第2話 「日常という名の牢獄」

目覚めた瞬間、俺は自分が変わってしまったことを理解した。


カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけに眩しく感じる。肌がチリチリと焼けるような感覚。身体は重く、まるで鉛の塊を背負っているようだ。


そして何より、喉が渇いている。


水じゃない。もっと粘度があって、鉄の味がする液体を求めている。


右の太ももに手を当てる。そこで、第二の心臓が不規則に脈打っているのを感じた。ドクン、ドクン、という音が脳に直接響いてくる。


昨夜の出来事は夢じゃなかった。俺は本当に、人間じゃなくなってしまったんだ。


スマホを確認する。午前10時。今日は午後からの授業だけだから、まだ時間に余裕がある。


親友の慶からメッセージが来ていた。


『おい蓮、今日の授業出るよな?ノート貸してくれって昨日言ったろ?』


いつもの軽いノリ。何も知らない慶の、平和な日常がそこにある。


『ああ、出る。後で大学で』


短く返信する。できるだけ普通を装って。


階段を降りると、リビングから朝食の香りが漂ってきた。


味噌汁と焼き魚の匂い。普段なら食欲をそそるはずのそれが、今の俺には妙に生臭く、同時に奇妙なほど食欲を刺激する矛盾した感覚として襲ってくる。


「おはよう、蓮。顔色悪いわよ?就活のストレス?」


母さんが心配そうに振り向く。その瞬間、俺の視界に母さんの首筋の血管が浮き上がって見えた。青い線が透けて見える。あそこを噛み切れば——


思考を振り払うように頭を振る。


「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」


声を絞り出す。自分の声が他人のもののように聞こえる。


テーブルには温かい味噌汁と卵焼き、焼き魚が並んでいる。母さんの手料理だ。


箸を取り、卵焼きを口に運ぶ。


味がしない。


いや、味はある。確かに母さんの優しい味付けは感じる。だが、それが美味しいとは思えない。身体が、別のものを求めている。


「どうしたの?美味しくない?」


母さんが心配そうに覗き込む。


「いや、美味い。すごく美味いよ」


笑顔を作る。演技だ。全てが演技だ。


その時、階段を駆け下りる音が聞こえた。


「お兄ちゃん、起きてたんだ!」


美月が制服姿で飛び込んでくる。


その瞬間、俺の喉が焼けた。


ドクン。


太ももの心臓が激しく脈打つ。美月の首筋に視線が吸い寄せられる。白い肌の下を流れる血液。その温かさ、甘い香り——


食べたい。


「お兄ちゃん?どうしたの、変な顔してる」


美月が不思議そうに首を傾げる。その距離、わずか50センチ。手を伸ばせば届く。


「っ!」


俺は椅子から立ち上がり、後ずさった。


「ご、ごめん。体調悪いかも。部屋で休む」


「え?でも大学は——」


母さんの声を背中で聞きながら、俺は階段を駆け上がった。


部屋に戻り、ドアに鍵をかける。壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。


両手で顔を覆う。震えが止まらない。


美月を、食べ物として見た。大切な妹を、獲物として認識した。


「クソッ……」


自己嫌悪が胸を締め付ける。だが、渇きは消えない。むしろ強くなっていく。


このままでは、いつか——。


スマホのアラームをセットする。日没の時刻、午後5時30分。


それまでは、松本蓮として生きる。それ以降は——化物の時間だ。


午後1時、俺は重い足取りで大学に向かった。


渋谷駅のスクランブル交差点は、昼間の人波で溢れている。すれ違うサラリーマン、学生、観光客。


以前の俺にとって、これはただの風景だった。だが今は違う。


全員が新鮮な血液を持った「食料」に見える。心臓の音がうるさい。数千個のポンプが血液を送り出す音が、不協和音となって俺の鼓膜を叩く。


「おい、蓮!」


背後から肩を叩かれた。心臓が跳ね上がる。反射的に身体が動き、相手の腕を掴みそうになった。


寸前で止める。


そこにいたのは、親友の五十嵐慶だった。


「うわっ、すごい反射神経だな。格闘技でも始めたのか?」


慶が驚いたように目を丸くしている。


「……悪い。ちょっと考え事してた」


無理やり笑顔を作る。


「また就活の話か?お前、真面目すぎなんだよ。俺なんかまだエントリーシート三枚しか出してないぜ」


慶は屈託なく笑う。その笑顔が、眩しくて痛い。


