チョコレートクイーンは真実の雨に濡れる
ぽぽこぺぺ
【1】 バイオトイレ
じゃきり。じゃきり。
私の耳には、乾いた地面を踏みしめる音だけが響いている。
目の前に続くのは、無造作に組み上げられた丸太の段差。それは、雄大な尾根に沿って無限に続いていた。
「ふぅ……はぁ……ふぅ……はぁ……」
じゃきり。じゃきり。
三十路手前の、すっかり萎んでしまった肺胞が、酸素を求めてヒュウヒュウと悲鳴を上げている。
足を上げる一歩が、どんどん重くなる。
最初は軽やかだった太ももが、今は鉛のようになっている。
「ふふっ……やっぱり……辛いね」
思わずこぼれる独り言。
じゃきり。じゃきり。
やがて、私の肉体と山の空気が少しずつ混ざり合っていく。
体の輪郭が少しずつ溶けだして、土と、木々と少しずつ1つになっていく。
頭の中は、白い、ぼんやりとした浮遊感に包まれて、私はただの「足を進めるだけの物体」になる。
そうすればもう——あとはこちらのものだ。
私の小石を嚙み砕く音だけが、ただ空気中に溶けては消えていく。
私の中に微かに残っていた、時間の感覚すら解けて無くなってきた頃、ようやく小さなトタン屋根と、簡素な壁板の山小屋が見えてきた。
人々の騒ぎ立てるような声と、コーヒーやカップラーメンの混ざった匂いが流れてくる。
空が一段大きくとこちらに近づいた、その瞬間——
目の前には雄大な景色が広がった。
どこまでも続く、深く、青い空気が重なり合った空。
綿あめのように、雄大に泳ぎ揺蕩っている雲。
地の果てまで連なっている長い長い尾根筋。
何度見たって飽きないこの景色。
世界の全てを支配したような、甘美な感触。
私は、私は確かに立っている。
山の一番てっぺんに!
「う……ぉあぁああああ! つかれたああーーーー!」
思わず、両手を上げ、空を仰ぐ。
こんなに登ったのに、空は全く近くなってなくて、むしろ私を吸い込もうとすらしてくる。
胸が高鳴り、わくわくが止められない。
疲労感ですら、心地よく私の全身に広がっていて、私を興奮させるスパイスでしかない。
フリースの中も、私の結んだベージュの髪も、すっかり汗でベタついてしまったけれど、その気持ち悪さすら、今は愛おしくて、抱きしめたい気持ちになっている。
私は、座れる岩場を適当に見つけると、鮭のおにぎりに、チョコレートのビスケット。魔法瓶に入れたブラックコーヒーを取り出した。
街では、コンビニでちょちょっと手に入るもの。
これがさ、今この瞬間はとんでもない一級品に感じられるんだよね。
ほぐした鮭の切り身は繊維の一本一本がケバ立っているし、白いお米はつぶれても冷えても食べられるように絶妙な炊き加減だし。
コーヒーなんて、ただのインスタントを適当なお湯でといただけなのに、1000円近い喫茶店の一杯よりも遥かに香り高いんだ。
だから、本当に本当に好きな時間。
——でも、私の今日のメインディッシュはこれじゃない。
本当の私は、もっと生臭くて、どろどろとしていて、誰かと繋がることに飢えている臆病な私。
私は、本当の自分を見つめるためにここに来たんだ。
***
荷物をまとめて一気に背負うと、山小屋の脇にある小さな建物へと向かっていく。
入り口に掲げられた「協力金100円」の文字と、小さい賽銭箱のような硬貨の投入箱。
私はちゃりんと、1枚投げ入れると扉を開け、中へと滑り込む。
扉を開くと異様な熱気と、不自然な程の木材の濃い匂いが顔中にぶつかってきた。
半畳程の小さなスペースに、何人もの靴で運ばれた土の汚れ。
何かが飛び散ったような水跡。
主を失った蜘蛛の巣や、吹き溜まりの埃。
フタのついていない、陶器の便座が中央に寂し気にそびえ立っていた。
「あちゃー外れ……か」
思わずつぶやいてしまった。
バイオトイレ。
排泄物を分解し、土へと還すことができるトイレ。
培養層を攪拌するモーターの駆動音が絶えず鳴り響いている。
「エコなのは分かるけどさ……私にはちょっと違うんだよね」
私は、文句をいいつつも、用意してもらっているフックにリュックをかける。
固くガサついているズボンと、汗ばんだ下着をするすると脱いでいく。
露わになった身体をそっと便座に押し付けると、冷たい感触が電流のようになってぞわりと全身を駆け巡った。
それでも私は、身体をぎゅっと押し付けて、少しずつ私の体温を冷たい陶器に馴染ませていく。
やがて、私と、便座が、結ばれて一つになる。
山にしては清潔過ぎるその便器は、瞬く間に私の排泄物を飲み込んでいく。
培養層は、乱暴に私の分身達を、瞬く間に食らいつくして、つまらない何かの物質に変えてしまうのだろうか——
ううん。
微かに、感じる。
まだ分解されていない誰かの匂いが。
知らない誰かから排出された、その人の全ての声が。
分解される前の、最後のひと時を惜しむかのように、静かに静かに混ざり合っているのが分かる。
今、この瞬間、私は確かに誰かと繋がっている。
1人じゃないってはっきり思えるんだ。
とっておきの時間をしっかり噛みしめると、私はゆっくりと立ち上がる。
そして、大きく息を吐くと、名残を惜しむように便座に、私の分身たちに別れを告げた。
「——いってきます」
私にはまだ、このあと3時間に迫るだろう長い長い下りと、新しい1週間の生活が待っているんだから。
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