12 金婚式 『この人でよかった、と鼻が知っている』

窓の外では、五十年目の春が静かに、けれど力強く息づいていた。


庭の沈丁花(じんちょうげ)が、湿り気を帯びた風に乗って、甘く、どこか懐かしい香りをリビングの奥まで運んでくる。この香りが漂い始めると、私の胸の奥はいつも、言葉にならない淡い高揚と、少しの切なさで満たされる。


「……お父さん、またテレビつけたまま、うたた寝して」


私は、ソファで小さく丸まって眠る夫・和夫の肩に、薄手のブランケットをかけた。 ブランケットからは、今朝干したばかりの、お日様の匂いと、微かな洗剤の香りがする。和夫の髪はすっかり白くなり、かつて私を抱き上げた逞しい腕も、今は枯れ木のようにもろく見える。けれど、その頬を伝う穏やかな寝息を聞いていると、私の心は不思議と、五十年前のあの喧騒の夜へと引き戻されるのだ。


「……ん、ああ、すまん。つい、うとうとしてしもうた」


和夫が、ゆっくりと目を開けた。その瞳は少し霞んでいるけれど、私を見つめる眼差しには、あの日と同じ、静かな熱が宿っている。


「お父さん、今日は金婚式ですよ。子供たちが来る前に、お茶にしましょうか」


「ああ、そうか。もう、そんなになるか……」


私は、キッチンへ向かい、使い古された急須に茶葉を入れた。 「サラサラ」という乾いた音が、静かな部屋に心地よく響く。お湯を注ぐと、一番茶の瑞々しくも力強い香りが立ち上り、私の鼻腔を優しくくすぐる。


「幸せな結婚ができる人っていうのはな、幸子。きっと、こういう『音』を大切にできる人のことなんだろうな」


和夫が、腰をさすりながら食卓へやってきた。


「音、ですか?」


「そうや。お前が茶を淹れる音、野菜を切るトントンというリズム、そして……二人で黙っていても気まずくない、この静寂の音。五十年前、僕は君のスペックなんて何ひとつ見ていなかった。ただ、君と一緒にいるときの、自分の心臓の音が一番静かだったから、君を選んだんだ」


私は、湯呑みを二つ並べた。 陶器が木のテーブルに触れる「カチリ」という小さな音。 金婚式。五十年。数字にすれば長いけれど、私たちの五感に刻まれているのは、もっと断片的で、鮮烈な記憶の集積だ。


「私ね、お父さん。苦しい時期もありましたけど、一度も後悔しなかったわ。それはね、あなたが私の『匂い』に気づいてくれる人だったから」


「匂い?」


「ええ。私が風邪を引いたときの、少し熱っぽい匂い。子供を叱り飛ばして、自己嫌悪で泣いていたときの、しょっぱい涙の匂い。あなたは何も言わずに、ただ隣に座って、私の手を握ってくれた。その手のひらの、少し脂っこい、安心する匂いがあれば、私は何度でも立ち上がれたのよ」


私は、和夫の手の上に、自分の手を重ねた。 互いの皮膚は、もはや滑らかではない。シミがあり、血管が浮き出し、カサついている。けれど、その凹凸のひとつひとつに、共に乗り越えてきた嵐の夜や、凍える冬の朝の記憶が、指紋のように刻まれている。


「幸せな結婚ができる人、か……」


和夫は、深緑色のお茶を一口啜り、ふぅと長い息を吐いた。


「それは、相手に何かを『求める』人ではなく、相手の『変化』を味わえる人のことかもしれないな。若い頃の君の、花のようだった肌が、こうして美しい和紙のような風合いに変わっていくのを、僕は世界で一番近くで見られた。それが、何よりの贅沢だったよ」


和夫の声が、微かに震える。 私は、視界がじんわりと滲むのを感じた。


幸せな結婚。 それは、完成された彫刻を手に入れることではない。 互いという未完成の石を、五十年という月日をかけて、慈しみながら削り、磨き、時には傷つけ合いながらも、最後には世界にたったひとつの「二人だけの形」に仕上げていくプロセスそのものだ。


不意に、玄関のチャイムが鳴った。 「おじいちゃん! おばあちゃん! おめでとう!」 孫たちの弾けるような笑い声と、元気いっぱいの足音が、廊下を渡ってくる。 家の中の空気が一気に動き、若々しい、エネルギーに満ちた匂いが充満する。


「さあ、お父さん。賑やかになりますよ」


「ああ。今日も、いい日になりそうだな」


私は立ち上がり、窓を大きく開けた。 春の光が、リビングに黄金色の川となって流れ込んでくる。 庭の沈丁花の香りが、さらに強く、甘く、私たちを包み込んだ。


幸せな結婚ができる人。 それは、五十年後の今日、隣にいる人の少し小さくなった背中を見て、「ああ、この人でよかった」と、自分の全細胞で感じられる人のことだ。 条件や理屈ではない。 鼻が、耳が、肌が、そして魂が、その「体温」を正解だと知っている。


私は、和夫と微笑み合い、愛する家族を迎えるために、ゆっくりと歩き出した。 足元の床の、使い込まれた木の温もりが、私の歩みを優しく支えてくれていた。


お読みいただきありがとうございます。 五十年という長い歳月を経て、五感のすべてが「相手という存在」を肯定する、究極の結婚の形を描きました。


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幸せな結婚ができる人 春秋花壇 @mai5000jp

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