夜は焼け爛（ただ）れていた。

　聖域の外周から火が回り、湿った木材が腹の底を殴るような音を立てて爆（は）ぜる。煙が低く溜まり、目と喉を刺した。息を吸うたび、焦げた布と脂の匂いが肺に貼りつく。血の生温かさが、空気に混じっている。

　地面はぬかるんでいた。

　泥ではない。血と臓物（ぞうもつ）と灰が混じった、滑る床だ。

　踏み込むたびに何か柔らかいものが潰れる。骨の感触、裂けた肉、折れた指。確かめる必要はなかった。ここではどれも同じ肉片だ。

「前へ！　前へ出ろ！」

「火が回るぞ、離れろ！」

「中にいる、逃がすな！」

　怒号が飛びすぐに途切れる。

　金属がぶつかる音。刃が肉に沈む鈍い手応え。短い悲鳴が上がり、喉を裂かれたように消える。戦は続いている。確かに続いているはずなのに。聖域の内側へ進むほど、それらは背中に押し戻されどこか遠い世界のように感じた。

　ここは神聖な場、剣を抜いてはならぬ場所だった。

　誰の敵でも誰の味方でもない。

　血を流す前の最後の逃げ場。

　――そんな言葉は今では瓦礫（がれき）の下だ。

　男は歩く。

　鎧に大きな傷はない。刃も濡れていない。煤（すす）と血飛沫が付着しているだけだ。戦場の真ん中を通ってきたはずなのに一度も斬り結んでいないように見える。その事実がこの場では異様だった。

　天井が低く唸る。

　梁（はり）が裂け、火の粉が降る。

　熱が肌を刺し、鎧の内側で汗が冷える。

　それでも足取りは変わらない。

　騒がしいはずなのに自分の足音だけが男の耳にはっきりと聞こえる。

　男は扉の前で立ち止まる。

　向こう側にはまだ火が届いていない。

　血の匂いだけが薄く漂っている。

　剣の柄に手を置く。

　力は込めない。ただ、そこにあることを確かめる。

　背後で誰かが叫ぶ。

　名を呼んでいるようにも聞こえた。

　だが、はっきりとはしない。

　男は振り返らない。

　扉の向こうにこの夜の目的がある。

　それだけが確かだった。

　扉の向こうは静かだった。

　床には死体が転がっている。

　数は多くない。どれもが急所を断たれ無駄な傷はない。血はまだ温かく、湯気のように立ち上っている。ここでつい今まで斬り合いがあったことは疑いようがなかった。

　覇王（はおう）は中央に立っていた。

　剣を下げ、肩で息をしている。鎧は裂け、返り血が頬にこびりついているが立ち姿は崩れていない。目だけが異様に冴え、火の反射を弾いていた。

　男が姿を現すとその目がわずかに揺れた。

　しかし、すぐに落ち着く。

「……来たか」

　声は掠れている。

　疲弊（ひへい）の色は濃いが恐れはない。怒りもない。

　それどころかどこか安堵に近いものが混じっていた。

　男は答えない。

　剣を抜かず、距離を詰めもしない。

　ただ、そこに立つ。

　覇王は視線を男から外し足元の死体を一瞥（いちべつ）する。

「骨のある連中だった」

　それだけ言って喉を鳴らすように笑った。愉快そうでもあり、どこか壊れてもいる。

　外から怒号が割り込む。

「中を押さえろ！」

「逃げ道を潰せ！」

　火の粉が扉の隙間から吹き込み、床を焦がす。

　覇王は剣を握り直さない。

　命令もしない。

　男に向けて、何かを求めるでもない。

「良き人生だった」

　誰に向けた言葉でもない。

　自分に言い聞かせるような声だった。

　男は一歩、踏み出す。

　その動きだけでここまで積み上げられてきたすべてが、すでに過去であることを示していた。

　覇王はわずかに口角を上げる。

　それは友を見る目だった。

「……最後の敵がお前か、悪くない」

　問いではない。

　確認でもない。

　終わりを受け入れた者の、独白だ。

　男は剣に手をかける。

　ためらいはない。

　迷いなど遠に捨て去った。

　刃が鞘を離れた瞬間、空気が一段重くなった。

　この場所で交わす言葉はもう何も残っていなかった。

　最初の一合（いちごう）で力量の差ははっきりした。

　覇王の剣は重い。踏み込みも鋭い。刃が振り抜かれるたび、空気が裂け、床石が削れた。だがそれだけだ。速さは届かず、間合いは詰めきれない。男は半歩ずらすだけで、すべてを外した。

