3 沖縄 「文明から本能へ戻る通過儀礼」

耳の奥で、絶え間なく繰り返される潮騒の音が、脳の皺をひとつひとつ伸ばしていくようだった。


「なあ、海斗。幸せってさ、もっとこう、必死に追いかけて、ようやく指先が触れるような冷たいメダルみたいなもんだと思ってたわけさ」


隣でオリオンビールの缶を傾けているのは、幼馴染の比嘉(ひが)だ。彼の手の甲は、一年中容赦なく降り注ぐ沖縄の陽光に焼かれ、深い褐色の節くれだった皺が刻まれている。


名護の、観光客も寄り付かないような静かな浜辺。夕暮れ時、空はマンゴーの果肉のようなオレンジから、熟れすぎたドラゴンフルーツのような深い紫へと溶け落ちていく。湿り気を帯びた潮風が、肌をねっとりと撫で回し、鼻腔の奥にはマングローブの泥と、少し焦げたようなサンゴの匂いが混ざり合って届く。


「メダルね。お前、東京で働いてた頃はそんな顔して言ってたな」


僕は、砂の上に直接腰を下ろした。お尻に伝わる砂の熱は、昼間の余熱をたっぷりと含んでいて、まるで誰かの体温のように生々しい。


「ああ。あっちにいた時はさ、結婚なんて、勝ち取らなきゃいけない『称号』だと思ってた。年収、家柄、勤め先……全部を天秤にかけて、少しでも重い方を選ばなきゃ損するって。心臓がずっと、スマホのバイブレーションみたいに細かく震えてたわけ。常に何かに追い立てられてよ」


比嘉はそう言って、冷えたビールを喉に流し込んだ。ゴクリ、という音が静かな波音に混じる。


「今の奥さんと出会ったのは、こっちに戻ってきて、サトウキビの収穫を手伝ってた時だろう?」


「そう。真夏の一番暑い日。セミの声が鼓膜を突き破るくらい鳴いててよ、頭の中が真っ白になるような日さ。彼女、麦わら帽子を目深に被って、首に巻いたタオルの匂いをさせながら、キンキンに冷えたシークワーサー水を差し出してくれたんだ」


比嘉の目が、遠く水平線の向こう、闇に沈みゆく紺碧の海を見つめる。


「その時さ、その水の冷たさが、胃の腑に染み渡る感覚があまりに鮮烈で……なんて言うかな、彼女の指先が触れた瞬間、自分の体温がようやく地面と繋がった気がしたんだ。その瞬間、ああ、俺はこの人と一緒に、この暑い島で生きていこうって、理屈じゃなくて腹の底から納得したわけさ」


幸せな結婚ができる人。 それは、沖縄のこの「重い」空気を、窒息しそうだと感じるのではなく、抱擁されていると感じられる人なのかもしれない。


「東京の女の人と付き合ってた時は、香水の匂いで相手を判断してた。でも、今のカミさんはさ、夕飯のフーチャンプルーの匂いとか、子供を抱いた時のミルクの匂いとか、そういう『生活の匂い』がする。それがさ、どんな高級なブランドの香りよりも、俺の肺を深く満たしてくれるわけ」


比嘉が笑うと、白い歯が闇の中でわずかに光った。


「幸せな結婚ができる人ってよ、海斗。結局はさ、『自分のリズム』と『相手のリズム』が、三線の音みたいに心地よく重なる人なんだと思う。速すぎず、遅すぎず。無理して合わせるんじゃなくて、一緒にいると自然と呼吸が深くなるような」


「呼吸、か」


僕は砂をひと掬い、指の間からこぼれ落ちる感触を確かめた。サラサラとした感触の中に、砕け散った貝殻の破片が混じる。


「そう。東京にいる時は、みんな呼吸が浅いわけ。過呼吸の一歩手前で、何かを必死に求めてる。でも結婚って、何十年も同じ空気を吸い続けることだろ? だったら、吸い込む空気が美味しくなきゃ、心臓が腐ってしまうよ」


不意に、背後のアダンの茂みからカサカサと音がして、夜の鳥が鳴いた。風が向きを変え、山の方から夜来香(イエライシャン)の甘美で濃厚な香りが漂ってくる。この強烈な花の香りは、沖縄の夜の官能性と、同時に死生観をも孕んでいる。


「海斗、お前もさ、もう頭で考えるのはやめろよ」


比嘉が僕の肩を、ずしりと重い手で叩いた。その手の熱さが、シャツ越しに伝わってくる。


「幸せになる人は、足の裏で大地の熱を感じられる人さ。相手の手を握った時に、指先の脈動まで愛おしいと思える人。条件なんていうのはさ、この台風一過の後の雲みたいに、すぐに形を変えて消えていくもんさ」


「足の裏の熱……」


「そう。この島の土を、相手と一緒に裸足で歩けるかどうか。雨が降れば一緒に濡れて、スコールの後の土の匂いを『いい匂いだね』って笑えるかどうか。それができるなら、どんなに貧しくても、どんなに不器用でも、その結婚は『正解』になる」


比嘉は空になった缶を潰すと、ゆっくりと立ち上がった。


「カミさんが、サーターアンダギー揚げて待ってるはず。あの、油が弾ける音と甘い匂いが家中に広がってる時が、俺にとっての最高に贅沢な瞬間さ。海斗、お前も今夜、家に来いよ。冷えた泡盛もあるから」


僕は立ち上がり、ズボンについた砂を払った。完全な夜が訪れ、頭上にはこぼれ落ちそうなほどの星々が瞬いている。


幸せな結婚ができる人。 それは、都会の眩すぎるネオンで失いかけた「野生の直感」を取り戻した人だ。 自分の皮膚が、鼻が、耳が、そして魂が、誰を求めているのか。 スペックという名の地図を捨て、自分の五感という名のコンパスを信じて、深い森や広い海へ踏み出せる人。


僕たちは暗い砂浜を歩き出した。波の音、虫のさざめき、そして隣を歩く親友の力強い足音。 すべてが混ざり合い、この島特有の湿った空気の中に溶けていく。


「なあ、比嘉。そのサーターアンダギー、揚げたてのサクサクしたやつ、一個取っておいてくれよ」


「わかってるって。あのカリッとした感触と、口の中でホロホロ崩れる甘さ。あれを知らずに人生損してる奴らに、食べさせてやりたいよな」


笑い声が、夜の海風に乗って消えていく。 僕の胸の奥で、冷たく固まっていた何かが、沖縄の夜の熱気に触れて、ゆっくりと、けれど確実に、甘い蜜のように溶け始めていた。


お読みいただきありがとうございます。 沖縄の濃厚な空気、土の匂い、そして力強い生命感を通じて、「本能で選ぶことの豊かさ」を描きました。


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