8 大阪 頭で納得するものではなく、身体が先に「もうええやん」と言ってしまう関係
御堂筋の銀杏が、夜の街灯に照らされて毒々しいほど鮮やかな黄色に輝いている。十二月の大阪は、湿り気を帯びた冷気と、どこからか漂ってくる出汁の匂い、そして絶え間ない人の話し声で、肌に張り付くような熱気を持っていた。
「なあ、健一。あんた、さっきから『条件』の話ばっかりやんか。まるでお見合い相手の査定してる銀行員みたいやで」
道頓堀の喧騒を少し外れた路地裏。お好み焼き屋『千草』の狭いカウンター席で、隣に座る恵美が、コテを鉄板に叩きつけるようにして言った。「カチカチッ」という金属音が、ソースの焦げる香ばしい煙の中に鋭く響く。
「……だって、一生のことだろ。年収とか、実家の場所とか、そういうのを抜きにしてどうやって『幸せ』を測るんだよ」
僕は、目の前で踊る鰹節を見つめながら答えた。東京の本社から大阪支社へ転勤して一年。この街の、剥き出しの感情と距離感に、僕はまだどこか馴染めずにいた。
「測る? 幸せを? あほらし」
恵美は、キンキンに冷えたジョッキを煽った。喉を鳴らしてビールを飲み干すその姿には、一切の虚飾がない。
「幸せな結婚ができる人っていうのはな、健一。頭で計算する前に、鼻と耳と、この『お腹の底』が勝手に動いてしまう人のことや」
「お腹の底?」
「そうや。あんた、今の彼女とレストランでお高いワイン飲んでるとき、本当の意味で『味がしてる』か? 相手がこぼした言葉の端々に、自分の心が震えるような音を感じてるか?」
恵美が、厚さ三センチはあるお好み焼きを鮮やかに裏返した。「ジュワッ!」という爆発的な音が上がり、一気に豚肉の脂が焼ける甘い匂いが僕たちの顔を包み込む。鉄板から放射される熱が、頬を赤く染める。
「……味は、してると思うよ。でも、会話はいつも、将来の資産形成とか、どこのタワマンが資産価値が高いかとか、そんなことばかりだ」
「それは『契約書』の読み合わせやん。結婚やない。結婚っていうのはな、このソースが焦げた匂いを一緒に嗅いで、『たまらんなぁ』って笑い合えることや。相手のちょっとした体臭とか、寝起きの掠れた声とか、そういう『理屈じゃない感覚』を、愛おしいと思えるかどうかなんよ」
恵美は、ハケでたっぷりとソースを塗りたくった。ドロリとした黒い液体が熱い生地の上で沸騰し、酸味の効いた香りが鼻腔を突く。
「ええか、健一。大阪の人間がなんで食いしん坊か知ってるか? 自分の五感を信じてるからや。美味しいものは美味しい。嫌なもんは嫌。それを隠さんと、生身でぶつかり合う。結婚も同じや。相手の年収が半分になっても、このお好み焼きを半分こして、『やっぱりここが一番やな』って言えるかどうか。その確信は、脳みそやなくて、この舌が、肌が覚えてるもんやねん」
彼女は、マヨネーズを細く、格子状に美しく引いた。その指先の動きには、迷いがない。
「あんた、前の彼女と別れたとき、何が一番寂しかった?」
「え……」
「高級なディナーに行けなくなったことか? 広い部屋に住めなくなったことか? 違うやろ。たぶん、夜中にふと目が覚めたとき、隣にいた人の、あの独特の体温が消えたことやないんか」
不意に、胸の奥を刺されたような感覚があった。 東京で別れた彼女。条件は完璧だった。けれど、彼女が去った後、僕の記憶にこびりついていたのは、彼女のスペックではなく、冬の朝、冷たい布団の中で僕の足に触れてきた、彼女の足先の「冷たさ」だった。その冷たさを温め合える時間がなくなったことが、何よりも悲しかったのだ。
「幸せな結婚ができる人っていうのはな、自分の『不機嫌』も『だらしなさ』も、全部相手の五感に預けられる人や」
恵美は、出来上がったお好み焼きをコテで半分に割った。断面から湯気が溢れ出し、山芋のふんわりとした柔らかさが視覚からも伝わってくる。
「ほら、食べ。熱いうちに食べんと、幸せが逃げるで」
一口、口に運ぶ。 サクッとした表面の食感の後に、とろけるような生地の甘みが広がる。ソースの力強いコクが舌を支配し、紅生姜の刺激が時折顔を出す。
「……美味い。すごく、美味しい」
「やろ? この味を、言葉を尽くして説明するより、ただ『美味いなぁ』って笑って、相手の顔を見る。その瞬間の、相手の瞳の輝きとか、少し緩んだ口角とか。そういうものを一生集め続けたいと思える相手。それが、あんたにとっての『幸せな結婚ができる人』や」
店の外からは、酔客の笑い声や、戎橋の上で歌うストリートミュージシャンの歌声、そして絶え間なく流れる水の音が聞こえてくる。カオスで、雑多で、けれど圧倒的な「生」の匂いがする大阪の夜。
「健一。あんた、東京の物差しで自分を測るの、もうやめ。この街の湿った風に吹かれて、自分の肌が何を求めてるか、もう一度思い出してみ」
恵美が、僕の湯呑みに熱いお茶を注いだ。 立ち上る湯気が、僕の心の強張りをゆっくりと溶かしていく。
「……恵美。君とこうして食べていると、なんだか自分が、ただの『一人の男』に戻れる気がするよ」
「当たり前やん。あんたは、数字の塊やない。肉があって、血が流れてて、お腹が空く一人の人間なんやから」
彼女の少し掠れた、けれど温かい大阪弁が、僕の鼓動と共鳴する。 幸せな結婚とは、完成された絵画を眺めることではない。 泥臭い、味の濃い、けれど確かな温もりのある日常を、五感のすべてを使って、隣の誰かと「共食」していくことなのだ。
店を出ると、冷たい夜風が火照った顔に心地よかった。 ソースの匂いがまだ鼻先に残っている。 僕は、深く、深く、大阪の夜を吸い込んだ。
「恵美、次はさ、あの路地の奥にある串カツ屋に行かないか? 揚げたてのあの音が、今、どうしても聞きたいんだ」
「あはは! あんた、やっと大阪の呼吸になってきたやんか。ええよ、ついてったるわ。二度漬け禁止やで!」
彼女の笑い声が、御堂筋の夜空に高く響いた。 その音は、どんな音楽よりも僕の心を弾ませ、明日への足取りを確かなものにしてくれた。
お読みいただきありがとうございます。 大阪のパワフルな食文化と、建前を剥ぎ取った本音のやり取りを通じて、「五感で納得する結婚」の形を描きました。
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