5 子供の病気 幸福の共有ではなく、恐怖と無力の共有
深夜二時。リビングの隅で、加湿器が「シューッ」という微かな、しかし執拗な音を立てて白い蒸気を吐き出していた。
家の中には、消毒液のツンとした匂いと、子供特有の甘酸っぱい汗の匂い、そして言いようのない不安が重く停滞している。
「……熱、まだ下がらないね」
寝室から戻ってきた妻の直子が、掠れた声で言った。彼女の目元には、寝不足による隈が色濃く、髪は少し乱れている。僕はソファから立ち上がり、彼女が持っていた氷嚢を受け取った。
「代わるよ。直子は少しでも横になって」
「いいの。それより、あの子の呼吸……さっきより少しだけ、ヒューヒュー言ってる気がして」
直子の指先が僕の腕に触れる。その手は驚くほど冷たく、微かに震えていた。
四歳になる息子が、高熱を出して三日目になる。病院では「ただの風邪」と言われたが、親の五感は、それが単なる数値としての「三十九度」以上の重みを持っていることを敏感に察知していた。
「幸せな結婚、か……」
不意に、独身時代の友人が言った言葉が脳裏をかすめた。『条件がいい相手と結婚して、何不自由ない暮らしをすることこそが成功だ』。けれど今、この静まり返った絶望に近い夜の中で、その言葉がいかに空虚な響きを持っているかを痛感する。
「ねえ、健一くん。覚えてる?」
直子が、冷え切った僕の手に自分の手を重ねた。
「あの子が生まれる前、私たち、どんな結婚がしたいかって話したこと」
「ああ。たしか、美味しいものをたくさん食べて、綺麗な景色をたくさん見ようって、そんなことを言ったかな」
「そう。でも今、私が一番『この人と結婚してよかった』って思っているのは、綺麗な景色を見ているときじゃないの」
彼女は、寝室のドアを少しだけ開けて、暗闇の中で眠る息子の気配を確かめるように視線を向けた。
「今みたいに、あの子の苦しそうな呼吸を一緒に聞いて、同じように胸を痛めて、二人でこの『重い空気』を分け合っている瞬間。ああ、この人となら、地獄の底まで一緒に呼吸を合わせられるんだなって。そう思うの」
直子の声は、湿り気を帯びていた。けれど、その瞳には、恐怖を越えた覚悟のような光が宿っていた。
幸せな結婚ができる人。 それは、人生の絶頂期を共に謳歌できる人ではない。 子供の熱い身体を抱き抱え、その「熱」の匂いに怯えながらも、逃げ出さずに隣に立ち続けられる人のことだ。
「直子、見て。あの子、少しだけ寝息が深くなったよ」
僕は、寝室のベッドの脇に跪き、息子の額に手を当てた。 手のひらに伝わる、燃えるような熱。けれど、そこには確かに、命が懸命に戦っている脈動がある。
「本当だ……少し、落ち着いたかな」
直子が僕の隣に座り、僕の肩に頭を預けた。 彼女の髪から漂う、使い慣れたシャンプーの香りと、ずっと看病を続けてきた疲れの匂い。その匂いは、どんな香水よりも、僕に「家族」という絆の現実を突きつける。
「健一くん。私ね、スペックで人を選んでいたら、今ごろきっと、一人でこの夜に耐えられなかったと思う」
「スペック?」
「そう。年収とか、職業とか。そういう『光り輝くもの』しか見ていなかったら、こういう『泥臭くて、苦しくて、暗い夜』が来たときに、相手を恨んでしまったかもしれない。なんで私を助けてくれないのって。なんでこんなに不便なのって」
直子の指が、息子の小さな、熱い手をそっと包み込む。
「でも、私はあなたの『匂い』や『手の温度』を選んだ。理屈じゃなくて、この人の隣なら、たとえ暗闇の中でも息ができるって、私の体が知っていたから」
不意に、息子が「……ママ」と小さく呟いた。 その声は、カサカサに乾いていたが、確かな意思を持って僕たちの鼓膜を震わせた。
「ここにいるよ。パパもママも、ずっとここにいるからね」
直子が、息子の頬に自分の頬を寄せた。 熱い皮膚と、冷たい皮膚が触れ合う。その瞬間に生まれる、言葉にならない感情の交流。それは、論文やマニュアルでは決して説明できない、生身の人間だけが共有できる「祈り」の形だ。
午前四時。 窓の外が、わずかに白み始めていた。 加湿器の音は相変わらず続いていたが、部屋を満たしていた張り詰めた空気は、夜明けの光とともに少しずつ薄まっていく。
「健一くん、お茶、淹れてくるね。温かいやつ」
直子が立ち上がり、キッチンへ向かった。 やがて聞こえてくる、お湯の沸くシュンシュンという音。茶葉が開き、芳醇な香りがリビングに広がっていく。
その日常の何気ない「音」と「匂い」が、これほどまでに救いとして響くことを、僕は独身の頃には知る由もなかった。
「お待たせ。ほうじ茶、熱いから気をつけて」
差し出された湯呑みから、立ち上る湯気が僕の顔を包む。 一口含むと、香ばしい苦味とともに、強張っていた全身の筋肉がゆっくりと解けていくのがわかった。
「……幸せだね」
不意に、僕の口からその言葉が漏れた。 子供が病気で、自分たちもボロボロで、外は凍えるような寒さなのに。
「ふふ、こんな時に変な人」
直子が小さく笑った。その笑い声は、朝日を反射する水滴のように、透明で、清らかだった。
幸せな結婚ができる人。 それは、不幸や困難が訪れたとき、それを「排除すべき敵」としてではなく、「二人で味わうべき苦味」として受け入れられる人だ。 美味しい食事の味を知っている人よりも、味のしない食事を共に耐えられる人。 明るい光の下で笑い合う人よりも、深い闇の中で互いの気配を頼りに歩き続けられる人。
「ねえ、健一くん。あの子が元気になったら、一番に何をしようか」
「そうだね……まずは、公園の土の匂いを嗅がせてあげたいな。それから、思いっきり冷たいバニラアイスを一緒に食べよう」
「いいわね。それ、最高に美味しそう」
僕たちは、まだ熱い身体で眠る息子のそばで、寄り添うようにして朝を迎えた。 窓の外からは、夜明けを告げる鳥の声が聞こえてくる。
人生には、どうしても避けられない嵐の日がある。 けれど、五感を研ぎ澄ませて、相手の体温を、呼吸を、その存在のすべてを慈しむことができれば、どんな嵐も二人を切り離すことはできない。
僕は、隣に座る妻の、少しカサついた手を握りしめた。 その手のひらから伝わってくる、揺るぎない信頼の熱。 それこそが、僕たちがこの街で、この人生で掴み取った、唯一無二の「幸せ」の正体だった。
太陽が地平線から顔を出し、部屋の中に柔らかな黄金色の光が差し込む。 息子の寝息は、いつの間にか静かで、深いものに変わっていた。
お読みいただきありがとうございます。 子供の病気という、親にとって最も試される場面を通じて、結婚の本質的な幸せが「苦難の共有」にあることを、五感に訴える描写で描きました。
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