11 『この匂いを、二人で』

玄関を開けた瞬間、鼻の奥にまとわりつくような匂いがした。

煮詰まりすぎた味噌汁と、湿った布団、そして――老いの匂い。


「……ああ、帰ってきたのね」


奥の六畳間から、義母の声がした。少し遅れて、テレビの時代劇の効果音が聞こえる。


「ただいま。母さん、寒くない?」


妻の由香が、コートを脱ぎながら声をかける。

その声には、優しさと同じ分量の緊張が混じっていた。


「寒くないわよ。ほら、エアコンつけてるでしょう」


義母はそう言うが、部屋の空気は底冷えしていた。

畳の上に敷かれた電気毛布の熱だけが、局所的に温かい。


「健司くん、悪いわね。仕事帰りに」


「いえ。大丈夫です」


僕はそう答えながら、無意識に肩をすくめた。

この家に来るたび、背中の筋肉がこわばる。


由香が台所に立ち、鍋の蓋を開ける。

「コト…」という音と一緒に、焦げた味噌の匂いが強くなる。


「あ、ちょっと煮詰まってるね」


「いいのよ、どうせ私しか飲まないんだから」


義母の言葉に、由香の手が一瞬止まった。


「そんなこと言わないで。健司も一緒に飲むでしょ」


僕は反射的にうなずいた。


「あ、はい。いただきます」


由香が味噌汁をよそい、僕の前に置く。

湯気の向こうで、彼女の眉がわずかに下がっているのが見えた。


一口すする。

塩辛い。けれど、具の大根は柔らかく、どこか懐かしい味だった。


「……おいしいです」


「そう?」


由香が少しだけ笑う。

その笑顔が、今日一番ほっとした瞬間だった。


義母は箸を置き、じっと僕を見た。


「健司くん、正直に言っていい?」


「はい」


「私、迷惑でしょう」


空気が、ぴんと張りつめる。

時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。


「母さん!」


由香が声を荒げる。


「いいの。聞きたいのよ」


義母の指は、少し震えていた。

その指先が、長年家事をしてきた人のものだと、今さら気づく。


「由香は、結婚したのに、毎週ここに来て。あんたも巻き込んで」


僕は息を吸った。

この匂い、この沈黙、この視線。

逃げたくなる感覚が、正直、ないわけじゃない。


けれど。


「……迷惑だと思ったことは、あります」


由香が、はっと僕を見る。


「でも」


僕は続けた。


「それ以上に、由香が、ここに来るたびにどんな顔をしてるか、知ってます」


由香の指が、ぎゅっとエプロンを握る。


「帰りの車で、無言になるでしょ。窓の外ばかり見て。で、急に『ごめんね』って言う」


「……」


「その『ごめんね』の匂いが、嫌なんです」


自分でも、変な言い方だと思った。

でも、言葉は止まらなかった。


「謝りながら生きる匂いがする。僕は、それが嫌なんです」


義母が、目を伏せた。


「……じゃあ、どうすればいいの」


由香が、小さく言った。


僕は、彼女の手に触れた。

少し冷たい。

でも、確かに生きている温度。


「一緒に、嫌な匂いを嗅げばいい」


由香が、ゆっくりこちらを見る。


「介護って、きれいじゃない。音も、匂いも、感触も」


畳の湿り気。

義母の咳払い。

電気毛布の熱で、じっとりと汗ばんだ空気。


「でも、それを一人で嗅ぐから、辛くなる」


僕は、由香の手を少し強く握った。


「二人で嗅げば、『生活』になる」


由香の目が、潤んだ。


「健司……」


義母が、かすれた声で笑った。


「……変な人ね」


「よく言われます」


「由香、いい人と結婚したわね」


由香が、声を殺して泣いた。

肩が、小さく震えている。


「母さん……ごめん……」


「謝らないで。あんたの泣く音、嫌いじゃない」


義母は、そう言って、由香の背中を撫でた。

その手は、驚くほど温かかった。


僕は、その光景を、湯気の向こうから見ていた。


幸せな結婚ができる人。

それは、

愛する人が背負っている重さを、言葉ではなく、五感で引き受けられる人だ。


帰り道、車の中。

由香が、ハンドルを握りながら言った。


「……怖かった」


「うん」


「でも、一人じゃなかった」


フロントガラスに、夜の街灯がにじむ。


「健司」


「なに」


「私、あなたと結婚してよかった」


その声には、

疲れと、安堵と、ほんの少しの未来が混じっていた。


僕は、シートに身を預け、深く息を吸う。


由香の隣の匂い。

今日の家の匂い。

逃げなかった自分の、胸の奥の熱。


「ああ」


それだけで、十分だった。


幸せな結婚とは、

人生が汚れていく音を、

隣で一緒に聞き続けられることなのかもしれない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る