パクラー

スズシロ

第1話

## 第1話 善意の赤ペン


 梅雨明け前の湿った空気が、体育館の床に溜まっていた。地元コミケの入場列は、差し出されたうちわの風と、コピー本のインクの匂いでざわめいている。

 **大橋恭子**は、いつものように頒布物の在庫を数え、値札を直し、貼り直した。「新刊あります」の札の端が、湿気でわずかにめくれている。彼女は字書きだ。地元同人界隈では手堅い長編の人、イベント運営にも顔が利く。


 昼を少し回ったころ、恭子のスペースに背の高い女子が現れた。**永沢綾**。柔道部仕込みの背筋の伸び方をした子だ。

「ずっとお会いしたくて。読んでます」

 汗で前髪を耳にかけ、差し出した手は少し震えている。恭子は笑って応じた。

「ありがとう。……暑いわね。座って、水、飲む?」

 ペットボトルを渡すと、綾は一息に半分を飲み干し、それから低く切り出した。

「私、**パクられてる**んです。中学のときから。相手は――**茉莉**って子」


 恭子は眉を寄せた。

「証拠は?」

「あります。私が最初に話したネタが、あっちの受賞作に“形を変えて”出てくる。偶然じゃない。私をモデルにしてるんです。だから、私の手で**直さなきゃ**って」

 綾はスマホを差し出す。トークの断片、当時の部誌の写真、タイムラインに並ぶ自撮りとキャプション。ひとつひとつは決定打にならない。だが、**物語として**は滑らかだった。「被害者である綾と、加害者である茉莉」――その単純さが、聞き手の心に**取っ手**を与える。


 恭子は軽々しく頷く人間ではない。けれど、机の上に並ぶ自作の長編と、頒布の合間に拾う相談の山と、若い読者のまなざしを毎度浴びてきた経験が、彼女に**役割**を感じさせた。

「あなたが怖かったね。……守らなきゃ。うん、手伝えることはある」

 綾の肩が、ほっと落ちる。

「ありがとうございます。私、**正しくしたい**だけなんです」


 午後、通路のスピーカーから場内アナウンスが流れる。フェスの企画枠、朗読コーナーの出演者募集。恭子はちらと横を見る。綾の目が光を帯びた。

「出ませんか、今度。**当事者の声**って強いから」

「……私、喋るのは得意じゃない。でも、資料なら整えられます」

「資料、助かります。**根回し**は私がやりますから」


 控えめに始まった約束は、その場で二つのファイル名になった。

 一本は、恭子のノートに開いた「**支援メモ_永沢綾.md**」。綾の語る出来事が時系列に並ぶ。部活、教室、屋上の昼休み、卒業前日の呼び出し。

 もう一本は、綾のスマホに作られたフォルダ「**真実_共有**」。そこに、トークのスクショ、写真、メモ音声が次々と投げ込まれる。


 夕方、撤収時間が近づく。体育館の扉が開かれ、湿気に置き換わるように外気が流れ込む。恭子はダンボールに本を詰めながら、綾に言った。

「**善意の赤ペン**って、時々刃物になるの。だから、**事実**から離れないで。決めつけで殴らない」

 綾はこくりと頷いた。

「わかってます。……私、被害者だから」

 その言い切りは、硬かった。固まった泥のように。


 搬出口へ向かう通路、雨が上がったアスファルトの匂いが広がる。恭子は胸の中で、いつも通りの段取りを並べ直す。問い合わせ窓口、企画書、広報文の草稿、リスクの洗い出し。**守る**ために必要なこと。

 ――この時、恭子はまだ知らなかった。

 綾の差し出した“真実”に、**穴**がほどこされていることを。

 そして、自分の赤ペンが、茉莉の文章ではなく、**茉莉そのもの**の輪郭に向かっていくことを。


 会場の外、暮色。綾は振り返り、体育館を一枚撮った。キャプションは短い。


> 「#やっと始まる #取り戻す」


 その投稿に、すぐ既読が並ぶ。**「応援してる」「証言できるかも」**。

 善意は軽く、速い。だが軽さは、時に真相を**浮かせ**も**沈め**もする。

 ファイルは増え、物語は形を持ちはじめていた。「茉莉=加害者」という、**取っ手の良い**物語が。


## 第2話 赤ペンが向く先


 翌週、恭子は綾を小さな喫茶店に呼んだ。窓際、紙ナプキンに走り書きされたチェックリスト。

「まずは**事実の棚卸し**。次に、表に出す順番を決める。最後に、言葉を整える」

 綾は素直に頷き、スマホのフォルダ「真実_共有」を開く。スクショが増えていた。中学当時の部誌の写真、屋上での集合メッセージ、そして――茉莉の受賞作の**“写経”**。

「ここ、直したほうが“正しくなる”んです」

 綾は赤で書き込む。登場人物の動機、夜桜の描写、サブキャラの台詞。書き込むたびに、**物語の骨格**が抜き取られ、別物へ組み替わっていく。

「だって、私ならこう**考えない**。私はこう**しない**。茉莉は、何もわかってない」

 恭子は眉根を寄せつつ、ノートにメモした。――**善意の赤ペン**は、作品ではなく**作者**に向きがちだ。


 その夜、綾はSNSに短いスレッドを投げた。


> 「中学の頃の“彼女”に、ひどいことをされた。

> 不良グループとつるんで、私を笑い者にして――。

> でも私は、取り戻す」

>  曖昧な主語、濃い情感。読み手は勝手に**空所**を埋める。リプ欄には「わかる」「証言するよ」の声。中には過激なものも混じった。

>  もう一本、別の呟き。

> 「女の子同士でも、境界線はあるよね。いやな**触られ方**、忘れない」

>  瞬く間にフォロワーが拡散し、まとめ垢が拾う。**嘘**は名前を伏せたまま、**本当の傷**の語彙を借りて膨らんだ。


 恭子はモデレーションに走った。DMで過激な支援者を宥め、掲示文の表現を薄め、連絡先を一本化する。

「当事者の名指しはしない。法的な語は使わない。**言い切らない**」

 しかし、綾は別の場所で火を焚く。地元イベントの実行委に、「**被害者枠**」としての登壇を打診。

「資料、整えました」

 差し出されたのは、茉莉の文章を大幅に改変した**『検証稿』**。原文に似たリズムを保ちながら、肝心の夜桜の場面が**折れ**、主人公の選択が**歪む**。

「これで“本当の姿”が示せます」

 恭子はうなずきかけて、ペン先を止めた。

「……これは、“あなたの茉莉像”だよ」

「私の**モデル**だから。昔から。主人公、私に似てるんです」

 綾の瞳は揺れなかった。

「だから私が直さなきゃ。この小説は、**私の物**なんです」


 同じ頃、茉莉は孤立を深めていた。地元の小規模朗読会で、演者募集の告知が消える。依頼していた装丁の連絡が途切れる。返ってくるのは決まり文句――「今回は見送ります」。