彼とは高校からの付き合いだ。一緒にバカをやり、将来を語り合った仲だ。だが今、俺たちの間には越えられない壁がある。


俺は、慶を殺せる。一瞬で。


その事実が、俺を孤独にする。


「今日の講義、サボってカラオケでも行かね?ストレス発散しようぜ」


「……ごめん。図書館で調べ物があるんだ」


「えー、付き合い悪いなぁ。ま、いいけどさ」


慶と別れ、俺は一人でキャンパスへ向かった。慶と一緒にいるのが怖かった。もし、ふとした拍子に理性が飛んだら——。


大学の図書館は静寂に包まれていた。古書の匂いが、少しだけ俺の神経を落ち着かせてくれる。


人文学部の書架の奥で、俺は哲学書を手に取った。『人間の条件』についての解説書だ。


人間とは何か。人間でなくなった存在は、何と呼ぶべきなのか。


俺はまだ、松本蓮なのだろうか。


「面白い問いだね」


不意に、隣から声がした。


ビクリとして顔を上げる。


そこに立っていたのは、長身の男だった。整った顔立ちに、仕立ての良いジャケット。モデルのような容姿だが、その瞳の奥には冷たい光が宿っている。


見覚えがある。法学部の神宮寺陸だ。成績優秀、容姿端麗、実家は資産家。キャンパス内でも有名なエリート学生だ。


だが、今の俺には別のものが見えた。彼から漂う、同類の気配。


「……あんた、まさか」


俺が警戒して一歩下がると、陸は薄く笑った。


「奇遇だね。僕も昨夜、生まれ変わったんだ。君と同じように」


心臓が早鐘を打つ。こいつも、昨夜覚醒した新米なのか。


「ここで何を——」


「挨拶だよ。同じ夜に覚醒した同期としてね」


陸が一歩近づく。俺は反射的に影を操作しようとした。


しかし、影はピクリとも動かない。


「無駄だよ。昼間は能力を使えない。身体能力も人間並みだ」


陸は楽しそうに俺の耳元で囁く。


「それに、知ってるかい?昼間のルールを」


「ルール?」


「ヴァンパイア同士は、日の出から日没まで殺し合えない。もし殺意を持って攻撃すれば、その瞬間に攻撃した側の肉体が崩壊する」


陸の手が、俺の肩に置かれた。


「つまり、今ここで僕が君の首を絞めても、君が僕を殴っても、本気で殺そうとしない限りはただの喧嘩だ。だが、もし君が『こいつを殺してやる』と念じて攻撃すれば——君は死ぬ」


背筋が凍る。昼間は「冷戦状態」ということだ。お互いに正体を知っていても、手を出せない。


「君、名前は?」


「……松本、蓮」


「蓮くんか。僕は神宮寺陸。よろしく」


陸の手から、微かな静電気が走った。パチッ、という音と共に、鋭い痛みが俺の肩を走る。


「おっと、ごめん。静電気が溜まりやすい体質でね」


嘘だ。今の痛みは明らかに自然現象ではなかった。


「君の能力、昨夜少し見えたよ。影を使うんだね。地味だけど、面白そうだ」


陸は俺の顔を覗き込む。その目は、新しい玩具を見つけた子供のように残酷に輝いていた。


「僕はね、この新しい身体が気に入っているんだ。人間だった頃は、退屈で仕方なかった。法律も、倫理も、社会も、すべてが僕を縛る鎖だった」


彼は恍惚とした表情で続ける。


「でも今は違う。力こそが正義。奪う者と奪われる者、ただそれだけのシンプルな世界だ。素晴らしいと思わないか?」


こいつは狂っている。いや、適応しているのか。俺が恐怖しているこの変化を、彼は心から楽しんでいる。


「俺は……あんたとは違う」


「そうかな?君からも同じ匂いがするよ。血と、暴力の匂いが」


陸は俺の肩をポンと叩き、離れていった。


「また夜に会おう、蓮くん。今夜は僕が狩る番だ。君も気をつけるといい。渋谷の夜は、新米には厳しすぎるからね」


去り際、彼は振り返らずに手を振った。


俺はその場に立ち尽くしていた。昼間なら安全だと思っていた。だが、それは間違いだった。


昼間こそが、最も神経をすり減らす戦場なのだ。


大学を出た俺は、あてもなく渋谷の街を彷徨っていた。


家に帰りたくない。大学にも居場所がない。


陸の言葉が頭を離れない。『新米には厳しすぎる』。


昨夜の勝利はまぐれだ。俺は自分の能力の使い方も、この世界のルールも何も知らない。このまま夜になれば、確実に殺される。


誰か、教えてくれる人はいないのか。


無意識のうちに、足は人通りの少ない裏通りへと向かっていた。円山町のさらに奥、古い雑居ビルが立ち並ぶ一角。


ふと、奇妙な看板が目に入った。


『古物商・時雨堂』


古びた木の看板に、達筆な文字でそう書かれている。こんな場所に店?


