第2話 公国の輸出品
蒸気を吐く鉄の巨体が、白い城壁の影に滑り込む。
降り立ったヴァイセンブルク公都の空気は、湿った石と古いインクの匂いがした。
ルシアン・フォン・ヴァイセンブルク、北方内陸に位置する学問の国・ヴァイセンブルク公国の第二王子。
社交の季節(アルビオン・シーズン)――四月から七月までの、大国ブリタニアでの王配探しという名の「見本市」から、彼は帰還した。
舞踏会、晩餐会、オペラ、慈善行事……。
彼の目的はただ一つ、「公国の最も完成度の高い輸出品」として、国が求める結婚相手の候補となること。
完璧な立ち居振る舞いを、無感動にこなしての帰還だった。
「おかえり。どうだったね、ブリタニアは」
父、エルンスト・フォン・ヴァイセンブルク公は執務室で、冷めた茶を前に、慣例の問いを投げた。
「……めぼしい女性はいたかね?」
ルシアンは一拍、間を置いた。
脳裏を横切ったのは、王宮の庭園、植栽の影、近すぎた距離。
あの時、わずか数分、社交ダンスで触れた瞬間に垣間見た、彼女の過去の断片。
紫がかった濃紺の瞳が、不意に、鮮烈な残像としてフラッシュバックした。
「私からは特に。ただ、諸事、公国の名に恥じぬよう卒なくこなしました」
問いは軽く、答えも形式的。それで話は終わった。
「では、失礼します。アカデミーに戻ります」
形式通りの礼を残し、ルシアンは部屋を後にする。
誰にも引き留められない背中は、彼が「外交カード」でしかない第二王子であることを、如実に物語っていた。
※
ヴァイセンブルク公国は、総人口数十万人程度の小国故に、常に大国間の均衡の上で、バランスを取る事を強いられてきた。
外交手段として選んだのが、学問と魔導研究、婚姻外交だった。
他国の王侯貴族の教育機関として名を馳せる一方、他国との王室婚姻で影響力を広げる姿勢から、「アルビオンの王配工場」と揶揄されることもある。
第二王子として生を受けたルシアンは、ヴァイセンブルクの最も完成度の高い「輸出品」となるべく、育てられてきた。
父は温厚で文化的と評されるが、家庭に重きを置く人物ではなかった。
母ルイーゼ公妃は厳格で、王侯としての規律を最優先する教育者だった。
魔法理論、数学、歴史、倫理、語学。
課された課題を果たせば評価される。
それ以外の形で己れの価値を示す術を、彼は教えられなかった。
両親の関係は早くから冷え、やがて別居に至る。幼いルシアンは父の宮廷に残され、形式上の庇護の下で育った。
家庭的な温もりとは縁遠い環境だった。
期待に応えることでのみ、自分の価値が定まる。
その認識は、彼の内面に深く根を張った。
学術面では早くから才を示した。
構築魔法――魔法陣を設計図として理解し、再構成する分野。
教師たちは舌を巻いたが、本人はそれを才能とは捉えなかった。
「これしかできないから、やっただけです」
賞賛は常に居心地の悪さを伴った。
※
アカデミーの研究棟は、いつも淡いインキと薬品の香りが漂っていた。
ルシアンは机に向かい、魔法陣の改良案を描く。
彼のユニークスキル――《ライフ・ログ》。対象の過去の行動履歴を読み取る能力だ。
対象の情報量が多いほど、精度は上がる。履歴書程度の情報でも、性格や嗜好の輪郭は把握できた。
この能力は、魔法陣の再構築において真価を発揮する。
陣を描いた人物の履歴を知ることで、作成者の意図を読み取り、無駄や歪みを修正する作業の効率を上げる事ができた。
対象の過去の行動履歴を、膨大な情報として読み取る異能。
そのおかげで、ルシアンは魔法陣の再構築で天才的な才能を発揮したが、それは同時に、彼の人生から「人間的な色彩」を奪った。
愛。友情。熱狂。
全ては行動履歴という情報として流れ込んでくる。
母の感情を伴わない教育的愛情。
母からの手紙は、今も届いていた。
学問的助言は丁寧だが、感情に触れる言葉は少ない。
愛情は確かにある。
だが、甘えを許すような接し方ではなかった。
父の放蕩。
父の放蕩な振る舞いを、彼は冷静に観察するようになる。
父の行動履歴をつぶさに知ることで生まれたのは、反発ではなく、男女関係に関する失望に近い感情だった。
全てを知り、全てを理解できたからこそ、彼は感情から切り離された。
「自分は、こうなってはならない」
それは、この呪いのような異能が、ルシアンに与えた唯一の「戒め」だった。
※
アカデミーの研究棟にこもり、淡いインクと薬品の香りに囲まれる日々。
ルシアンの極めて情感に乏しい、色彩の無い日々の果てに、ただ一人、「彩りを持った」少女がいた。
デビュタントの日、庭園で出会ったヴィオレッタ・アレクサンドリナ・ブリタニアだった。
華奢な体格。
深いダークブラウンの髪。
紫がかった濃紺の瞳。
社交ダンスで触れた瞬間、ルシアンの瞳に映った彼女の過去の断片。
王室内の冷たい視線。
継承権争いの影。
王冠魔法の奔流に打ちのめされる自分。
自分を傀儡としようとする者達の束縛。
その全てに怯えながら、それでも前を向こうとする、彼女の「生」の激しい記録。
彼女の内側にある、誰も信じられないという「世界から見捨てられたような孤独」と、それに真っ向から対決しようとする「圧倒的な情熱」が、情報として流れ込んで、ルシアンの心に焼き付いていた。
気づけばルシアンは、思考実験を始めていた。
もし自分が、ブリタニア王国の王配になったら。
自分の学術的な知識、政治的な中立性、そして「異能」は、王冠魔法の安定化やブリタニアの国益、そして何より、ヴィオレッタの孤独に、本当に貢献できるのだろうか?
——自分は、彼女の役に立つかどうか。
それは、ルシアンにとって、初めての思考や感情だった。
※
ヴィオレッタのデビュタントから二年の月日が流れた。
ルシアンの名は学会で知られるようになったが、彼の内面は変わらない。己れは役に立つか否か。それだけが基準だった。
ある日、研究室に一通の封書が届いた。
深い青の封蝋。王冠の紋章。
ブリタニア王国女王、ヴィオレッタ・アレクサンドリナ・ブリタニアからの夜会への招待状だった。
デビュタントの後、彼女は二年をかけ、ついに女王に即位したのだった。
即位を正式に内外へ示す、節目の席。
そして、新たな王配候補を選定する場。
ルシアンは封を切り、文面を読み、小さく息を吐いた。
手紙を介して、二年間の彼女の「ログ」が垣間見える。
胸の奥で氷のように冷え切っていたはずの感情の炉心が、説明できない熱でわずかに揺れた。
彼女はもう、王女ではない。国と直結する女王だ。
だが、何故かあの庭園で見た、感情豊かな少女の面影が消えない。
彼女の孤独と情熱の「ログ」が、ルシアンの脳裏に焼き付いたままなのだ。
「……行かないという選択肢は、無いよね」
自らに言い聞かせるように呟き、彼は招待状を机に置いた。
今はただの外交カードの一つとして。
彼の人生の歯車は、再びヴィオレッタという運命の座標に向かって動き出した。
ただ、ルシアンは本当の意味で、まだ理解していなかった。
招待状の向こう側で、大国の女王となった彼女が、どれほど深く「慕情」を込めて、待ち焦がれているかを。
「もう、逃がさない。私の人生に、あなたという運命を刻み込むの」
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