 家ではノートPCが開いたまま。カーソルが瞬く。

 兄の**弘樹**が帰宅し、買い物袋を置いた。

「夕飯、冷やし中華でいい?」

「……うん」

 短い返事。弘樹はキッチンで鍋を洗いながら、いつもの調子で言う。

「バックアップ、取っといた。外付けに**三系統**。日付も分けた」

 茉莉は頷き、エディタに戻る。

「ありがとう。――書く」

 誰もいない部屋の空気に向けるように言った。声は掠れていたが、指は止まらない。

 タイムスタンプが一行伸びる。**v118**。


 翌日、喫茶店で打ち合わせを終えると、恭子の通知が鳴った。イベント側からの返信――「被害相談としての**プレゼン枠**、検討可」。

 恭子は条件の追記を求めた。匿名化、根拠資料の提示、反論の窓の確保。

 だが、綾は別口で動いていた。恭子の知らぬ顔ぶれに「根回し」と称して、茉莉の**噂**を置いて回る。

「中学からずっと**不良**で、先生にも手を出したらしい」

「私、女だけど、**いやな触られ方**をされて――」

 聞き手は、それぞれの心の穴に**当てはめ**る。事実との距離など、誰も測らない。


 夜、恭子は自分のノートを開いた。

――綾の語りは、**一貫**している。だが、**細部**が動く。

 日時、人数、場所。増えたり、減ったり。

 善意は、時に**整合性**を甘やかす。

 恭子は深く息を吐いた。

「私は何を守っている?」

 画面の端に、綾からの新着。添付は、茉莉の新作の**“改稿案”**。

 最も美しい夜桜の比喩の部分に、太い赤で斜線が走っていた。


 週末、地元のサークル会。告知のホワイトボードに、恭子の字で「**誹謗・炎上の抑制にご協力を**」と貼られた。

 ざわめく室内。恭子が席に戻ると、背後から声。

「正しいこと、やってますよね」

 綾が立っていた。瞳はまっすぐだ。

「“加害者”が作品で名誉を得るの、許せない。私も、恭子さんも、誰かを守る側」

 恭子は返事を飲み込み、ただ頷いた。

 彼女の赤ペンは、もはや**茉莉のテキスト**ではなく、茉莉の**立ち位置**に向いていた。線を引くたびに、誰かがこちら側、誰かがあちら側へ押しやられる。

 線は、じわりと濃くなる。


 その頃、茉莉は原稿の末尾に一行を足していた。


> 「夜桜は、誰のものでもない」

>  保存。**v119**。

>  送信先は一つ、兄の共有フォルダ。

>  弘樹からすぐ反応。

> 「受け取った。**整える**のは俺の仕事。**書く**のはお前の仕事」

>  短い文。けれど、その二分が、茉莉の胸の真ん中を支えた。


 外は、また雨になった。

 恭子の机の上では、綾の「検証稿」に赤が重ねられていく。

 それは、**改稿**と呼ばれていた。

 だが実際には、**破壊**だった。

 善意の名をつけられた、刃物の仕事。

 音はしないが、確かに何かが**削れ**、**折れ**、**入れ替わって**いく。

 次のイベントの締切まで、あと二週間。

 物語は、ますます**単純で、強い形**を手に入れつつあった。

 ――「茉莉=加害者」。

 それを疑う声は、まだ小さかった。




第3話 証拠という名の穴埋め


 地元文化会館の小会議室。週末の実行委ミーティングは、予定時間を三十分オーバーしていた。

 議題は一つ――綾が申請した「被害相談としてのプレゼン枠」。

 机の上に配られたA4束には、タイトルが踊る。「取り戻す言葉——二次被害とその構造」。作成者:大橋恭子/監修:永沢綾。


 恭子は前に立ち、滑らかな調子で説明を進める。

「実名は伏せます。描写は一般化します。目的は攻撃ではなく啓発です」

 スクリーンには、曖昧な人影のシルエット、加工されたチャット画面、地元部誌の紙面写真。

 綾は末席で姿勢よく座り、発言を最小限に抑えていた——被害者としての作法を、もう覚えている。


 途中、手が上がる。図書館司書ボランティアの女性が言う。

「“検証稿”という資料……これは、誰の、どのテキストを基に?」

 恭子は一拍置いて答える。

「一般的な創作表現の傾向を例示するために、複数のテキストを合成した仮想稿です」

 正確ではある。だが、その仮想は、茉莉の文体を器用に真似た上で、肝心な箇所を折り曲げている。

 司書はそれ以上追わなかった。議題は前に進む。


 会議の最後、恭子は二枚の紙を静かに差し入れた。

「留意事項の追加です。名指しの示唆の禁止、匿名性の担保、事後の記録保存。あと、反論窓口の設置」

 委員長は頷き、スタンプを押した。

 こうして、プレゼン枠は条件付き承認となる。恭子の胸に、わずかな勝ち取りの感触。しかし、その同じ瞬間、別の場所で、綾はもう一つの火種を投下していた。


 SNSでは、綾のスレッドが新しい局面に入っていた。


「中学の頃、彼女は不良グループとつるんでた。

私、屋上で笑い者にされた。

それに——女子にだって境界線はあるのに、あの人は……」

 嘘は、痛みの語彙を借りると、説得力の衣を纏う。

 リプ欄には「被害を語ってくれてありがとう」の定型が並び、まとめ記事にはぼかした校名が付く。地元の誰かがそれを**“あそこ”**と特定して、また拡散する。


 夕方。恭子はスマホを握りしめ、幾つものDMに返信していた。

「個人を特定しないでください」「裁判用語は避けましょう」「共有はこのアカウントへ」

 モデレーションの火消しは、終わりがない。

 ふと、別件の通知が目に入る。——イベント側の広報草案。

「地域の創作者が語る“言葉の暴力”」

 恭子は修正を走らせた。抽象度を上げ、告発性を下げ、啓発の印象を強める。

 善意は、今日もよく働いた。けれど、その善意は、誰のために機能しているのか。


 一方その頃、茉莉は台所の明かりだけを背に、食卓で原稿を打っていた。

 通知音が鳴るたび、指が一瞬止まる。依頼の返答は来ない。代わりに——無言の**“見送り”が積み上がる。

 玄関が開き、弘樹が入ってくる。コンビニの袋から、栄養ゼリーとカットフルーツを出す。

「水分。目、休めろ」

「……うん」

 言葉は短い。けれど、背後の気配が壁**になっているのがわかる。


「ログ、まとめた」