　二合目。

　火花が散り、衝撃が腕に返る。骨に響くはずの重みが空を切る。男は剣を受けない。受ける価値がないと判断したからだ。

　覇王が笑った。

　歯を見せ、喉を鳴らす。愉快そうでもあり、確信めいてもいる。

「……そうだ」

　その言葉が何を指しているのかはわからない。

　だが剣で答えを吐き出す。

　三合目。

　覇王の刃が肩を狙う。殺しにいく軌道だ。男は踏み込む。真正面から、斬線の内側へ。鎧が擦れ、熱が皮膚を舐める。刃は外れ、代わりに男の剣が覇王の腕を裂いた。

　血が噴いた。

　床に落ち、踏まれ、滑る。

「来い」

　覇王が吠える。

　それは命令ではない。挑発でもない。まるで軽口を叩くようにだった。

　男は応じる。

　剣を振るう速度が上がる。無駄が消え、動きが削ぎ落とされる。斬る、外す、斬る。致命を与えない。逃げ道も与えない。時間を奪い、呼吸を削り、世界から切り離す。

　外の声が割り込む。

「中だ、まだ生きてる！」

「火を回せ、逃がすな！」

　炎が近づく。天井が鳴る。

　だが二人は動じない。

　四合目、五合目。

　覇王の剣が遅れる。足が滑り、体勢が崩れる。男はその瞬間を見逃さない。剣を弾き、距離を詰め、喉元に刃を置く。

　覇王は目を閉じない。

　ただ、満足そうに息を吐いた。

「……これでいい」

　それが最後の言葉だった。

　男は躊躇（ちゅうちょ）しない。

　剣を振るう。速く、短く、正確に。

　衝撃が腕に返り、重さが抜ける。

　鼓動が一つ、途切れた。

　世界はまだ騒がしい。

　戦は続き、火は広がる。だがこの場で起きたことだけが、異様な静けさを保っていた。

　男は倒れゆく身体を支える。

　乱暴に扱わない。急がない。友を抱く手つきで。

　感情はない。

　空白だけがある。

　やがて、腕の中に残った重さを確かめる。

　それを包み、誰の手にも触れさせないよう、確かに抱えた。

　覇王は死んだ。

　世界を壊し得た中心がここで断ち切られた。

　――それでも、外の戦の音は止まらない。

　男は歩き出す。

　聖域の外はまだ夜だった。

　炎は高く上がり、火の粉が風に乗って流れていく。熱に炙られた空気が揺れ、瓦礫の影が歪む。戦の声は続いているはずなのに、どこか現実感を欠いていた。勝っているのか、負けているのか、それすら定かではない。

　腕の中には、布に包まれたものがある。

　形ははっきりしている。重さも、冷えも、確かだ。だが、男はそれを確かめない。ただ、誰にも触れさせぬよう、抱え直す。

「――誰だ、そこにいるのは！」

　遠くで声が上がる。

　別の方向からも怒号と命令が重なった。

「逃がすな！」

「首はどこだ、首を――」

　男は振り返らない。

　名を問われても答えるものはない。

　呼び止める声は背後に残り、やがて炎の爆ぜる音に溶けていく。

　歩くたび、血に濡れた地面が靴底に絡みつく。

　その感触すら、次第に遠のいていった。

　この夜に起きたことは、すでに戦の一部ではない。記録される前に、形を変え始めている。

　聖域の影が背後で崩れ落ちる。

　轟音とともに、火柱が夜を裂いた。

　それでも男は立ち止まらない。

　誰かが勝ち、誰かが負ける。

　だが、世界を壊し得た中心は、確かに失われた。

　そして、その役目を終わらせた者は――

　歴史の側から、静かに切り離されていく。

　この夜の名は、まだ残る。

　だが、男の名を呼ぶ者は、もういない。