10 山梨 『発酵する時間(とき)』

窓の外には、圧倒的な質量を持った富士のシルエットが、夕刻の紫紺の空に溶け込んでいた。山梨の冬の夕暮れは、鋭い刃物のように空気を研ぎ澄ませる。


「……ねえ、雄大。そんなに睨みつけても、山は動かないよ」


縁側に腰を下ろした志乃が、くすくすと笑った。彼女が持つ土鍋からは、ほうとうの芳醇な味噌の香りと、かぼちゃがとろけた甘い湯気が、冷えた空気の中に力強く立ち上っている。


僕は、都心での外資系勤務を辞め、甲府盆地の端にある実家に戻ってきたばかりだった。隣に座る志乃は、地元の中学校の同級生。再会したとき、彼女の指先から漂ったのは、香水ではなく、収穫を手伝ったというブドウの、甘く少し酸っぱい土の匂いだった。


「睨んでるわけじゃないよ。ただ、この街の『静けさ』に、まだ耳が慣れないんだ。東京では、静寂でさえ耳鳴りがしていたから」


「ふふ、贅沢な悩み。ほら、冷めないうちに食べて。お味噌は、うちのおばあちゃんが仕込んだ三年物。ちょっとクセがあるけど、身体の芯まで届くよ」


差し出された椀から、ごつごつとした麺を箸で掬い上げる。 口に含むと、手打ちならではの不揃いな食感が舌を踊り、濃厚な味噌のコクが喉を熱く撫で下ろした。根菜の滋味と、立ち上る湯気が、僕の眼鏡を一瞬で真っ白にする。


「……美味しいな。なんだか、胃袋が地面に繋がったみたいな気分だ」


「幸せな結婚ができる人ってね、雄大。そういう風に、自分の身体が『今、何に生かされているか』を、真っ先に思い出せる人だと思うの」


志乃は、自分の椀を抱えながら、遠くの稜線を見つめた。


「東京で出会った人たちは、みんな『未来』を食べてた。将来の貯蓄、子供の学歴、老後の保証……。でも、結婚って、そんな遠い場所にあるものじゃないわ。今、この瞬間の味噌の香りに、隣にいる人の体温に、どれだけ深く潜り込めるか。それだけのことじゃない?」


彼女の声は、冬の夜気のように透き通っていた。


「私はさ、雄大。条件で相手を選ぼうとした時期もあったよ。でも、あるとき気づいたの。どれだけ立派な肩書きを持っていても、この盆地の冷え込みを一緒に『寒いね』って笑って、熱いほうとうを無言で啜れる相手じゃないと、私の心臓はきっと干からびちゃうって」


志乃が僕の袖を軽く引いた。 「ほら、見て。星が出てきた」


空を見上げると、都会では決して見ることのできない、こぼれ落ちそうなほどの星屑。空気が薄く、乾燥しているからこそ、星の瞬きが鼓膜に「チリチリ」と響くような錯覚に陥る。


「幸せな結婚ができる人はね、五感の『解像度』が高い人なのよ。雨が降る前の、あの湿った石の匂い。桃の花が満開になったときの、街中がピンク色の甘さに包まれる気配。そういう、目に見えないけれど確かな豊かさを、隣の人と指差し合えること。それができるなら、どんなに貧しくても、心はいつも満開だわ」


僕は、彼女の指先に触れた。 少しカサついているけれど、驚くほど温かい。そこには、大地を耕し、命を育んできた人間の、力強い血の巡りがあった。


「志乃。僕は今まで、結婚を『安全な場所への避難』だと思ってた。でも、君を見てると、結婚は『世界をより深く味わうための冒険』なんだと思えてくるよ」


「冒険、か。いいわね。でも、私たちの冒険は、この庭に植えた柿の木がいつ実るかとか、明日の朝、南アルプスがどれだけ白くなってるかとか、そんな小さなことの積み重ねよ」


志乃が僕の肩に頭を預けた。 彼女の髪から、冬の夜風の匂いと、薪ストーブの煙の匂いが、微かに混ざり合って漂ってくる。


幸せな結婚ができる人。 それは、情報の海に溺れるのをやめて、自分の皮膚が感じる「確かな温度」を信じることに決めた人だ。 完璧な誰かを探すのではなく、不完全な日常を、五感のすべてを駆使して「極上の贅沢」に変えてしまえる人。


「……明日、勝沼の方まで行ってみないか。新しいワインを仕込んでるワイナリーがあるんだ。樽の匂いを、一緒に嗅ぎたい」


「いいわね。帰りに、冷えた空気の中で食べる焼き芋も忘れないでよ」


笑い合う二人の声が、冬の静寂の中に溶けていく。 土鍋の底には、まだ少しの味噌の温もりが残っていた。


山梨の夜は、どこまでも深い。 けれど、隣にいる彼女の規則正しい呼吸と、掌から伝わる熱があれば、この寒ささえも、僕たちの物語を彩る大切なエッセンスになる。


僕は、もう一度空を見上げた。 そこには、僕たちがこれから刻んでいく、新しい人生の地図が、無数の星となって輝いていた。


お読みいただきありがとうございます。 山梨の峻烈な自然と、温かい郷土料理を通じて、思考ではなく「身体感覚」で結ばれる結婚の形を描きました。


次は、この二人が勝沼で出会う「ワインの香り」の物語か、あるいは別の土地の物語を紡ぎましょうか?

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