 弘樹はノートPCを茉莉の前に置く。画面には、フォルダツリーが整然と並ぶ。

/MARI/works/ の下に、year/ month/ day。各階層にv番号のファイルが政令のようにきれいに並んでいる。

「タイムスタンプは三地点一致で取れてる。端末、本体と外付けとNAS。OSのイベントビューアも掘った。更新履歴は差分抽出してPDF化。——過程が残ってる」

 茉莉は、画面に揺れる自分の顔を見た。

「“私が書いた”って、信じてもらえるかな」

「信じさせるんじゃない。示す」

 弘樹はそう言って、プリンタから出てきた紙束を整えた。ログの地図。

「証拠は、穴を埋めるためにある。向こうが物語るなら、こっちは積む」


 翌日、恭子は綾と台本のリハに入った。

 会場の地下練習室、金属椅子の音が反響する。

 恭子が読み上げ、綾が“証言”を挿む。

「——“彼女”は、クラスで私を侮辱し、屋上で土下座を——」

 綾は喉を震わせ、目を伏せる。演技ではない、けれど演出に馴染んでいた。

 恭子はふと原稿の余白に目を止める。鉛筆の小さな書き込み。

『主人公=私』

 彼女は思わず尋ねた。

「どういう意味?」

「昔から、茉莉の主人公は私なんです。似てるところ、いっぱいある」

「証拠は?」

「感じます」

 即答だった。

 恭子の舌先に、“それは証拠じゃない”が浮かんで、消えた。

 彼女は別の問いを選ぶ。

「——“女子にいやな触られ方をされた”って部分、入れる必要ある?」

 綾は静かに頷く。

「境界線の話をしないと、誰も私の痛みを理解しない」

 恭子は目を閉じ、小さくうなずいた。啓発の言葉は、被害の具体を借りる。だが今、その具体は嘘かもしれない。

 ——線引きの位置が、ほんの数ミリずれていく音がした。


 その夜、弘樹は一人でホワイトボードに時間軸を引いた。

 中学三年の三月、部誌の発行日。卒業式二日前の屋上呼び出し。高校一年の三月、彼自身の退学届けの受付時刻。

 さらに、SNSの投稿時刻、拡散のピーク、まとめ記事の生成時間。

 線の上に、茉莉の編集履歴が細かい線分で重ねられる。

 ——書いていた時間は、嘘を上回る。

 弘樹は、写真フォルダから一枚を選ぶ。ノートPCのキーボードに、茉莉の指が乗っている——ただの生活写真。撮影日時が、屋上事件と重なる。

「生活のログは、嘘を食う」

 小さく呟き、USBに「MAP_v3」を保存した。


 週明け。恭子のもとに、イベントの最終台本提出締切の通知が届く。

 彼女は原稿に手を伸ばし、赤ペンを浮かせたまま止まった。

 自分の赤が、どっち側へ向いているのか、急にわからなくなる。

 そのとき、デスク脇のスマホが震えた。見知らぬアドレスからのメール。


件名:匿名の情報提供

本文:中学の頃の本当のことを知っています。会って話せます

 恭子は画面を見つめ、深呼吸した。

 ——善意は、時に最短距離を選ぶ。だが、最短距離は往々にして落とし穴に通じている。


 雨が上がった。アスファルトはまだ黒く、街路樹の葉から水が滴る。

 茉莉はキーボードを叩き続ける。v124。

 画面の端に、兄の共有フォルダが光る。


「提出フォーマット、統一しといた。署名付きPDFに落とせるようにした。

あとは——書け」

 茉莉は、微かに笑った。

 恭子は、匿名メールの返信欄にカーソルを置いた。

 綾は、告知画像に最後の一行を追加した。

「声を奪われた人の代わりに、私が話す」

 それぞれの正しさが、少しずつ、別の方向に歩き出していた。


第四話 境界線の試し方


 喫茶店の二階、昼過ぎの窓際。雨上がりの光がテーブルの水滴を鈍く光らせていた。

 恭子は紙ナプキンを折りたたみ、相手の名刺をそっと指で押さえる。


「**北村(仮名)**です。中学の同級生でした。合唱部。あの日、屋上の手前まで行って……見ました」


 差し出されたのは、古びた部誌のページと、当時のLINEを印刷した紙。アイコンは黒塗り、時刻と短文だけが残されている。


11:27「今どこ」

11:28「体育館裏→屋上行く」

11:31「綾先にいる。動画係呼べって」

11:33「“土下座させるから”って」


 指先が、紙の端をかすめた。恭子は深く息を飲む。

「——“女子に境界線を越えられた”という彼女の訴えは?」


 北村はゆっくり首を振った。

「聞いたことない。むしろ言いふらしてたのは綾さん。『あの子は私に嫉妬してる、私を主人公にしたがってる』って」

 そこで言葉を切り、申し訳なさそうに続ける。

「私、止められなかった。怖かった。柔道部の子たち、強かったから」


 テーブルの上で、恭子の赤ペンが一本、孤独に横たわっている。

「この資料、イベント委員会に出せるレベルではない。匿名、改変、反証の余地……でも——」

「きっかけになればいい。黙ってるの、苦しかったから」


 恭子は頷き、名刺の裏にメモを書く。反論窓口、第三者検証、台本修正。

 善意がまた一歩、最短距離を選ぼうとしているのを自覚しながら、彼女はまぶたを閉じた。


 *


 事務局の会議室。蛍光灯が紙束の白を冷たく増幅させる。

 恭子はプレゼン台本の第七稿を開いた。段落の見出しが並ぶ。


被害の語彙化と境界線


二次加害のメカニズム


仮想事例の分析(改稿)


 彼女はペン先を止め、ひとつの行を消した。


「被害者の感じた不快は、事実を超えて事実である」


 ——その一文は、綾の嘘に衣を着せる。

 代わりに書く。


「感じた不快を語る自由と、事実を検証する責任は、同時に成立する」


 送信しようとした瞬間、通知が弾けた。

 綾からのDM。


綾:台本、**“被害の具体”**が薄い。これじゃ伝わらない。

恭子:匿名性の担保が——

綾:被害は私。匿名で守るのは誰? 私の痛みはどこへ行くの?


 打鍵する指が一拍遅れる。

 恭子は意図的に時間を置き、別の窓を開いた。反論窓口への最初のメールが届いている。

 差出人は弘樹。件名は簡潔だ。


件名:検証依頼(記録一式提出)

本文:

・書誌・版歴・Claude相談ログ抜粋

・PCイベントログ(3地点一致)

・屋上当日の校内巡回記録(情報公開で取得)

・当日LINE断片(提供者匿名)

