立てる。
「ガァァァッ!」
だが、鉄山は全身を鋼鉄化させ、その質量で俺を押し潰してきた。
影に潜る暇がない。俺の左腕が潰される。
「ぐあああああっ!」
激痛。視界が白く染まる。
「捕まえたぜ。終わりだ」
鉄山の手が俺の喉を掴む。頸動脈が圧迫され、意識が遠のいていく。
だが、俺にはまだ切り札がある。俺の心臓は喉にはない。右の太ももにある。
俺は痛みに耐えながら、残った右手に全神経を集中させた。
巌の教えを思い出す。『影は実体でもあり、空間でもある』。
ならば——影は、わずかな隙間さえあれば、どこにでも入り込める。
「影の侵食(シャドウコローション)!」
俺の影が鉄山の毛穴、微細な傷、そして影そのものを通じて体内に侵入する。
「ガ……ハ……?」
影が鉄山の体内で心臓を鷲掴みにする。
「な、んで……中から……?」
「終わりだ」
俺は影の手を握り潰した。
ドパンッ。
鉄山の胸の中で心臓が破裂する音。巨体が崩れ落ち、光の粒子となって消えていく。
後に残されたのは、拳大の巨大なルーン。
記憶の奔流
鉄山のルーンは昨夜のものとは比べ物にならないほど濃厚だった。
強烈なエネルギーが体内に流れ込み、潰された左腕が急速に再生していく。
それと同時に、鉄山の記憶が流れ込んできた。元は工事現場の作業員。事故で死にかけ、ヴァンパイアとして覚醒。最初は怯えていたが、やがて力に溺れていった過程。
『力こそ全てだ。弱い奴は死ぬ』
鉄山の歪んだ哲学が俺の脳内に焼き付けられる。
「うっ……!」
俺は頭を抱えた。違う。俺はそんな風にはならない。
だが、身体の奥底で何かが囁く。『いい気分だろう?勝ったんだ』
快感。勝利の味。俺はそれを否定できなかった。
これが、人間性を失うということなのか。
地上に出ると雨が降り始めていた。路地裏を抜けて大通りに出ようとした時だった。
「やるじゃないか、蓮くん」
聞き覚えのある声。街灯の上に黒い翼を広げた男が止まっていた。
神宮寺陸。
「見ていたのか?」
「ああ。特等席でね」
陸が優雅に舞い降りる。
「鉄山は中級の中でも腕利きだった。それを覚醒2日目の新米が倒すとはね。やはり君は面白い」
陸の瞳が妖しく光る。
「ねえ、蓮くん。僕と組まないか?」
「組む?」
「この渋谷は今、勢力図が不安定だ。真祖・夜刀零様が新しい秩序を作ろうとしているが、それに反発する勢力も多い」
夜刀零。真祖の名前だ。
「僕たちは新米だ。一人では限界がある。でも二人なら、もっと効率よく狩れる。一緒に頂点を目指そう」
陸が手を差し出す。
悪魔の誘いだ。陸と組めば確かに生存率は上がるだろう。だが、彼の手を取れば、俺は確実にこちらの世界に引きずり込まれる。
俺は首を横に振った。
「断る」
「どうして?」
「俺は、お前とは違う。頂点なんて興味ない。ただ、元の生活に戻りたいだけだ」
「元の生活?」
陸は呆れたように笑った。
「まだそんな夢を見ているのかい?戻れるわけがないだろう。君はもう人を殺した。喰らった。その手は血に染まっている」
「それでも……!」
俺は拳を握りしめた。
「俺は人間だ。人間として生きて、人間として死ぬ。お前みたいに、化物の生を楽しむつもりはない」
陸の笑顔が消えた。冷たい、無機質な表情になる。
「残念だよ。君なら理解してくれると思ったのに」
パチッ。陸の周囲で青白い電光が弾けた。
「いいだろう。君がその甘い幻想にしがみつくなら、それもまた一興だ。いつか君が絶望し、全てを捨てて僕の元に来る日を楽しみにしているよ」
陸は翼を広げ、夜空へと飛び立った。
「精々足掻くんだね、人間気取りのヴァンパイアくん」
雨が強くなってきた。俺はずぶ濡れになりながら家路を急いだ。
陸の言葉が胸に刺さっていた。『戻れるわけがない』。
分かっている。そんなことは、痛いほど分かっている。でも、認めたくなかった。認めてしまえば、本当に全てが終わってしまう気がしたから。
自宅の前に着く頃には、雨は土砂降りになっていた。玄関の明かりがついている。母さんが点けておいてくれたのだろう。
その温かい光が、今の俺には眩しすぎた。
「……ただいま」
誰もいない玄関で、小さく呟く。
部屋に戻り、濡れた服を着替える。鏡を見ると、疲弊しきった青白い顔の男が映っていた。
ベッドに横たわる。眠気は来ない。目を閉じると、鉄山の死に顔が浮かぶ。陸の冷笑が浮かぶ。
「俺は……」
天井に向かって手を伸ばす。その手は、影に覆われているように見えた。
俺は強くなった。鉄山を倒せるほどに。だが、それは同時に、人間から一歩遠ざかったことを意味する。
強くなればなるほど、俺は孤独になる。
「助けてくれ……」
誰にも届かない声で、俺は泣いた。雨音だけが、俺の嗚咽をかき消してくれた。
これが、俺が選んだ——いや、選ばされた道だ。影の中で生き、血を啜り、命を奪う。
その先に何があるのか、まだ俺には分からない。ただ一つ確かなのは、明日の夜もまた、俺は誰かを殺さなければならないということだけだ。
境界線の向こう側で、俺の魂は少しずつ、確実に削り取られていく。
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