7 山口 不完全さと同じ速度で呼吸できる関係

藍色に暮れゆく関門海峡は、まるで巨大な生き物の背中のように静かにうねっていた。


「ねえ、大輔くん。この風、ちょっとだけ鉄の匂いがするね」


下関の古い波止場。隣に立つ真由が、首に巻いた薄手のストールを指先で整えながら言った。彼女の言う通り、対岸の門司から吹き抜ける風には、潮の香りに混じって、造船所や工場の煙、そして関門汽笛の震えが運んでくる「はたらく街」の硬質な匂いがあった。


「本当だ。でも、嫌な匂いじゃないだろう?」


「うん。なんだか、ちゃんと誰かがそこで生きてるって感じがして、安心する」


真由は、僕が東京でのコンサルタント生活に区切りをつけ、故郷の山口に戻る決心をしたとき、迷わず付いてきてくれた女性だ。東京での彼女は、常に最新のトレンドを纏い、銀座のレストランで美しく盛り付けられた料理をSNSに流す、いわゆる「洗練された女性」だった。けれど、今の彼女は、波しぶきで少し湿った空気を深々と吸い込み、自分の足でしっかりと地を踏みしめている。


「幸せな結婚ができる人ってね、大輔くん。たぶん、『不完全なもの』の中に美しさを見つけられる人だと思うの」


真由が、僕の手をそっと握った。彼女の掌は少し冷えていたけれど、脈打つ鼓動が直接僕の皮膚に伝わってくる。


「不完全なもの、か」


「そう。東京にいた頃、私たちは完璧なものを買い続けてた。傷ひとつないキャリア、高級なマンション、誰に見せても恥ずかしくないパートナー。でも、それってプラスチックみたいに無機質で、一度ヒビが入れば終わりでしょう? でも、この街の風や、あの古びた灯台を見て。錆びていたり、色が剥げていたりしても、そこには積み重なった時間と、愛着がある」


不意に、波止場のすぐそばにある小さな居酒屋から、出汁の香ばしい匂いが漂ってきた。山口の名物、瓦そばを焼く熱い瓦の匂いと、甘辛い肉の香りだ。


「お腹、空いたね」


「あはは、さっきまでカッコいいこと言ってたのに」


僕たちは、吸い寄せられるようにその店の暖簾をくぐった。 「ガラガラ」と乾いた音を立てて開く引き戸。店内は、長年染み付いた木の匂いと、熱気が混じり合っている。


カウンターに座ると、目の前で熱せられた瓦の上に茶そばが乗せられ、「ジューッ」という激しい音が弾けた。立ち上る湯気が、僕たちの眼鏡を白く曇らせる。


「幸せな結婚ができる人、か。僕はさ、真由。今日、この熱い瓦の音を一緒に聞いて、『美味しそうだね』って笑い合えること自体が、その答えなんじゃないかって思うんだ」


運ばれてきた瓦そばを、箸で手繰り寄せる。カリカリに焼けた茶そばの香ばしさと、もみじおろしのピリッとした刺激が鼻を抜ける。


「美味しい……! 舌が火傷しそうなくらい熱いけど、心の奥がじわーって温かくなる味だね」


真由が、熱さに身をよじらせながら笑った。その笑顔は、東京の高級フレンチで見せていた、完璧に計算された微笑みよりも、ずっと鮮やかで、人間臭い美しさに満ちていた。


「幸せな結婚っていうのは、相手の条件を愛でることじゃない。相手と一緒にいるときの『自分の状態』を愛せるかどうか、なんだよね」


真由が、レモンを絞りながら続けた。


「私、大輔くんと出会う前は、結婚は『自分を高く売るための契約』だと思ってた。だから、相手が年収いくらか、どんな車に乗っているか、そんなことばかり耳に入ってた。でも、今の私、大輔くんがこの街で少し泥臭く働いている姿や、仕事で疲れて帰ってきたときの、少し汗の混じった匂いさえ、愛おしいって思うの。それは、私の五感が『この人は信頼できる』って教えてくれてるから」


僕は、彼女の言葉を噛み締めるように、地酒の『東洋美人』を口に含んだ。 フルーティーで華やかな香りが広がり、後味は山口の大地のように力強く、潔い。


「真由。僕は山口に戻ってきて、君のことがもっと深くわかるようになった気がする。都会のノイズが消えて、君が何に驚き、何に悲しみ、どんな風に笑うのか。その一つ一つの音が、澄んだ秋の夜空みたいに、はっきりと聞こえてくるんだ」


「それ、最高にロマンチックな告白だね」


真由は、少し照れくさそうに酒器を掲げた。 陶器同士が触れ合う、「カチン」という澄んだ音。


店を出ると、関門海峡には対岸の街灯りが宝石を散りばめたように輝いていた。けれど、かつての僕たちならその輝きに自分を投影しようとしただろうが、今は違う。その光を「綺麗だね」と眺めながらも、僕たちの関心は、繋いだ手の温もりや、次に吸い込む夜気の冷たさに向いている。


「幸せな結婚ができる人。それは、五感のチャンネルを相手に合わせられる人だ」


僕は歩きながら言った。


「雨の匂いを一緒に嗅いで、冬の朝の布団の重みを一緒に愛でて、たまに喧嘩したときの、部屋に満ちる刺々しい静寂さえも、二人で乗り越えていける人」


「そうね。スペックは外から与えられるものだけど、五感の共有は二人で作り上げていくものだもんね。大輔くん、明日、角島(つのしま)までドライブに行かない? エメラルドグリーンの海を見て、潮風を全身で浴びたいな」


「いいよ。早起きして、あの長い橋を渡ろう」


山口の夜は深い。 けれど、その暗闇は決して恐ろしいものではなかった。 隣を歩く彼女の、確かな足音。 時折触れ合う、柔らかな肩。 そして、この街が放つ、潮と鉄と生活の匂い。


それらすべてが、僕たちの「結婚」という名の、形のない彫刻を、少しずつ、けれど確実に削り出していく。


幸せな結婚とは、完成されたゴールではない。 この山口の厳しい冬を、美しい春を、そして熱い夏を、五感を全開にして、隣の人と一緒に「味わい尽くす」という決意の連続なのだ。


僕たちは、海峡を渡る汽笛の音を背に聞きながら、僕たちの新しい家へと続く坂道を、ゆっくりと登り始めた。


お読みいただきありがとうございます。 山口・下関の海風や、瓦そばの熱気を通じて、スペックではなく「感覚の共有」から生まれる絆を描きました。


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