 ——公開前に検証会の開催を求む


 恭子は資料の添付サイズに目を見張った。積む側の論法は、いつだって重い。


 *


 弘樹は複合機の前で、また紙詰まりにため息をついた。

 茉莉の机では、キーボードの音が途切れない。

「編集さん、どう?」

「……電話あった。『風評が気になる、筆名の一時変更はどうか』って」

「変えない」

「うん、断った。“作品は私の名前で歩かせたい”って言った」

 茉莉は笑い、すぐ画面に戻る。v131とファイル名が伸びた。


 弘樹はプリント束を整え、内容証明のテンプレを引き出した。

「イベント側には、表現の自由じゃなくて検証の手続で行く。感情論は向こうの土俵だ」

「私、当日、どうする?」

「——読もう。読みたいものを。相手の物語に、乗らないで」


 *


 夕刻。イベント委員会の臨時ミーティング。

 議題は二つ。(1)プレゼンの具体性の度合い、(2)反論機会の設計。

 恭子は、綾の“具体”押しと、弘樹の“検証”要求の板挟みにいた。


「被害の具体がなければ、啓発効果は弱くなります」

 綾の声は通る。

「ただし、個別化は名誉侵害のリスクを上げる」

 司書ボランティアが冷静に返す。

「反論窓口は設けた。公開の場で、双方のファクトを整理すれば」

 恭子の言葉に、委員長が眉を寄せた。

「この規模の地域イベントで、対立を前提にできるか?」

 会議室の空気が硬くなる。その瞬間、機材担当が口を挟んだ。

「テク的には可能です。ただ、“本人名”が出ると配信停止の恐れが」

 誰もが視線を伏せる。誰かを守れば、誰かが消える。


 恭子は腹を決めた。

「台本を二段構えにします。ホールでは一般化した啓発を。別室で検証会を。資料は事前開示、映像は非配信、議事録のみ公開」

 委員長は長く考え、頷いた。

「条件付きで採用。合意文書を回して」


 *


 その夜。綾のタイムラインが火柱のように伸びる。


「当事者を沈黙させるために“検証”を持ち出すって、古典的手口」

「私は黙らない。証言動画をイベント前に公開する」

 固定ツイートが差し替えられ、予告画像が掲げられた。

 サムネには、誰とも知れない後ろ姿。キャプションは──

「声を奪われた少女の代わりに」


 恭子の心拍が一段上がる。これは、彼女の台本の外に出る動きだ。

 DMを開く。


恭子:動画はやめて。法的に危ない。

綾:じゃあ、私を守って。痛みを削らない台本を書いて。

恭子:事実を削らない台本しか書けない。

綾:私の事実は、あなたには軽いんだね。


 返信は来ない。チャットウィンドウの下で、点滅が止まった。


 *


 翌日昼。図書館のバックヤードで、司書ボランティアが恭子を呼び止めた。

「寄贈資料に、変なのが混じってました。卒アルの寄せ書きページのコピー。——“謝れ”“負け犬”って書き込み、消えた跡があります」

 コピー用紙の薄いグレーに、消しゴムの白い摩耗が沁みている。

「誰が、どうやって?」

「図書室に置いてた原本は紛失扱いで、新装版に差し替えられたそうです」

 恭子は背筋に冷たいものが走る。物語の改竄は、文字の世界だけでは終わらない。

 現物の現実が、後から塗り替えられる。


 彼女はその足で、保健室の先生(当時)にアポを取った。電話口の向こう、慎重な声が返る。

「記録は出せません。でも、覚えています。あの日、屋上から二人運ばれてきた。怪我は女子の方が軽かった」

「“性的なトラブル”の申告は?」

「ありませんでした」

 メモの字が震える。

「もし、聞き取りに応じていただけるなら、匿名で、議事録にだけ——」

「形式が整うなら、検討します」


 *


 その頃、弘樹は法テラスの無料相談枠に申し込みながら、別の準備も進めていた。

 イベント事務局宛に、簡潔な通知書。


・虚偽の事実を示唆する表現の差止

・検証会の同時開催と資料の第三者預託

・万一に備えた議事録の完全保存とログの保全命令相当の措置


 封をし、ポストに投函する。金属音が沈み込む。

 スマホが震えた。茉莉からのメッセージ。


「朗読、当日やる。新作の冒頭。『夜桜に灯る骨』」

 弘樹は短く返す。

「行こう。骨は、外から折れない」


 *


 夜。恭子は再び台本を開く。

 “境界線”の章の末尾に、一行を足した。


「語りと検証は敵ではない。真実の居場所を広げるための二つの手段だ」


 送信。

 画面の右上で、雲のアイコンが青く満ちる。

 同じ瞬間、別の場所で綾が投稿予約のボタンを押した。

 カウントダウンが始まる。48:00。

 善意と嘘と証拠が、それぞれの速度で動き出していた。


第五話 火の手の上がる前に


 公開まで残り47時間32分。

 永沢綾の「証言動画」予約投稿のカウントが、画面の隅で淡々と減っていく。大橋恭子はその数字を横目に、イベント事務局の回線へダイヤルした。


「——台本の二段構え、承認をいただいた件ですが、検証会の会場図を送ります。入退室はリストバンド、録音は事務局側のみ、議事録の署名は私が立会人で」

『わかりました。ただ、ネットでは“加害者を守ってる”って批判も来てまして』

「守りません。手続きを守るだけです」


 通話を切ると、恭子は机の端に置いた封筒を撫でた。弘樹から届いた通知書の写し。語気は冷静、要求は最小限、だが核心だけは正確に抉っている。


・虚偽の示唆表現の差止

・検証会の同時開催と資料の第三者預託

・議事録の完全保存と操作ログの保全


 善意で最短距離を走ってきた自分の足取りが、紙の文言に照らされる。どこかで、近道が歪みを生んでいなかったか——。


 *


 赤松家のリビング。プリンターが唸り、厚手の用紙が吐き出される。

「寄せ書きコピーの解析、できた」

 弘樹は拡大鏡を茉莉に渡す。消しゴムの摩耗の箇所に、薄い筆圧痕が縦横に残っている。


「ここ、“謝れ”のゃとれ。残ってる。あと、この矢印の先、“負け犬”の犬。消しても、紙の凹みは消えない」

「誰が……誰がそこまでして、私を書き換えたいんだろう」

「“君を”じゃない。君の物語をだよ」


 茉莉は小さく息を吸い、頷いた。

「じゃあ私も、私の物語を書き足す。——朗読の冒頭、もう一度直す。嘘の匂いに負けない最初の一行を」


 弘樹は机に並べたUSBメモリを指先で弾いた。

「恭子さんにも送る。検証会の第三者預託に間に合わせる」


 *


 夕方、図書館のバックヤード。白い蛍光灯の下で、当時の保健室教員が卓上カレンダーを開いた。

「——記録の写しは出せません。ただ、私の記憶はお伝えできます」

 恭子は頷き、録音機を置く。

「お願いします。匿名で、議事録に**“看護職A”**と記します」


「屋上から来た子は二人。片方は膝を擦りむき、もう片方は過呼吸。どちらにも性的な自認の問題に関する申告はありませんでした」

「“女子の境界線を越えた”という主張は?」

「後日、保護者経由で耳にしました。ですが、当日その場では出ていない」


 恭子は礼を述べ、録音を止めた。

 その場で言えていない痛みは、確かに存在する。けれど、それを後から別の語に置き換えていいわけではない。

 語りと検証は敵じゃない——昨日書いた一行が、胸の内側で静かに温度を持つ。


 *


 夜。綾のタイムラインがさらに燃え上がる。


「“検証”の名で女の子を二次加害するオトナたち」

「私は黙らない。彼女(=綾)の被害を代わりに語る」

「中学時代、茉莉は不良で、私を虐めた。女子更衣室でセクハラまがいの行為も——」


 新しい嘘が混ざった。

 恭子は指先を止め、スクリーンショットを保存する。自分の既読がこの炎上に加担しないよう、通知を切った。


 DMが震える。送り主は北村。


「“セクハラ”は聞いたことありません。更衣室は当番制で、茉莉さんはたいてい図書室にいました」

「“不良”というなら、図書室の不良です。いつも黒いパーカーで、本を抱えてた」

 添付されたのは、文化部の貸出リスト。茉莉の名前が、春から冬まで、律儀に並んでいた。


 恭子は小さく笑ってしまう。——可視化は、やっぱり強い。

 そして、心のどこかで、自分もまた語りの快楽に酔いかける危うさを自覚する。事実がこちらの側にあるときほど、人は軽率になる。


 *


 同時刻、半藤正英のスマホが震えていた。

「正英、投稿の下書き読んだ?」

 綾の声は軽く、甘い。

「“彼女(=綾)の被害を代わりに語る”って部分、彼女って誰のことだ」

「私だよ。恭子には“匿名被害者”って通す」

「——俺は“炎上は避ける”って条件で協力してる。会場は御影家のツテだ。潰れたら叔母(=恭子)が困る」

「大丈夫。燃やすのは茉莉だけ。あなたは火の粉を払ってればいい」


 通話を切ると、正英は少しだけ顔をしかめ、すぐに表情を消した。

 ポケットの予備リングが小さく当たって音を立てる。茉莉の指にはめるはずのそれは、別の物語の道具に見えた。


 *


 翌朝。イベント委員会。恭子は合意文書をテーブルに置いた。

「——“検証会は事実確認のみ。断定・糾弾を避ける。録音は事務局。資料は預託、名誉を毀損しない表現を第一に”」

 委員長がサインをし、順に回る。恭子のペンが線を引いたそのとき、ドアが勢いよく開いた。


「加害者を守る紙なんて、誰がサインするの」

 永沢綾。背中には同人誌搬入用のキャリー。肩で息をしている。

「恭子、あなたは私の味方でしょ」

「味方でいたい。でも、嘘の味方にはなれない」

「嘘じゃない。感じたことは真実」

「感じたことは真実。でも、表現は検証に耐えないと、他の誰かの真実を踏む」


 綾は唇を噛み、キャリーの取っ手を強く握り直した。

「——じゃあ、私は外で話す。動画も予定通り上げる。恭子、あなたの勝手に巻き込まれるのはもう嫌」


 重い沈黙。

 恭子は、綾の目の奥に感じ取ってしまう。救われたかった誰かの影を。

 それでも、線は引かなければならない。

「検証会の席は空けておきます。あなたにも」


 綾は踵を返し、扉を閉めた。

 机の上、合意文書のインクがまだ乾いていない。薄い匂いが、胸の奥に刺さる。


 *


 その日の夕刻、赤松家。

 茉莉は画面に向かい、朗読用原稿の先頭を打ち替える。


——“夜桜は、嘘を照らすために咲くんじゃない。”


