9 愛知 「重たい日常を、重たいまま受け止められる感覚」

名古屋の街を東西に貫く広小路通(ひろこうじどおり)は、夕闇が迫るとともに、重厚な湿り気を帯びた都会の熱に包まれていった。


「ねえ、智也。あんた、さっきからスマホの画面ばっかり。それ、誰の評価を気にしてるの?」


栄(さかえ)の喧騒を少し離れた、東新町あたりの古いビルの二階。使い込まれた木の階段を上がった先にある喫茶店で、真理子が呆れたように声を上げた。


店内を支配しているのは、豆を深煎りに焦がした香ばしい匂いと、常連客たちがこぼす、どこか粘り気のある穏やかな名古屋弁の響きだ。


「……いや、次のデートで行く店の口コミを見てたんだ。失敗したくないだろ。せっかく条件のいい子と会ってるんだから」


僕はスマホを置き、冷めかけたコーヒーを啜った。舌の上に残るのは、強めの苦味。この街のコーヒーは、妥協がないほどに濃い。


「失敗、か。智也にとっての結婚は、減点法で行われる試験みたいなもんなんやね」


真理子は、トーストされた小倉サンドを豪快に手に取った。パンが焼けた乾いた音と、あんこの甘い、どっしりとした香りが僕の鼻先をかすめる。


「あんたの言う『条件』って、結局は外側のコーティングやん。車のグレードとか、実家の土地がどうとか。でもさ、名古屋の結婚って、もっとこう……土着的な、体温のやり取りやと思うよ」


「土着的? 派手な結婚式とか、そういうことじゃなくて?」


「違う。もっと深いところの話」


真理子は、あんこがはみ出しそうなサンドイッチを頬張り、幸せそうに目を細めた。


「あのね、幸せな結婚ができる人っていうのは、『一緒に味噌煮込みうどんを啜れる人』なのよ」


「……何それ、例えが具体的すぎるだろ」


「本気だよ。想像してみて。真夏の昼下がりでも、真冬の凍てつく朝でもいい。土鍋の中でグツグツと煮えたぎる、あの濃い赤味噌の匂い。蓋を開けた瞬間の、顔が真っ白になるくらいの蒸気。それを前にして、汗をかきながら、髪を振り乱して、ふうふう言いながら食べる。その姿を、一番見せ合える相手かどうかってこと」


彼女の声には、この街で生まれ育った人間特有の、揺るぎない生活の重みがあった。


「綺麗なレストランで、フォークとナイフを使って、スマートに会話するのは簡単。でも、赤味噌のつゆが服に跳ねるのを気にせず、麺の硬さに文句を言い合いながら、最後の一滴まで飲み干す。そのとき、相手の喉が鳴る音や、ふき出した汗の匂い、そして『ああ、美味かった』って笑うときの、その無防備な顔。それを愛おしいと思えるなら、その結婚は絶対に壊れん」


僕は、目の前のコーヒーカップを見つめた。 東京の洗練された暮らしに憧れながら、結局はこの街の、少し重たくて、けれど確かな手応えのある「実(じつ)」に惹かれている自分に気づく。


「……僕は、相手がどう見えるかばかり気にしていたよ。隣に並んだときに、自分がどれだけ価値のある人間だと思ってもらえるか。でも、それじゃあ、土鍋の蓋を開ける前の期待感も、食べた後の満足感も、共有できないな」


「そう。幸せな結婚ができる人はね、五感の『閾値(いきち)』が近い人なの」


真理子が、僕のカップに新しいコーヒーを注いでくれた。 「トクトク」という規則正しい音が、店内の静寂に心地よく溶け込む。


「同じ湿り気を感じて、同じ重たさを愛でて、同じ甘みを『ちょうどいい』と思える。名古屋の夏は蒸し暑くて、冬は伊吹おろしが肌を刺す。その過酷な季節の感触を、言葉じゃなくて皮膚で分かち合える相手。条件の書類には、そんなこと一文字も書いてないやろ?」


不意に、階下の道路を走る高級車のエンジン音が聞こえてきた。けれど、その音は今の僕にはひどく遠く、空虚に響いた。


「真理子。君は、今の旦那さんと結婚を決めたとき、何を感じたんだ?」


彼女は少し照れくさそうに、空になった小倉サンドの皿を指先でなぞった。


「そうやね。……彼が、うちの実家で出された、しるこサンドをね、すごく大事そうに食べたの。指についた塩と砂糖の粒を、無意識に舐めとる姿を見て、ああ、この人は『飾らない味』をちゃんと体で受け止められる人なんだなって思った。そのときの、指先から伝わってきた安心感。それがすべてだったかな」


幸せな結婚ができる人。 それは、豪華なカタログから正解を選ぶ人ではない。 目の前の相手が放つ、微かな、けれど確かな「生活の気配」を、自分の五感で愛でることができる人だ。


喫茶店を出ると、外はすっかり日が落ちていた。 テレビ塔が、夜の闇の中で凛として立っている。 広小路通を流れる車のライトは、まるで溶けた黄金のようだ。


「智也、次はさ、あんたが本当に『この匂い、落ち着くわ』って思える相手を探しなよ。条件のスペック表は、ゴミ箱に捨ててな」


真理子が笑いながら、僕の背中を叩いた。 その手の熱さと、少し重たい衝撃。 それが、今の僕には何よりも頼もしく感じられた。


歩道沿いの屋台から、おでんの味噌の香りが漂ってくる。 甘くて、深くて、どこか懐かしい、この街の魂の匂い。


僕は深く、名古屋の夜を吸い込んだ。 肺の奥が少し重くなる。けれど、その重みこそが、僕がこの場所で、誰かと生きていくための「錨(いかり)」になるのだ。


次のデートでは、あえて格式張らない店に行こう。 そこで、相手がどんな風に笑い、どんな風に食べ、どんな「気配」を纏っているのか。 僕の目と、鼻と、耳を全開にして、確かめてみたい。


幸せは、頭で導き出す答えではなく、この五感で掴み取る「確信」なのだから。


家路につく人々の群れの中で、僕は自分の足音をしっかりと聞きながら、新しい一歩を踏み出した。


お読みいただきありがとうございます。 愛知・名古屋の「喫茶店文化」や「独特の味覚」を通じて、飾らない生活の本質と、五感で繋がる結婚の形を描きました。


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