第3話 黄金の檻
ヴィオレッタ・アレクサンドリナ・ブリタニアが生を受けた日の記録には、二つの言葉が並んでいた。
祝賀。そして、失望。
王城の礼拝堂には鐘が鳴り響き、祝福の祈りが捧げられた。だがその裏で、王位継承名簿を見下ろした者たちは、同じ感想を胸に抱いていた。
当時、王位は遠かった。
王家には複数の直系王族が健在であり、幼子が王冠に手を伸ばす未来など、誰も真剣には思い描いていなかった。
父エドモンド王子は、穏やかな人物だった。政治的野心を持たず、議場より書斎を好み、王冠魔法についても「力」より「責任」を語る男だったという。
彼は娘を膝に乗せ、難解な魔導書を読み聞かせた。意味は分からなくても、声の調子が好きだった。
それがヴィオレッタにとっての、父の記憶のほぼすべてである。
病は、あっけなく彼を奪った。
王位を継ぐこともなく、娘の成長を見届けることもなく。
父の死は、悲劇であると同時に、政治的な事件だった。
王家において後ろ盾を失うということは、立場の再定義を迫られるという意味を持つ。
ヴィオレッタは、守るべき子から、扱うべき政治的資産へと変わった。
母、ケンブリッジ公妃は、理解していた。この世界で娘を生かすには、甘さは許されない。
彼女は徹底した。
ヴィオレッタの行動範囲は限定され、交友は許可制となり、単独行動は排除された。
階段を一人で昇ることすら禁じられ、夜は必ず母と同室で眠った。
些細な言葉、仕草、すべてが記録され、評価され、修正された。
それは「愛」の名を借りた管理だった。
ヴィオレッタは幼いながらに悟っていた。
これは庇護ではなく、生存戦略なのだと。
教育は厳格だった。
語学、歴史、政治学、神学。
そして、王冠魔法理論。
ブリタニア王家の血に宿る《王冠魔法》は、国と王を繋ぐユニークスキルである。
国家の状態が魔力として王に流れ込み、祝福や誓約、命令として形を成す。
それは強大であるがゆえに、危うかった。
王の感情が乱れれば、国もまた揺らぐ。
だからこそ、ヴィオレッタへの教育は「理解」を求めなかった。
必要なのは、感情の制御と体制への服従だった。
ヴィオレッタは優秀だった。
教えられたことを正確に覚え、感情を表に出さず、期待に応え続けた。
しかしその裏で、彼女の内側には、言葉にならない渇きが育っていった。
自由とは何か。
自分から選ぶとはどういうことか。
彼女は知らなかった。
だが知らないからこそ、強く欲した。
この時期に行われた教育によって培われた、王女としての責任感は、彼女の背骨となった。
そして同時に、自由への希求は、胸の奥で燻る火種となった。
その二つは、決して相容れない。
だが、どちらも彼女自身だった。
幼少期のヴィオレッタは、黄金の檻の中で育った。その鍵が何処にあるのか分からず、扉がいつか開くとも知らずに。
※
聡明だったヴィオレッタは、幼い頃から自分には「普通の少女」として生きる道が用意されていないことを理解し、王女であるが故にそれを受け入れていた。
友人と笑い合う未来も、気まぐれに走り回る午後も、彼女の世界には存在しなかった。
その代わりに与えられたのは、王家の一員としての役割と、それに耐えるための訓練であった。
彼女は学んだ。
感情は、外に出すものではない。
制御し、整え、抑え、必要ならば隠すものだと。
彼女は上手くやった。
ヴィオレッタ王女は冷静で、礼儀正しく、非の打ち所がなかった。だが、その内側では、抑え込まれた感情が、形を変えて溜まり続けていた。
時折、理由の分からぬ苛立ちとして。
あるいは、どうしようもない寂しさとして。
自らを律する力が強いがゆえに、噴き出す時は激しかった。
この極端さこそが、後年の彼女の性質――慎重でありながら、執着深い愛情の土台となった。
家庭内の人間関係は、驚くほど単純だった。
母。
そして、それ以外。
教育係は知識を与える存在であり、侍従は命令を実行する存在、監督者は評価を下す存在だった。
誰も、達成条件なく彼女を抱きしめることはなかった。
褒められる時は、成果を出した時。
叱責される時は、成果を出せなかった時。
愛とは、報酬。
幼かったヴィオレッタが、そう認識するには、十分すぎる環境だった。
王位継承順位が繰り上がるにつれ、彼女の世界はさらに狭くなった。
読書は内容を精査され、会話は記録され、交友は政治的価値によって選別された。
理由は一つ。
王冠魔法の安定。
ブリタニア王家に受け継がれる《王冠魔法(クラウン・マギア)》は、王個人の力ではない。
それは王と国そのものと結びつけるユニークスキルだった。
国土に満ちる魔力は、王を媒介として循環する。
王が安定していれば、魔力は穏やかに循環し、国は穏やかに保たれた。
万が一、大規模な災害が発生しても、王が居れば、災害の規模は小さくなった。
ブリタニア王国において、王は器であった。
国土を巡る魔力の量は計測不能で、王は祝福、誓約、命令といった魔法において、他の追随を許さない。
だが、その代償は大きかった。
魔力の安定は、王の感情と連動していた。
王の心が揺れれば、力もまた揺れる。
王の暴走は、国が不安定になる事に繋がた。
だから、感情は管理された。
笑いすぎず、怒らず、悲しまず。
心を平坦に保つことが、王女の義務だった。