 そこまで打って、ふっと笑った。

「どう?」

「いい。宣言になってる」

 弘樹は頷き、USBの一つを胸ポケットに差し込む。

「預託に行ってくる。帰りにコンビニで内容証明の控えも受け取る」

「兄ちゃん、ありがとう。……私、負けない」


 彼が玄関を出ると、通知音が鳴った。恭子からのメッセージだ。


「第三者預託、受領。議事録フォーマット共有します」

「それと——保健室教員の匿名証言、確保できました」


 弘樹は短く「了解」と打ち、夜風の中へ歩き出す。

 遠くで、花火のようにタイムラインが弾ける音がした。

 公開まで残り36時間09分。

 火の手は上がりかけている。

 だが、燃やすものは嘘であって、人ではない。

 その線を守るための準備だけは、もう充分に整いつつあった。


第六話 言い換えの設計図


 公開まで残り24時間03分。

 永沢綾は台本の一行目を、三度書き換えた。


旧案1:私は“被害者A”として語ります。

旧案2:中学時代、私はある女子に執拗に——

現行:「私は、あの子に“奪われた”側だ。」


 奪われた——と声に出して読むと、胸のざわつきが少し静まる。つけたしの段差を指で撫で、綾はスマホのメモを開いた。「不良」「更衣室」「セクハラ」。新しく混ぜた強い語は、彼女の中の古い痛点に、ぴたりと貼り付いていく。


 DMが震えた。


恭子:Bロールに使う写真、サークルの集合・名札はぼかしで。名前の断定は避けよう。


 綾は短く「了解」を返し、すぐに下書きに戻る。

「ぼかし。——でも、伝わらなきゃ意味がない」


 *


 大橋恭子は、共用オフィスの会議卓に資料を広げた。

 封筒の宛名は「事務局 御中」。中身は検証会の趣旨文、議事録の様式、第三者預託の受領票、そして新たに差し込んだ一枚のプリント。


言い換え規程(案)

・「盗作」「犯罪」など断定語は使用しない(検証後に言及可)。

・感情の述懐は可。ただし具体名と結び付けない。

・当事者以外の代理語りは、当事者の明確な同意がある場合のみ。


 自分で書いた文言が、あまりに正しすぎることに、恭子は小さく苦笑する。正しさは、時に人を拒む壁になる。綾は今、壁の向こう側に立っている。


 机の端のICレコーダーを取り、昨日の保健室教員の証言を聞き返す。

「当日、その場で“更衣室”の話は出ていない」

 声は落ち着いて、曖昧さを残さない。

 ——ならば、言い換えで真実に触れるしかない。恭子は深く息を吐いた。


 *


 赤松家の食卓。弘樹はホワイトボードを壁に立て掛け、太いマーカーで線を引く。

「時系列ボード、ほぼ完成。縦軸は年月日、横軸は“作品”“証言”“イベント”。交差点にハッシュ値とタイムスタンプを置く」


 茉莉は湯気の立つマグを握り、ホワイトボードの角に目を凝らす。

「ここ、大学二年の“大賞”の前後。編集部のメール、AI相談のログ、下読みのPDF、全部“途中”の印が残ってる」

「“途中”——じゃなくて執筆の連続性」

「うん。言い方を揃えたい。検証会の配布資料に用語集を入れない?」

 茉莉はノートを開いて、さらさらと書く。


・引用:出典を示し、範囲を限定して他者の表現を借りること

・オマージュ:尊敬を込めた参照。骨格は独自であること

・パロディ:換骨奪胎による批評。笑いが鍵

・盗作:他者の表現・構成・独自性を出典なく流用すること


「——言い換えは、もともと文学の呼吸なんだ」

 茉莉の声は、どこか遠い。

「だから、私も奪われたって言い方は、使わない。書けなかったら書けなかったと書く。足りない私として」


 弘樹はペン先を止め、姉の横顔を見る。

 人の強さは、理不尽に打ち克つときだけじゃない。言葉の選び方を変える、その一手に宿ることもある。


 *


 夕刻、撮影スタジオ。

 綾の前に置かれたリングライトが、瞳の縁に白い円を作る。

 カメラマンが軽く頭を下げる。「通しで一回、行きましょう。感じたことをそのまま」


 綾は頷き、台本を握る指に力を込める。

「私は、あの子に“奪われた”側だ。鬼隠って名付けたサムライの話を、私が先に——」

 カメラマンが手を上げる。「少しだけ、具体に寄れますか?」

「具体?」

「たとえば、“更衣室で怖い思いをした”。匂いとか、音とか」

 喉の奥がざわっとする。思い出は、いつも断片のままで溶けていない。

 綾は息を整え、別の記憶を連れてくる。大会の畳の汗の匂い、ホイッスルの金属音、表彰台に上がれなかった日。

「——匂いは、畳の。音は、ホイッスル。私、あれが嫌い」


 撮影は滑らかに進む。

 終わると、カメラマンが画面を見せた。

「いいですね。“あなたの真実”になってます」

 綾は笑顔を作り、すぐ消した。

「真実、ね」


 *


 同時刻。恭子は事務局の会議室で、スタッフにチェックリストを配っていた。

「入退室は二重。議事録はデュアル録音。動線に私物スマホの封印袋。休憩十分」


「ネットは?」と委員長。

「実況禁止。ただし“存在報告”までは許容。炎上は沈黙で拡大しますから」


 言い終えたとき、ポケットのスマホが震えた。


綾:台本、最終。送る。

(添付:PDF)


