6 愛媛 嵐のあとにしか訪れない、凪の肯定
十月の午後、瀬戸内海は凪いでいた。空と海の境界線が溶け合い、淡い乳白色の光が世界を包んでいる。
「ねえ、浩介くん。この匂い、わかる?」
軽トラの助手席で、陽葵(ひなた)が窓を全開にして目を細めた。 僕たちの鼻腔をくすぐるのは、潮の香りと、それ以上に濃厚な、熟れ始めた早生(わせ)みかんの甘酸っぱい香りだ。愛媛の、それも宇和島の急斜面に広がる段々畑を走っていると、風そのものがオレンジ色に染まっているような錯覚に陥る。
「みかんの匂いだろ? 陽葵が好きそうな、甘くて少し尖った匂い」
「それだけじゃないよ。もっとよく嗅いでみて。……土が、海を飲み込んでる匂いがする」
彼女はそう言って、少しだけはみ出した毛先を耳にかけた。東京で広告の仕事をしていた頃の陽葵は、常にシャネルの19番を纏い、都会の排気ガスを遮断するように背筋を伸ばしていた。けれど、故郷に戻り、僕と結婚してからの彼女は、洗いたての綿のような、あるいは陽だまりのような、無防備な匂いがするようになった。
「幸せな結婚ができる人ってさ、結局『季節の移ろい』を一緒に怖がらずに楽しめる人だと思うんだよね」
陽葵の声が、エンジンの振動に混じって柔らかく響く。
「怖がる? 季節を?」
「そう。東京にいた頃、私は冬が来れば高いコートを買って自分を飾り、夏が来れば冷房の効いた部屋に逃げ込んでた。季節の変化は、戦う相手か、耐える対象だったの。でも、今は違う」
軽トラを路肩に止めると、波の音が「ザザ……ザザ……」と、心臓の鼓動に近いリズムで聞こえてきた。 車を降りると、足元には砕けた貝殻と乾いた土の感触。陽葵は、段々畑の一角にある自分たちの木に歩み寄った。
「見て、この実。まだ少し青いけど、肌がピリピリしてる。一生懸命、お日様の光を溜め込んでるんだよ」
彼女が小さな実を一つ摘み、皮を剥いた。 「プシュッ」 瑞々しい油分が弾け、鮮烈なシトラスの香りが僕たちの周りに霧のように広がった。指先に残る、少しベタつく果汁の甘み。
「浩介くん、食べてみて」
差し出された一房を口に含む。 舌の上で薄皮が弾け、溢れ出す酸味の奔流。それは、洗練されたレストランのデザートのような計算された甘さではない。大地の荒々しさと、瀬戸内の太陽がそのまま凝縮されたような、野生的な味だった。
「酸っぱい……けど、力が湧いてくる味だ」
「でしょ? 幸せな結婚ができる人っていうのは、この『酸っぱさ』を一緒に笑い飛ばせる人なのよ。甘い時期なんて、人生のほんの一瞬じゃない。でも、この酸っぱい実を食べて、二人で顔を見合わせて『目が覚めるね!』って言い合えるなら、どんなに不作の年だって越えていける」
陽葵の瞳には、かつて都会のネオンを追っていた頃の焦燥感はない。代わりに、目の前の海を、そして隣にいる僕を、まっすぐに見つめる静かな覚悟があった。
「浩介くんの手、触ってもいい?」
僕は、草刈り機を握り続けて硬くなった自分の掌を出した。 陽葵の、白くて柔らかな指先が、僕のタコだらけの皮膚を丁寧になぞる。
「……あったかい。そして、ザラザラしてる。この手の手触りがね、今の私にはどんな高級なシルクよりも安心するの。理屈じゃない。この手が、明日も明後日も、私と一緒にこの土を触ってくれるんだっていう『触覚の確信』があるから」
幸せな結婚。 それは、履歴書に書かれた数字や、SNSにアップされる輝かしい瞬間を繋ぎ合わせることではない。 朝、目覚めた時の隣の人の少し重い体温。 夕暮れ時、潮風に吹かれながら分かち合う、酸っぱいみかんの味。 そして、言葉が途切れた時に流れる、凪いだ海のような沈黙の心地よさ。
「私、浩介くんと結婚して、耳が良くなった気がするんだ」
「耳?」
「うん。遠くを走る船のエンジンの音、段々畑を抜ける風の音、それから……あなたの呼吸の音。東京では、自分の心臓の音さえ聞こえないくらい、ノイズに溢れてた。でもここでは、相手が今、どんな気持ちで息を吸っているかが、振動で伝わってくる気がする」
陽葵が僕の胸に耳を当てた。 セーター越しに伝わる、彼女の柔らかな重み。 僕の鼓動は、少しだけ早まったけれど、それは不安からではなく、彼女という存在を全身で受け止めているという、確かな生命の反応だった。
「幸せになる人は、自分の『好き』という感覚に、嘘をつかない人だよね」
陽葵の声が、胸板を通して直接響く。
「誰かに羨ましがられるためじゃなく、自分の肌が、鼻が、舌が、『ここにいたい』って叫ぶ場所を、大切にする人。浩介くん、私、この島の匂いが大好き。そして、その匂いを一緒に愛してくれる、あなたの匂いが大好き」
西の空が、さらに濃い橙色に染まり始めた。 海面は鏡のように空を映し、世界中がオレンジ色の光に満たされていく。
僕は陽葵の肩を抱き寄せた。 彼女の髪から、微かに潮の香りと、みかんの匂いがした。 その匂いを吸い込むたびに、僕の中の「幸せ」という曖昧な概念が、輪郭を持って固まっていく。
「陽葵。今年の冬は、また寒くなるらしいよ」
「いいよ。一緒にこたつに入って、指を真っ黄色にしながら、一番甘いみかんを探そうよ」
彼女が笑うと、夕闇の中に小さな鈴が鳴るような、澄んだ音が響いた。 幸せな結婚ができる人。 それは、特別な何かを成し遂げる人ではない。 瀬戸内の静かな凪のように、日常の中にある微かな「快」を、隣の誰かと丁寧に拾い集めていける人のことだ。
僕たちは再び軽トラに乗り込み、夕焼けの中を走り出した。 背後の荷台には、甘酸っぱい香りを放つみかんの山。 フロントガラスの向こうには、静かに、けれど雄大に広がる愛媛の海。
アクセルを踏む僕の足裏に伝わる、確かな大地の鼓動。 隣でハミングを始めた陽葵の、柔らかな気配。 すべてが混ざり合い、僕たちの「今」という物語が、潮風に乗ってどこまでも続いていく。
お読みいただきありがとうございます。 瀬戸内の穏やかな景色と、みかんの鮮烈な香りを通じて、日常の感覚を共有することの尊さを描きました。
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