ヴィオレッタは、その期待に応えた。
だが代わりに、彼女は自分の本心を見失っていった。
何を望み、何を恐れ、何に惹かれるのか。
分からないまま、ただ「王にふさわしい反応」を選び続ける。
それでも、感情は消えなかった。
消せなかった。
抑え込まれたそれらは、彼女の中で、より強い形を取る準備を進めていた。
一人の人間として、誰かと触れ合いたい。
その願いは、まだ言葉にならない。
だが、この王女の心の奥で、確かな重さを持って息づいていた。
王冠の下で育った少女は、人の愛し方を知らなかった。
だからこそ、知った時には、もう戻れないのだ。
他者が自分自身を見てくれた時、彼女がどれほど深く、その人を想い続ける存在になるのかを。
※
デビュタントの祝賀の灯りは眩しすぎた。
周囲からの視線、期待――すべてがヴィオレッタの胸を圧し、呼吸を浅くする。
ついヴィオレッタは、人の流れを縫って庭へ逃れた。
そこで、彼女は出会った。
一人の青年がいた。
銀縁の眼鏡越しに、文字を追う横顔を見た瞬間、ヴィオレッタは、思わず息を潜めた。
(……嘘、よ)
常に感情と結びつき、不安定に鼓動していた《クラウン・マギア》が、別の調律を得たかのように整い始めたのだ。
国の力の奔流は、荒さを失い、一定の律動へ移ろう。王女の身と魂は、国の魔力を受け止める器。
心の揺れは、そのまま国の不安へと繋がる。
その重みが、今、この青年のそばでほどけていく。
彼女は、無意識に一歩近づいた。
もう一歩――
その瞬間、別の気づきが胸に芽吹く。
——怖くない。
王女でも、器でもない。
ただのヴィオレッタとして、息ができる。
「……あの」
声を抑え、彼女は言った。
「助けてくださって、ありがとう」
青年は一拍、言葉を探す仕草をして、眼鏡の奥から彼女を見た。
「いえ。通りすがりで、たまたま目についただけです」
「あなたは……」
「ルシアン・フォン•ヴァイセンブルク。……この国には、公務で参りました」
彼は人差し指で眼鏡を押し上げ、今日の天気を告げるような淡々とした口調で名を名乗った。
この落ち着き払った青年が、ヴィオレッタの結婚相手として有力視されている人物だった。
思考が、止まった。
肩をすくめる彼に、喉の奥が熱くなる。
彼にとって王女は職務上の対象でしかない。
その無関心が、なぜか心地よかった。
地位も責任も、王冠の力も関係ない。
彼は、ここにいるヴィオレッタを見ていた。
(わたしは、安心してるんだ……)
そして同時に、この得難い感覚の源を、絶対に手放したくないという熱い渇望が、彼女の胸の奥で、静かに燃え上がり始めていた。
「ルシアン。もう少し……ここにいても、いいですか?」
王女としてではなく。
一人の少女として。
縋り付くように願っていた。
※
夜会のざわめきが一段落し、楽団が調子を変えた。
社交ダンスの時間だ。
「……お相手、お願いしても?」
ヴィオレッタは平然とした声音を保っていたが、胸の内は忙しなく揺れていた。
断られるわけがない。王女なのだから。
それでも――なぜか落ち着かない。
「喜んで」
ルシアンは穏やかな笑みで応じ、形式通りに一礼した。
その仕草が、あまりにも整いすぎていて。
(なに、その顔……)
業務用。
完全に、役割としての対応。
それに気づいた瞬間、ヴィオレッタの胸に小さな棘が刺さった。
こんな感情、普段なら抱かない。
王女として扱われることには慣れているはずなのに。
音楽が流れ、二人はフロアへ出る。
ルシアンのエスコートは非の打ち所がなく、危なげもない。
安全で、無難で、正解ばかり。
(……つまらない)
自分でも驚くほど、幼い不満だった。
ヴィオレッタは唇を噛み、次の瞬間――
わざと、彼の足を踏んだ。
「っ」
ほんの一瞬。
ルシアンが目を見開き、彼女を見つめる。
(怒る? 困る?)
どちらでもいい、と半ば投げやりに思ったその時。
彼は小さく息を整え、まるで何かを読み取ったかのように、視線を和らげた。
――ログが、告げていた。
目の前の女王が抱え込んだ孤独と、不器用な苛立ちを。
「……大変失礼しました、殿下」
そう言ってから、彼は初めて“彼女”を見る目で視線を合わせた。
責める色はなく、ただ、ひどく優しい。
ルシアンは一歩身を寄せ、彼女の手を包み込んだ。
逃げ道を断つほど強引ではなく、それでも指先から意思を伝える。
抗うという選択肢だけを、そっと奪っていく導きだった。
ヴィオレッタは、途端に視線を逸らしてしまった。
(なに、これ……)
王女としてではなく、
ヴィオレッタという一人の少女として手を引かれ、身体を寄せられる。
耳まで熱くなるのを、自覚した瞬間だった。
「……〜〜っ!」
熱を帯びた頬を、彼の胸元へと押し当てる。
真紅に染まった顔を隠すように、そして逃げ場を求めるように。
ルシアンの鼓動が、薄い布越しに伝わり、それがかえって、彼女の羞恥を煽った。
ルシアンは素知らぬふりをしたまま、歩調を合わせた。
ヴィオレッタの胸の奥で、渇きが満たされていく。
この人は、私のものだ。
もう、離したくない。
デビュタントの夜、ヴィオレッタは誓ったのだ。
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