 恭子は開いて、息を呑む。

 “奪われた”の語はそのまま、しかし段落の末尾に新しい行が付け足されている。


「彼女(=茉莉)のレズ的執着が、私の境界線を壊した」


 恭子は椅子を押し、廊下に出た。電話を鳴らす。

「綾。——これは言い換えじゃない」

『感じたことを書いた。匂いも音も、怖さも』

「“レズ的執着”は、他者の名誉を壊す語だ。ここは削除して」

『削除し続けてここまで来た。今度は私が取り戻す番』

「取り戻すためには、壊さない言葉を選ぶ必要がある」

『恭子、あなたは敵になったの?』


 通話が途切れ、呼吸だけが残る。

 壁にもたれ、恭子は額に手を当てた。

 ——私は、“味方”の意味を誤読してきたのかもしれない。


 *


 夜。赤松家。

 弘樹はUSBのクローンを作りながら、プリンターから吐き出される紙を積み直す。

「用語集、三十部。年表、三十部。ログの要約、三十部。貸出記録抜粋、三十部」

 茉莉は笑って親指を立てた。

「兄ちゃん、完全に事務局」

「燃えるのは嘘だけでいい。紙は、防火壁になる」


 通知音。恭子から。


「綾、表現を強化。性的指弾の文言が追加。——止める」


 弘樹は即座に返信する。


「スクショ取得。時系列化して預託に差し込みます。誤配信があれば、通報ライン共有を」


 送信した指先がわずかに震えた。怒りではない。焦りでもない。

 ——これは、準備だ。攻撃ではなく、防御と救助のための。


 *


 公開まで残り11時間41分。

 綾はスケジュール設定の画面で指を止め、迷って、そして「プレミア公開にする」を選んだ。チャットが賑わえば、正義は満場一致に近づく。そう信じたかった。


 通知が空を飛ぶ。

 恭子のスマホが震えた。「予約変更:本日23:00」。

 恭子は走りながら、事務局のスレッドに投げる。


「予定前倒し。緊急モード。——“感情は尊重、表現は検証”。この一行で統制を」


 ビルの自動ドアが開き、夜気が頬を打つ。

 恭子は胸ポケットの録音機を確かめ、足を速めた。


 *


 同じ時刻。

 茉莉は机に頬杖をつき、画面のカーソルが瞬くのを眺めた。

 「夜桜は、嘘を照らすために咲くんじゃない。」

 その下に、新しい一文を打ち足す。


「けれど、嘘は、夜桜の下でほどける。」


 保存。時刻が一行、伸びる。

 弘樹が玄関で鍵を回す音がして、静かな家に、小さな金属音が落ちた。


 火の手は、もう見えている。

 でも、広げないための手順は、設計図のように積み上がった。

 次に必要なのは、言い換えではなく、言葉を守る覚悟だ。


第七話 プレミア23:00――燃えるチャット、冷える記録


 22:58。

 永沢綾は公開ボタンの上で指を止め、深呼吸してからタップした。薄暗い部屋に、カウントダウンの円が浮かぶ。

 22:59。

 大橋恭子は事務局のラップトップを開き、テンキーで淡々とショートカットを打つ。録画・録音・スクリーンショットの三重記録を並列で回す。「感情は尊重、表現は検証」――さっき決めた統制の一行を、固定コメントに貼る準備を整えた。

 23:00。

 チャットが弾ける。

 《待ってた!》《真実語って》《被害者の勇気に拍手》

 綾の胸に、ざわりとした快感が走る。満場一致の錯覚が、指先を温める。


 映像が始まる。リングライトが縁取る綾の瞳。冒頭の一文が流れた。

 「私は、あの子に“奪われた”側だ。」

 チャットが一段上ずる。《それ》《やっぱりね》《名前出して》

 綾は台本の二段目へ滑り込む。「中学の屋上、卒業前、土下座を求められたのは私のほうだった」

 BGMの余韻。コメント欄に共感の絵文字が咲く。


 恭子はその波を見て、固定コメントを打ち込む。


事実関係は検証会で扱います。実名・断定・性的指弾の書き込みは削除対象です。感情の共有は歓迎しますが、法とルールを守ってください。


 画面右上のピン留めアイコンが点る。だが、流れはなお速い。

 《検証って逃げだろ》《今こそ名前を》《更衣室のこと、詳しく!》

 恭子は削除と非表示のキーを、指の届く限り押し続けた。守るために消す。矛盾の痛みが、爪の隙間に沁みる。


 映像の中で、綾が言葉を一段強める。

 「彼女の――レズ的執着が、私の境界を壊した」

 チャットが一瞬吸い込むように静まり、次いで爆ぜた。

 《最低》《犯罪では》《証拠は?》《勇気!》

 賛否が絡み合い、温度が一気に上がる。

 恭子は即座にタイムコードを打った。「23:04:17 性的指弾表現」。議事録テンプレに貼り、議題化のフラグを立てる。――冷やせ、流れを。冷やせ。


 その頃、赤松家。

 弘樹はモニターを二分割し、左でプレミアのチャット、右で自作の時系列ボードを開いていた。チャットの勢いが山を作るたび、ボードに点が増える。

 「23:04、性的指弾発言――スクショ完了。ハッシュ値付与」

 プリンターが唸り、紙が積まれていく。茉莉は落ち着いた声で言う。

 「兄ちゃん、保存先を三系統に分けて。NASと外付けとクラウド。名前は“言葉の救急箱”」

 弘樹は小さく笑った。「命名センス、満点」


 映像の綾は、具体に寄ろうとする。

 「匂いは――畳。音は――ホイッスル。あの頃、私は毎日、正しさに締め上げられてた」

 チャットの波が一瞬、柔らぐ。《分かる》《部活つらい》《それはそう》

 恭子はその隙に、固定コメントの下へ追記した。


※用語集を公開しました。引用/オマージュ/パロディ/盗作の違いを先に共有します。断定は検証の後に。


 リンクが流れ、チャットの一部が飛び先へ移動する。温度がわずかに下がった。冷却は成功し始めている。だが、火種はまだ画面の中央にある。


 綾は、自分の物語の核心を握りしめたまま、恭子のピン留めを見ないふりをした。

 (ぼかしてたら、届かない)

 台本の余白に、鉛筆で書いた小さな言葉が目に入る。

 ――「私は正しい」

 胸の内側で、その文字が鈍く光る。


 チャット欄に、見慣れない長文が投下された。


「時系列を提示します。中学卒業前日の屋上、呼出は第三者が録音。当日“更衣室”という語は出ていない。大学期の受賞は版履歴と編集部メールで連続性が示されます。今夜の議論は人を壊さずに。」

 投稿者名は記号列。弘樹が用意しておいた文章だ。

 《ソース出せ》《資料は?》《感情だけじゃないの助かる》

 波が割れる。恭子は即座に固定し、送信者へダイレクトで「ありがとう」を打った。


 綾の喉が、からん、と鳴った。反論したい衝動が舌に集まり、しかし言葉にならない。

 (私の本当は、どこ?)

 本当という言葉は、便利で、残酷だ。誰の体温を基準にするかで、簡単に形が変わる。

 綾は台本の次の段落を飛ばし、カメラの赤点を直視した。

 「私ね、あの子の主人公に似てるって、ずっと思ってた。私がモデルなんだって。だから、あの小説は――私のものだって」

 チャットがざわめく。《所有って何》《キャラは作者のもの》《読者のものでも》

 恭子は、胸の奥で何かが剝がれるのを感じた。

 (綾、あなたはずっと、間違った愛し方で物語に触れてきた)


