4 青森 「共に季節を越える身体」
十月の終わり、弘前(ひろさき)の夕暮れは、驚くほど足早に深い藍色へと沈んでいく。
「なあ、悠介。おめ、またそんな難しい顔して。リンゴの蜜でも数えてるのか?」
軽トラの荷台で、幼馴染の陽一が豪快に笑った。彼の周りには、収穫したばかりの『ふじ』が、木箱の中で真っ赤な波となって揺れている。鼻腔を突き抜けるのは、甘酸っぱく、どこか冷涼なリンゴの芳香。この時期の青森は、街全体がこの果実の「命の匂い」に支配される。
「……別に、難しいことなんて考えてないよ。ただ、東京で見てきた『結婚』と、ここの空気が、あまりに違いすぎてさ」
僕は、冷えたコンクリートの縁に腰を下ろし、吐き出した息が白く濁るのを眺めていた。東京のマンションの、あの無機質なエアコンの風ではない。奥羽山脈から吹き下ろす風は、肌を刺すような鋭さの中に、湿った土と、枯れ葉の混じった、峻烈な「季節の感触」を孕んでいる。
「東京の結婚、か。なんだ、テレビみたいに『年収がどうだ』とか『タワマンがどうだ』とか、そういう話か?」
陽一は、軍手を脱いで、ゴツゴツとした、土の染み込んだ手で自分の首筋を擦った。その手は、真冬の吹雪の中でも、凍てつく枝を剪定し続けてきた、強靭な「生きるための道具」だ。
「そうだよ。向こうじゃ、結婚はスペックの擦り合わせだ。冷蔵庫を買うみたいに、機能を比較して、一番損をしない相手を選ぶ。でもさ、陽一。お前と美奈子さんを見てると、そういうのが全部、薄っぺらく見えるんだ」
陽一の奥さん、美奈子さんは、今まさに作業小屋の奥で、ストーブの上に乗せた大きな鍋をかき混ぜている。小屋からは、味噌と出汁の、香ばしくも温かい匂いが漂ってきた。
「悠介、こっちさ来い。立ち話してると、魂まで凍(し)みるど」
美奈子さんが、暖簾の向こうから顔を出した。彼女の頬は、ストーブの熱と外の寒さの温度差で、リンゴみたいに赤く染まっている。
小屋の中に入ると、そこは別世界だった。 薪ストーブが「パチッ、パチッ」と小気味よい音を立てて爆ぜ、身体の芯まで染み通るような柔らかな熱気が僕たちを包み込む。
「幸せな結婚、ねぇ……」
美奈子さんが、お玉で掬った『けの汁』を、大ぶりの椀に注ぎながら呟いた。刻んだ根菜の、滋味深い匂いが立ち上る。
「悠介くん、あんた。相手の手を握ったとき、その手が『この冬を一緒に越せる手だ』って、感覚でわかるかい?」
「冬を越せる手……?」
「そう。青森の冬は長い。真っ白な雪に閉じ込められて、外の音も全部消えて、自分たち二人の呼吸の音しか聞こえなくなる夜がある。そのときにさ、相手の存在が『重荷』じゃなくて、自分を温める『薪』みたいに感じられるかどうか。それは頭で考えることじゃない。肌が知ってることなんだ」
彼女は、湯気が立ち上る椀を僕の前に置いた。 一口啜ると、大根や人参の甘みが、凍えた喉をゆっくりと撫で下ろしていく。じわり、と指先まで血が巡る感触。
「私と陽一なんてさ、スペックなんて何もありゃしない。あるのは、この冷たい土地で、泥にまみれて、一緒にリンゴを育てるっていう『匂い』だけ。でもね、夜中に吹雪で家が揺れるとき、隣で寝てるこいつの『いびき』を聞くと、ああ、生きてるなって。この土の匂いがする男がいれば、明日も雪かきできるなって。そう思えるの」
陽一が照れくさそうに、熱い汁を音を立てて啜った。
「悠介、結婚なんてのはよ、綺麗なドレスを着ることじゃない。泥だらけの長靴を、並べて玄関に置くことなんだ。その泥の匂いを、汚いと思わずに『今日もお疲れさん』って笑い合える感覚。それが『幸せな結婚ができる人』の正体なんじゃないか?」
外では、いつの間にか風の音が激しさを増していた。トタン屋根がバタバタと鳴り、冬の到来を告げる『初雪』が、窓ガラスを微かに叩く。
「東京で会ってた人たちは、みんな綺麗だった。香水の匂いも素敵だったし、会話もスマートだった。でも……」
僕は、手の中の椀の温もりを噛み締めた。
「その人たちと、この『けの汁』を啜っている姿が想像できないんだ。静まり返った雪の夜に、二人きりで、ただ火を見つめていられるか。相手の食べ物を噛む音や、少し重い足音を、心地よいと思えるか。そういう『本能的な安心感』を、僕は無視して、カタログばかり見ていたのかもしれない」
「おめ、やっとわかったか」
陽一が僕の肩を、ずっしりと重い手で叩いた。その重みは、決して不快なものではなく、この大地に僕を繋ぎ止めてくれるような、不思議な頼もしさがあった。
「幸せな結婚はさ、五感の『同調』なんだ。同じ寒さを感じて、同じ汁物を『めぇ(美味い)』と感じて、同じリンゴの香りに、明日の希望を見る。条件で選んだ相手は、条件が変われば他人になるけど、五感で結ばれた相手は、たとえ目が見えなくなっても、その『気配』だけで愛せる」
美奈子さんが、ストーブの上に干してあった軍手を裏返した。乾いたウールの、少し焦げたような、温かな匂い。
「悠介くん。次、誰かと出会ったらさ、まず一緒に、風の強い日を歩いてごらん。そのときの相手の髪の乱れ方や、寒そうに身を縮める姿を見て、あんたの心が『温めてあげたい』って疼くかどうか。あんたの鼻が、その人の体温の匂いを『好きだ』って言うかどうか。それだけで十分なんだよ」
僕は、最後の一滴まで汁を飲み干した。身体は熱く、心は驚くほど静かだった。
作業小屋を出ると、空からは白い欠片がひらひらと舞い落ちてきた。 初雪だ。 鼻に触れた雪が、一瞬で熱に溶けて水滴に変わる。その冷たさが、今の僕にはひどく愛おしく感じられた。
暗闇の中、リンゴ畑の向こうにある陽一たちの家の窓から、オレンジ色の柔らかな光が漏れている。その光の下には、確かな生活の匂いがあり、互いの欠点さえも「冬を越すための愛嬌」に変えてしまう、深い受容がある。
「幸せな結婚ができる人」とは。 それは、都会の喧騒の中で磨り減った感性を、もう一度、原始的な土の匂いや、火の熱さ、そして隣にいる人の「命の気配」へと呼び戻せる人のことだ。
僕は深く、冷たい北国の空気を吸い込んだ。 肺の奥がツンとする。けれど、その痛みこそが、僕が今、自分の感覚で世界を捉え直している証拠だった。
次に誰かの手を握るとき。 僕はきっと、その人のスペックではなく、その手のひらから伝わってくる「季節の重み」を、真っ先に感じるだろう。
雪は次第に勢いを増し、世界を白く塗り替えていく。 その静寂の中で、僕は自分の心臓が、静かに、けれど力強く、確かなリズムで時を刻んでいるのを感じていた。
お読みいただきありがとうございます。 青森の厳しい冬を前にした、命の力強さと、五感で結ばれる夫婦の姿を描きました。
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