女王様と一緒
黄昏一刻
第1話 プロローグ
ブリタニア王国、
白い大理石のフロアに、透き通るような硝子の回廊。その全てに祝賀の音楽が、厳かに満ちていた。
デビュタントの日。
王女ヴィオレッタ・アレクサンドリナ・ブリタニアが国を保つ「生きた魔力の容器」として、内外に示される儀式。
十二枚重ねられたドレスの重さは、王権そのもの。身につけた大粒の宝石は、王族という名の鎖だった。
微笑みの角度は 15度。瞬きの回数は 1分間に 12回。歩幅の寸法は 40センチ。全てが厳しく管理され、測られ、記録される。
「……息が、詰まる」
誰にも聞こえない声で呟き、彼女は裾をつまみ上げた。
側近の注意が音楽に向いた、その一瞬を縫うように、扉の影へと身を滑らせる。
——少しだけ。
風に触れたいだけ。
王宮の広大な庭園。
中心の喧騒から離れた一画は、ひっそりとした静けさを湛えていた。
濃密な夜露に濡れる薔薇のアーチを抜け、祝賀の噴水音を遠ざけた先。
古い植栽の陰、苔むした石のベンチに、一人の青年が腰掛けていた。
ただ、本を読んでいる。
それだけの、あまりにも静謐な光景。なのに、ヴィオレッタの足は、まるで魔法にかけられたかのように止まった。
銀縁の眼鏡。整えられた淡い金色の髪。
年齢は同じくらいか。
貴族の装いではあるが、式典向けの華美さはない。
周囲から切り離されたように、ページの文字へ意識を沈めている。
——誰?こんな場所に、こんな人が?
名も地位も知らない。けれど、全身の重圧に張りつめていた胸の奥が、ドクン、と強く脈打ち、同時に何か熱いものがほどけた。
その瞬間、背後から焦燥に満ちた声が届く。
「王女殿下はどこだ!こちらへ逃げたはずだぞ!」
——不味い。
王女としての「現実」が、容赦なく、彼女の肩を掴みに来る。
ヴィオレッタは反射的にベンチの青年を見た。初めて、二人の視線が真正面から絡み合う。
青年は顔を上げ、この一連の状況を、一息で完全に理解したようだった。
「……後ろの植栽の中にどうぞ」
小声。淡々とした響き。
ヴィオレッタは問答の暇もなく、彼の指示に従い、分厚い葉の陰に身を潜めた。
植栽の陰。二人の距離は、腕を伸ばせば触れ合えるほど、異常に近い。
ヴィオレッタは思わず息を殺した。
だが——
(……嘘、よ)
その時、ヴィオレッタは、驚愕の感覚に捕らえられた。
彼女の身体の奥、ブリタニア王権と直結した《クラウン・マギア》の魔力。
常に彼女の感情と共鳴し、不安定に脈打っていた「国の力の奔流」が、いま、均一で、静かな、揺らぎのない振動を刻み始めたのだ。
彼女の肉体と魂は国の魔力の「容器」。
感情の乱れは、国の魔力不安に直結する。
故に、王女の心は常に張りつめ、この重圧こそが、彼女を縛る王冠の鎖だった。
だが、今。この青年との至近距離。
その重圧が霧のように消え去り、奔流だった魔力が、完璧に整然と、静かに流れている。
ヴィオレッタは、息を潜めながら、青年の無感情に見える横顔を見つめた。
無意識のうちに、彼に近づく。
もう少し近くに…..
その時、側近たちがこの一角に到達する。
「こちらに、長いダークブラウンの髪の、小柄な女性が来ませんでしたか?」
「申し訳ありません。読書に集中していたので、他の方の姿には全く気付きませんでした」
ルシアンは、手元の分厚い魔導書から目を離さず、平坦な声で答えた。彼の声には、嘘の色も、焦りの色も、一切なかった。
植栽の外を、足音が過ぎていく。
捜索の声が遠ざかるにつれ、別の気づきが、彼女の中で芽を出した。
——怖くない。
王女としてではなく、国の器としてでもなく。
ただのヴィオレッタとして、こんなにも安らかに呼吸ができている。
「……あの」
声を潜めて、彼女は囁いた。
「助けてくださって、ありがとう」
青年は一瞬、言葉を探すように瞬いた。
静かに、その銀縁の眼鏡の奥から、彼女の顔を見つめる。
「いえ。通りすがりで、たまたま目についただけです」
「あなたは……」
「ルシアン・フォン•ヴァイセンブルク。……この国には、公務で参りました」
彼は眼鏡の位置を人差し指で直し、まるで今日の天気を報告するかのように言った。
「公務……?」
ヴィオレッタは瞬きをした。
公務にある人間が、祝賀の最中に植え込みの陰で魔導書を読んでいるものだろうか。
「ええ」
ルシアンは本を閉じ、涼しげな瞳をヴィオレッタに向ける。
「私はヴァイセンブルク公国の第二王子です。……本日は、ブリタニア王女殿下のデビュタントに、祝辞を述べに参加させていただきました」
——は?
ヴィオレッタの思考が一瞬、停止した。
ヴァイセンブルク公国。ブリタニアの隣国であり、魔導技術における盟友。
その第二王子。
つまり彼は、今日の主賓の一人であり——。
(わたしの結婚相手の、有力候補じゃない……!)
王女(わたし)を祝うために来た王子が、王女(わたし)と一緒に、式典をサボっている。
ルシアンは、目の前の少女が、その「王女殿下本人」であることにはまだ気づいていない様子で、小さく肩をすくめた。
「もっとも、主役の王女殿下にお目にかかる前に、こうして脱走してしまいましたが」
ふ、と。
ヴィオレッタの喉の奥から、乾いた笑いが漏れそうになる。
彼にとって王女は「公務の対象」でしかなく、興味の対象外なのだ。
彼の表情は冷静で、整然として、まるで感情というものが存在しないかのように見える。
しかし、その静かに開かれた瞳の奥には、ヴィオレッタが装う「王女の仮面」ではなく、彼女自身を見極めようとする、純粋な知性の光が見えた。
地位も、名誉も、王冠の魔力さえも関係ない。
ただ、ここにいる一人の人間として、彼はヴィオレッタを見ている。
この静謐な存在の傍にいると、孤独が薄れ、常に自分を苛む「王としての義務」の重みが、まるで彼の魔力によって浄化されるかのように軽くなる。
(わたしは、安心してるんだ……)
国の重みを一人で背負うことだけが自分の存在意義だと信じていた少女は、初めて、安心という、年相応の感情を知った。
そして同時に、この得難い感覚の源を、絶対に手放したくないという熱い渇望が、彼女の胸の奥で、静かに燃え上がり始めていた。
ルシアンを見つめるヴィオレッタの視線が、熱を帯びていることには、彼はまだ気づいていなかった。
「ルシアン」
名を呼ぶ。
ただ、それだけで、乱れかけた魔力がまた整う。
ヴィオレッタは確信する。
この人の近くにいると、私は壊れない。
「もう少し……ここにいても、いいですか?」
王女の命令としてではなく。
一人の、孤独な少女として。
ルシアンは少し考え、頷いた。
「構いません。あなたを逃した責任を問われた方たちの、首が飛ぶギリギリまででしたら」
その皮肉が、なぜか可笑しくて、愛おしくて。
ヴィオレッタは、初めて満たされた胸の内で、小さく、けれど固く宣言した。
——見つけてしまった。
王冠よりも先に。
この人は、私のものだ。
私は恋に落ちた。
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