 23:21。

 プラットフォームの自動通知がポップアップした。

 > 「名誉毀損の可能性がある表現が検出されました。公開設定の見直しを推奨します」

 恭子は迷わず管理画面に入り、年齢制限と検索非表示を掛ける。同時に、検証会の日程告知を再掲。

 「ここからは、場を変える」

 冷たい決断が、指先に馴染む。


 赤松家。

 茉莉はモニタを見つめ、静かに頷いた。

 「兄ちゃん、明朝に“ファクトシート”を上げよう。用語集、年表、履歴の索引だけ。攻撃じゃなく地図として」

 弘樹は目を細める。「了解。喧嘩じゃ勝てない。構造で勝つ」


 画面の向こうで、綾が最後の一文を吐き出す。

 「取り戻す。私の物語を。あの子が書いてるふりをしてる、私の物語を」

 プレミアの残り時間がゼロに近づく。チャットは依然、熱を帯びている。だが、固定された地図に戻る人も増えていた。


 23:29。

 恭子は深く息を吸い、固定コメントを差し替えた。


ここからは検証会で。

感情は尊重します。証言は預かります。

人を傷つけない言葉で、事実に触れましょう。


 送信。ピン留め。

 画面の熱は、まだ高い。けれど、冷える回路は組み上がった。

 綾はライトを消し、暗闇の中で画面の数字が減っていくのを見つめた。拍手と罵声が遠ざかり、耳の奥に残るのは、あの短いホイッスルの音。

 ――ピッ。


 その夜――

 恭子は議事録の見出しを整え、弘樹は“言葉の救急箱”に鍵を掛け、茉莉は次の章の一行目を打った。

 燃える夜の終わり方は三者三様。だが、三つの指先が向いているのは同じ方向だ。

 言葉を壊さずに、言葉で守る。

 プレミア公開の数字がゼロになり、部屋の空気がようやく夜に戻った。



第八話 検証会09:30――言葉の地図、声の温度


 08:12。

 赤松家のプリンターがまた唸った。弘樹が整えた「ファクトシート v1.0」は三枚綴り。表紙には大きく用語の地図――引用/オマージュ/パロディ/盗作の定義と、判定に必要な三基準(時系列/到達経路/占有率)。二枚目に年表。中学卒業前日の屋上呼び出し、叔父の代理としての来校、スマホ排除の時刻、保健室記録。三枚目に創作履歴の索引。フォルダ名、保存時刻、差分の枚数、大学期の編集部メールの件名一覧。

 茉莉はそれを読むと、静かに頷いた。「ここに感情のメモ欄を追加して。読む人の心が迷子にならないように」

 弘樹は余白に「受けた感情/伝えたい感情」の二段を差し込んだ。「事実の地図」に、小さな「心の凡例」が付いた。


 09:00。

 会場:市民会館の小会議室B。大橋恭子は係員と並んで、白い長机の上に三つの札を置いた。証言席/資料席/傍聴席。壁にはA3で拡大した用語の地図。入口に立つと、胸の底がひどく静かだった。

 (今日の役目は、守るために冷やす)

 最前列の椅子に、茉莉と弘樹。少し離れて、地域の文芸サークルの顔見知りが数人。記者は呼ばない。公開録画と逐語録の同時進行で足りる。


 09:18。

 永沢綾が入ってきた。明らかに寝不足の目。手にした封筒は厚い。恭子は視線でそれを受け取り、資料席に置いた。

 「綾、冒頭五分で『主張の骨子』だけ話して。固有名詞と性的指弾は禁止。違反は一度目注意、二度目で一時退席」

 綾は一瞬、笑って、頷いた。「わかってる。今日はちゃんと話す」


 09:30。検証会開始。

 恭子が小さく鈴を鳴らした。

 「まず地図を共有します。盗作の判定における三基準――時系列/到達経路/占有率。感情は尊重しますが、結論はここから歩きます」

 壁の図を指す。傍聴席が少し前のめりになる。録画の赤点が灯り、空気が引き締まる。


 09:33。

 綾が立つ。

 「私は“鬼隠(きがくれ)城”っていう名前を、中二の頃に考えて、アニメサークルで話しました。侍のサブストーリーも。で、彼女――茉莉の“鬼桜(おにざくら)”が、あまりにも似てて……私のものだと感じた」

 恭子は注意札を片手に持ち、うなずく。「骨子、以上?」

 綾は唇を噛み、追加しようとした言葉を飲み込む。「以上」

 恭子は五秒空けてから言った。「ありがとう。では時系列を置きます」


 09:38。

 弘樹が資料席から年表を掲げる。

 「こちら、中学アニメサークルの活動記録。会誌の発行日、綾さんの口述**“鬼隠城”の走り書きの写真。日付は3月2日**」

 紙がパチ、と音を立てる。

 「茉莉の“鬼桜”は別テーマで、夜桜と別侍。初稿は2月17日のフォルダ。長編化のプロットが3月5日に保存されています。到達経路はそれぞれ別」

 恭子が壁の図の到達経路の矢印をなぞる。「同じ方向を見ていても、踏んだ石が違えば、別の道に分類します」

 傍聴席の一人が手を上げる。「占有率は?」

 弘樹が頷く。「語彙と設定の重なりを機械的に比較しましたが、固有名詞は不一致。構造は夜桜の**“別離→誓い→帰還”、一方“鬼隠城”は“潜伏→奇襲→落城”**。骨組みも異なります」


 09:51。

 綾が落ち着かない膝を押さえる。「でも、私に似てる。主人公が。私のことだと思うところが、たくさんある」

 恭子は感情の凡例の紙を示した。

 「受けた感情はここに置きます。似ていると感じた点を列挙し、本文箇所とあなたの体験を一対に並べる。似ている=占有ではないことを、一緒に見ます」

 綾は目を伏せ、懐から折りたたみのメモを出した。字が震えている。

 「夜の匂い、とか、畳、ホイッスル……」

 弘樹が即座に注記を重ねる。「部活動という共通文脈で一般性が高い記述。占有率には入りにくい」


 10:07。

 恭子は一度、会を止めた。「ここで線を引きます。今日、性的指弾と不良認定の話題は扱いません。名誉と安全に直結するので、別席を設けます」

 傍聴席にざわめき。でも、録画の赤点は淡々と瞬くだけだ。

 綾が顔を上げる。「……あの夜、私を守ってくれる人が、誰もいなかったから」

 その言葉に、空気がふっと沈む。茉莉が初めて口を開いた。

 「私も、いなかった。だから、書いた」

 短い言葉が、部屋の隅まで届く。恭子はその温度を忘れないよう、ノートに「声の温度」と書いた。


 10:22。

 資料席から、もう一束。弘樹が差分ログの一覧を置く。

 「大学期以降の版履歴。Claude相談ログは、プロットの枝分かれと修正理由が細かく残っている。“途中”の層が多ければ多いほど、到達経路の独自性が上がる」

 恭子は頷く。「つまり、執筆が継続されている形跡こそが、防波堤になる」


 10:40。

 綾がたまらず身を乗り出す。「でも、私の赤入れは? 茉莉の作品を良くするために、私は直してきた」

 茉莉は首を横に振った。「骨を折られた。私の歩幅を、あなたの歩幅に変えられた」

 恭子はデュアルモニターに切り替え、原文/綾版の二画面を投影した。

 「ここ。主人公の躊躇に、綾さんの断定が上書きされている。作者の弱さは欠陥じゃない。呼吸だよ」

 綾の喉が細く鳴る。

 「……私、直したかったの。私みたいに強く」

 恭子は、そこで初めて綾をまっすぐ見た。

 (あなたはずっと、自分に向けた処方を、他人の物語に塗ってきた)

 声にすると壊れてしまいそうで、言葉は飲み込んだ。


 10:55。

 恭子はまとめに入る。

 「本日の結論は未了。ただし、盗作の事実を示す資料は現時点でなし。占有率は低、到達経路は別。以後、性的指弾については法的助言のもとに議論を分離。赤入れの慣行は中止、同意と目的の明文化を条件に再開可」

 傍聴席の空気がほどける。椅子が軋む音、メモの紙が擦れる音。

 恭子は最後にもう一つ、宿題を出した。

 「綾、あなた自身の物語を書いて。誰の骨にも乗せないで。一次だけで、短くていい。次回までに一本」

 綾は顔を上げ、渇いた唇を結ぶ。「……書けるかな」

 茉莉が短く言った。「書けるよ」


 11:12。休会。

 録画が止まり、椅子が引かれる。

 廊下に出たところで、恭子のスマホが震えた。半藤正英からのメッセージ。

 > 「綾の動画、消すな。燃やしたほうが勝てる。おまえは味方だろ?」

 恭子は画面を見つめ、指を止めた。

 (私は、誰の味方でいたい?)