店の前を通ろうとした時、ドアが開き、紫煙とともに低い声が聞こえた。


「入れ。迷子の仔犬みたいな顔して突っ立ってんじゃねえ」


驚いて見ると、店の入り口に一人の男が立っていた。


黒いスーツを着た、初老の男だ。白髪混じりの短髪、深く刻まれた皺。手には煙草を持ち、鋭い眼光で俺を見据えている。


その目を見た瞬間、俺は直感した。この男も、同類だ。


だが、陸とは違う。もっと古く、もっと重い空気を纏っている。


「……あんたは?」


「客じゃねえなら帰れと言いたいところだが、昨夜生まれたばかりじゃあ、右も左も分からんだろう」


男は煙草の煙を吐き出し、顎で店の中をしゃくった。


「入りな。日が暮れるまで、少しは教えてやる」


罠かもしれない。だが、俺に選択肢はなかった。


恐る恐る店に入ると、中は薄暗く、埃とカビ、そして古い紙の匂いがした。骨董品や古書が所狭しと並べられている。


「俺の名は黒崎巌。この街で200年ばかり生きてる」


「200年……!?」


「ヴァンパイアにとっちゃ、そう長い時間じゃねえ。……座れ」


巌と名乗った男は、奥のソファを指差した。


俺は言われるままに座り、名乗った。


「松本、蓮です」


「知ってる。昨夜、お前が『鴉』を殺したのを見てた」


心臓が止まりそうになった。見られていたのか。


「鴉ってのは、昨夜お前が喰った男の通り名だ。下っ端だが、それなりに場数は踏んでた。それを覚醒したての新米が殺すとはな」


巌は興味深そうに俺を観察する。


「お前の能力、影の操作か。珍しいな。それに……」


彼の視線が、俺の右太ももに向けられた。


「心臓の位置も、随分と洒落た場所に隠してやがる」


「ッ!?」


俺は思わず太ももを隠した。


「隠しても無駄だ。俺の目は誤魔化せねえ。……安心しろ、バラしゃしねえよ。それがお前の唯一の切り札だからな」


巌は新しい煙草に火をつけ、淡々と語り始めた。


「いいか、小僧。この世界にはルールがある。昼間は殺し合い禁止。これは絶対だ。破れば死ぬ。だが夜は無法地帯だ。力のある奴が生き残り、弱い奴は喰われる」


「俺は……人を殺したくありません」


俺は絞り出すように言った。


「甘えんな」


巌の声が低く響く。


「お前はもう人間じゃねえ。ルーンを喰わなきゃ餓死するか、理性を失って手当たり次第に人間を襲う化物になるだけだ。家族がいるなら尚更だ。理性を保つために、他のヴァンパイアを殺して喰うしかねえんだよ」


突きつけられた現実は、あまりにも重かった。


家族を守るために、人殺しを続ける。その矛盾。


「それとも、死ぬか?ここで俺が介錯してやってもいい」


巌の指先がピクリと動く。それだけで、部屋全体の空気が重くなった気がした。


「……死にたくない」


本音が漏れた。


「生きたいです。妹を、守りたい」


「なら、戦え。奪え。喰らえ。それが俺たちの『生』だ」


巌は立ち上がり、棚から古びた懐中時計を取り出した。


「もうすぐ日が沈む。お前の時間が始まるぞ」


時計の針は、午後5時を指そうとしていた。


窓の外を見る。空が茜色に染まり、影が長く伸びていく。


その影が、俺を呼んでいる気がした。


「行きな。今夜生き残れたら、また来い。少しはマシな戦い方を教えてやる」


「……ありがとうございます」


俺は頭を下げ、店を出た。


夜の帳

外に出ると、太陽はビルの陰に隠れようとしていた。


最後の光が消え、街に夜の帳が下りる。


その瞬間、激痛が走った。


「グ、ゥ……!」


路地裏に倒れ込む。全身の骨がきしみ、筋肉が膨張する。


昼間の人間の殻が破れ、内側から化物が溢れ出してくる感覚。


痛い。熱い。だが、それ以上に、力が満ちてくる。


視界が変わる。暗闇が明るく見え、遠くの音が鮮明に聞こえるようになる。


そして、影が俺に語りかけてくる。足元の影、壁の影、建物の影。全てが俺の一部となり、俺の意思に従う。


変身完了。


俺はゆっくりと立ち上がった。鏡を見なくても分かる。今の俺は、青白い肌と赤い瞳を持つ怪物だ。


腹が減った。ルーンが欲しい。


「……行くぞ」


誰にともなく呟く。


ポケットからスマホを取り出す。画面には、家族の写真が表示されている。


「必ず、帰る」


誓いの言葉を呟き、俺は影の中に身を沈めた。


夜の渋谷へと滑り出していく。もう迷いはない。いや、迷っている暇はない。


生きるために、俺は今夜も誰かを殺す。


人間と怪物の境界線の向こう側で、二度目の夜が始まった。


路地裏の影が、まるで生き物のように蠢いている。俺の影だ。俺の力だ。


そして、俺の呪いだ。

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