第1話 ずれゆく朝
日が昇る前、家の外はまだ冷えていた。
霧が低く垂れ、森と畑の境が溶けている。少年はすでに起きており、畑の端で土を起こしていた。
森の方を見る。まだ薄暗く、奥は見えない。
鳥の声は少ない――というより鳴くはずの時間に鳴っていなかった。
風はあるのに枝が擦れる音もしない。
今日はいつもと違い、どこか不気味だ。
家に戻ると母がすでに起きていた。
「アル、手を洗ってきなさい」
声は穏やかだった。
アルは頷き、畑仕事で汚れた手を洗う。
ほどなく奥の部屋から物音がした。
扉が開き妹のミアが顔を出す。
「もう朝?」
寝癖のまま目をこすっている。
アルは一瞬だけ見て視線を外した。
「おはようミア。朝だよ」
「早すぎる」
不満そうに言いながらもミアは椅子に腰を下ろす。
母が苦笑し、器を並べた。
父はすでに席に着いていた。
外の方を向いているが何を見ているのかは分からない。
朝食は
だが、足りないわけではない。湯気の立つ器が四つきちんと並ぶ。
ミアが先に手を伸ばす。
「今日は、あとで森に行くの?」
誰にともなく投げた問いだった。
「行くかもね」
アルはそう答えた。
ミアはそれを聞いて特に意味もなく頷く。
「じゃあ帰りに何か拾ってきて」
「考えておく」
約束はしなかった。
ミアもそれ以上は言わない。
父は黙って食べている。
母は微笑み、飲み物を注いでいた。
やがて器が空になり、湯気が細くなった。
朝食が終わると、父は指を軽く鳴らした。
器が一つずつ宙に浮かび、ゆっくりと重なっていく。水の膜が張られ、汚れが落ちる。手際は良いとは言えないが、手間取ってる様子もない。
ミアがそれを眺めながら言った。
「父様それ、遅いよ」
「いいだろ。割れない」
父は苦笑し最後の器を棚に戻した。
母は何も言わず布で
「アル」
父が呼ぶ。
家の外へ
二人で外に出ると朝の
畑の端まで歩き父は立ち止まる。
「明日、町へ行ってほしい」
頼む、というよりは任せる口調だった。
「肉を売って、塩と布を。あと油もあれば助かる」
「承知しました」
アルは即座に答えた。
町へ行くこと自体にためらいはない。
父はそれを見て少し安心したようにも見えた。
だが、すぐに視線を外す。
「頼んだぞ。売るものは今日中に用意しておくから。……町は、好きだろう?」
「はい」
短い返答だった。
「人が多い。話も集まる」
父は言葉を選んでいる。
否定するつもりはないが、そのまま流すこともできない。
「最近、戦の話が増えた」
アルは何も言わない。
否定も肯定もしない。
「戦は思ってるよりも厳しいものだ」
父はそう言って、畑の向こうを見る。
森ではない。空の方だ。
「手柄を立てられるのはほんの一握りで大半は死んでしまう。弟……アルの叔父さんは戦で亡くなったんだ」
声は静かだった。
怖がっているようにも、脅しているようにも聞こえない。ただの事実を口にしているだけだ。
「戦へは、行くな」
言い切りだった。
強くはないが、引く気もない。
アルは少し間を置いた。
「……分かりません」
否定はしなかった。
だが、約束もしなかった。
そのとき、家の方からミアの声がした。
「父様! ちょっと手伝って!」
何かを落としたらしい。
父は振り返り、すぐにそちらへ戻る。
「今行く」
そう言って、父は行ってしまう。
話は終わった。
アルは一人、畑の端に残った。
森から微かな風が抜ける。
朝はまだ少し続いている。
だが、少しだけなにかがずれてしまった気がした。
アルは後ろ髪を引かれながらもそのまま森へ向かった。
昼の森は明るすぎた。
影が短く、光が真上から落ちている。葉の隙間を抜けた日差しが地面を照らし、湿った土の匂いを浮かび上がらせていた。時間は分かるがどれほど経ったかは意識していない。
いつもの場所だ。家から遠すぎず、人も来ない。足元の地面は踏み固められ、倒木や岩の位置もほとんど覚えている。
立ち位置を決め、呼吸を整える。
深く吸い、短く吐く。それを数度繰り返してから、身体を動かした。
最初は、型だった。
誰に教わったものでもないが、毎日繰り返してきた動きだ。
木を削って作った木刀を握る手の位置、足の運び、踏み込みの角度。ひとつずつ確認するように無駄を削っていく。力は入れない。速さも求めない。正確さだけを残す。
次に力を流す。
魔法を溜めるのではなく、通す。
踏み込み、木刀を振った。
やがて森の音が消えた。
風はある。
だが枝が鳴らない。鳥の声も落ちない。動かされた空気だけが、遅れて戻ってくる。
倒れた木があった。
途中から、無い。折れた跡も、切り口も見当たらない。根元だけが地面に残り、周囲には削れた木片が粉のように散っている。
少し離れた岩は、割れてはいなかった。
表面だけが薄く剥がれ、撫でたような筋が走っている。欠けた破片は見当たらず、削ぎ落とされた分だけが足元に溜まっていた。
踏み込みの跡は一つだけ残っている。
深く、真っ直ぐで、乱れがない。
アルは一連の結果を見て手を開いて閉じる。
感触に違和感はなかった。
これでいい。
いずれ役に立つ。戦があればこういう力は必要になる。
家族のためだ。
そう思えばここに来たことは正しくなる。
だが、その言葉は長く留まらない。
胸の奥には、別の感覚が残っている。満ちるでもなく、消えるでもない。薄い空白だ。
今日のところはこんなものか。
アルはそう判断した。
森を出る。
壊れたものはそのまま残る。
それはどこまで届いているのだろうか。
昼の光は強く、影は短い。
だが、その影は確かに濃くなり始めていた。
夜は静かだった。
家族が眠りについたあと、父は一人外に出ていた。
月は出ていない。雲の向こうで光が
風はある。
だが、森は鳴らなかった。
昼の気配がまだ森に残っている。
父は畑の端まで歩き、しゃがみ込む。
土に触れる。湿り気は残っているが崩れない。踏み固められた痕が一本だけ、真っ直ぐに伸びていた。
深い。
人の体重だけで付く深さではない。
父は目を閉じる。
魔法の感覚をわずかに開く。大きくは使わない。確かめるだけだ。
森の奥で何かが沈んでいる。
暴れてはいない。荒れてもいない。
ただ、重い。
「……やはり、か」
小さく呟いた。
誰に聞かせる言葉でもない。
アルの顔が浮かぶ。
こっそりと見た昼間の背中。木刀を握る手。迷いのない動き。
あれは、教えて身につくものではない。
血が濃い。
思っていた以上に。
父は、しばらく動かなかった。
「……ご先祖様が喜んでしまうな」
声に出すと、夜に溶けて消えた。
答えは返らない。
家の方を見る。
灯りは落ちている。ミアも、妻も、眠っているはずだ。
守りたいものはまだそこにある。
だが、それが守られるとは、誰にも分からない。
父は立ち上がり、森に背を向けた。
振り返らない。
「……あの子に、危険が及びませんように」
それは祈りでも、命令でもなかった。
ただの願いだった。
夜は静かだった。
だがその静けさは、安心のためのものではない。
何かが、確かに育っている。
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誰が焔を終わらせたか 〜覇王と影の物語〜 スザキトウ @suzakito
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