 ゆっくりと深呼吸し、短く返す。

 > 「私は、言葉の味方です」


 11:25。

 小会議室Bに戻ると、茉莉がホワイトボードに大きく四文字を書いていた。

 執 筆 継 続。

 弘樹が笑う。「標語っぽい」

 茉莉はペンを置き、恭子に向き直る。「今日、来てよかった。冷える会に、温かい声があったから」

 恭子は胸の奥の氷が、少し溶けるのを感じた。

 「次回、一次を待ってる」

 綾はドアの外で立ち止まり、四文字を見た。喉の奥で、ホイッスルの短い音が鳴る気がした。

 (一次……私だけの)

 夕方までに一本、何かを書いてみよう。誰の骨にも乗せずに。


 外に出ると、冬の光が白く鈍かった。

 言葉は、燃やせる。凍らせもできる。けれど――

 地図を持って歩けば、たぶん迷わない。

 恭子はファイルバッグを抱え、次回議事のフォーマットを頭の中で組み上げながら、会館の階段を降りた。


第九話 一次の灯 17:40――境界線の引き方


 15:05。

 市民会館のラウンジは午後の日差しで薄く橙に染まっていた。恭子は紙コップの紅茶を両手で包み、スマホの通知を切る。半藤からの「燃やせ」の追撃は何通も来ていたが、既読をつけないと決めた。

 (私は、言葉の味方でいる)

 胸の中で呟いて、軽く息を吐く。


 15:12。

 ガラス扉の向こう、綾が現れた。髪をひとつに結い、手にはキャンパスノートを一冊だけ。厚い封筒は持っていない。

 「一次、持ってきた」

 声はかすれていたが、目は逸らさなかった。恭子はうなずき、小会議室Bの鍵をもう一度借りる。


 15:20。

 部屋の真ん中の長机に、四人が座った。綾、茉莉、弘樹、恭子。録画は回すが、限定公開に設定。今日は告発ではなく練習だ。

 「ルールは三つ」恭子は指を立てる。「一、一次のみ。二、固有名詞の借用なし。三、直しは作者が選ぶ。いいね?」

 綾は唇を結んで頷いた。


 15:23。朗読開始。

 綾の短編は千二百字ほど。港町の朝、道場の柱に残った手垢、畳の香り、白帯の締め直し。主人公は「誰かに似ている誰か」ではなく、名前のない少女だった。彼女は“強いふり”をやめて、一度だけ遅刻を認める。道場の隅で鳴るホイッスルが合図。

 読み終わると、沈黙が落ちた。

 「……骨が見える」最初に言ったのは茉莉だった。「私の骨じゃない、あなたの骨」

 綾の肩がほんの少し下がる。安堵にも、悔しさにも見える。


 15:34。

 弘樹が控えめに手を挙げた。「二ヶ所だけ、到達経路が曖昧。『港町の朝』の描写と、『白帯の締め直し』の所作。資料の参照があるならメモを。ないなら、覚えてる身体の記憶として残す」

 綾はノートの余白に「身体の記憶」と書き、丸で囲んだ。

 「あと……性的指弾の件は、今日もここでは扱わない。法テーブルで別途」

 茉莉が頷く。視線は柔らかいが、境界は固い。


 15:42。

 恭子は赤いペンを置いた。「綾、言い換えが出たら、今は飲み込んで。『あなたを強くしたい』は、作品の呼吸を止めがち」

 綾は口を閉じ、代わりに両手でノートの背を撫でた。「……わかる。直したいの、私の痛む所」

 「それは、あなたの短編でやろう」恭子は微笑む。「他人の骨に塗らないで」


 16:00。

 短い休憩を挟み、四人は公開の線引きを決めた。

 ・検証会の逐語録は要約版のみ外部公開。

 ・綾の短編は雑誌応募まで非公開、タイトルも仮名。

 ・誹謗と性的指弾に対しては、記録の保全と法相談を先行。

 ・「赤入れ」は招待制、同意書に「目的/範囲/撤回権」を明記。

 弘樹がその場でテンプレを作り、四人の端末に共有リンクを送る。

 「境界線はあなたを守るためのものだし、私たちの歩幅を守るためのものでもある」


**16:18。**



 扉が小さく叩かれた。文芸サークルの若い子が顔を出す。「あの、ロビーに……」

 恭子が出ると、そこに半藤がいた。スーツのまま、笑顔だけは整っている。

 「打ち合わせの続き、外でどう?」

 恭子は首を横に振る。「今はしない。火で人を集めるやり方は、ここには持ち込まない」

 半藤の目が細くなる。低い声で囁いた。「君は損する」

 「損でいい」恭子は背を向け、扉を閉めた。手は震えていたが、足取りは乱れない。


 16:40。

 戻ると、綾が茉莉の前に座り直していた。

 「ごめん」

 それは告白ではなく、始まりの音だった。

 「中学のとき、私は私の物語を持ってなかった。だから、あなたの骨を折った。弱さを『欠陥』って呼んで」

 茉莉は頷いた。「私は書き続ける。あなたも、書き始めるといい」

 「……うん」

 恭子は息をのみ、二人の間に落ちた言葉の温度を、胸にしまった。


 17:10。

 最後に、噂の後始末を話し合う。

 ・「不良」「レズセクハラ」といった虚偽は、反証資料とともに淡々と否定。

・再拡散があれば、発信源ごとに記録し、エスカレーションの判断基準を共有。

 ・恭子はサークル内ルールに「創作物の尊重と一次性」の項を追加。違反は段階的に応募停止。

 誰も英雄にならない、けれど誰も踏み潰されないための、小さな手順。紙に落ちた文字は頼りないが、無いよりずっと強い。


 17:40。締めの五分。

 恭子が小さな鈴を鳴らした。「今日の議事、以上。次回は一次の持ち寄り会。テーマは『遅刻』。長さは八百字、推敲は一回まで」

 綾が笑った。少し泣きそうな顔で。「厳しい」

 「骨を見たいから」恭子が返す。「あなたの骨を」

 茉莉がホワイトボードに四文字を書き足した。

 一次 点火。

 弘樹はノートPCを閉じ、USBを二本掲げる。「バックアップは愛。全員分、持って帰る」


 18:05。

 外に出ると、港風が冷たかった。綾はポケットの中でノートの角を探る。角は丸くなって、指に馴染む。

 (私の遅刻。私の弱さ。私の最初の頁)

 家に帰ったら、机に座って、一行目を書く。誰の骨にも乗らない、私の足で。


 18:22。

 交差点で信号が変わる。恭子のスマホが震えた。半藤から、短くない文面。

 > 「君がそっちに行くなら、俺は俺でやる」

 恭子は空を仰ぎ、返信欄を開く。

 > 「私はここでやる。地図を手に、歩幅を合わせて」

 送信。

 夜の匂いが少し濃くなる。

 言葉は燃える。凍る。だが、灯すこともできる。

 四人はそれぞれの帰り道で、小さな一次の灯を守りながら歩いた。

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パクラー スズシロ @kirakiradaihuku

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