2 北海道 「制度や選択ではなく、“生き方の耐寒試験”」

窓の外は、すべてが音を失った白銀の世界だった。


「ねえ、拓海くん。この雪、明日には私の背丈を超えちゃうかな」


暖炉の薪がパチリと爆ぜ、オレンジ色の火の粉が舞う。ソファに深く腰掛けた陽菜(ひな)が、窓の外を見つめながら呟いた。彼女の吐息でガラスが白く曇り、外の景色がさらに淡く溶けていく。


ここは北海道、美瑛の丘の端にある小さな一軒家。外はマイナス二十度の極寒だが、室内には煮込み料理の、甘く、それでいてスパイスの効いた香りが充満している。


「そんなに降ったら、明日の朝は雪かきで腰が死んじゃうよ」


僕はキッチンで、使い込まれたル・クルーゼの鍋をかき混ぜながら答えた。木べらが鍋の底に当たる、コトコトという鈍い音。玉ねぎが飴色を通り越して、深いコクへと変わっていく瞬間の匂い。それが僕にとっての「日常」という名の贅沢だった。


「東京にいた頃の私なら、きっと絶望してた。電車が止まるとか、ヒールが埋まるとか、そんなことばかり気にして」


陽菜が立ち上がり、キッチンまで歩いてくる。彼女が纏っているのは、厚手のカシミアのカーディガン。その表面には、先ほどまでテラスで雪を眺めていた時の、冷たく澄んだ冬の空気の匂いがうっすらと残っていた。


「幸せな結婚ってさ、結局『不便』を面白がれるかどうかだと思わない?」


彼女は僕の隣に立ち、鍋から立ち上る湯気を鼻先で吸い込んだ。


「不便を面白がる、か。いい表現だね」


「そうだよ。だって見て、この窓。凍りついて開かなくなっちゃった。でも、その氷の結晶がシダの葉みたいに綺麗だなって、二人で指でなぞって笑える。それができないなら、この土地では生きていけないもの」


陽菜は以前、札幌の広告代理店でバリバリと働いていた。当時の彼女が求めていたのは、洗練されたレストランの予約席であり、冬でも凍えないロードヒーティングの効いたマンションだった。僕との結婚を決めて、この不便な丘の上の家に移り住むと言った時、周囲は「正気か」と驚いたらしい。


「前の彼と付き合っていた時はね、いつも『正解』を探してた」


陽菜が、戸棚から厚手のマグカップを取り出した。陶器が重なり合う、カチリという乾いた音が静かな部屋に響く。


「彼が選ぶワインの銘柄、彼が褒めてくれる服のブランド。私の五感は、彼に嫌われないためのセンサーとしてしか機能してなかったの。美味しいものを食べても、喉を通る感覚より先に『これを美味しいと言わなきゃ』っていう思考が走る。自分の心が、氷点下の地面みたいにカチカチに固まってた」


僕は火を止め、彼女に視線を向けた。


「今は? ちゃんと味、してる?」


「してるよ。拓海くんが作るシチューは、喉を通るときに、お母さんの手のひらみたいな温かさがする。ジャガイモの土の匂いも、バターの少し焦げた匂いも、全部が私の細胞に直接話しかけてくるみたい」


彼女は僕の腕に、そっと自分の腕を絡めた。セーター越しに伝わってくる彼女の体温。それは決して熱すぎず、けれど凍える夜を越えるには十分すぎるほどの、確かな命の熱だ。


「幸せな結婚ができる人ってね、きっと『自分の感覚の主権』を取り戻した人なんだと思う」


陽菜の声が、薪の燃える音に重なる。


「誰かに見せるための景色じゃなくて、自分が心地よいと思う匂いや、肌触り。それを守るために、この広い大地で根を張る覚悟がある人。東京みたいな都会だと、情報の洪水に流されて、自分の感覚が麻痺しちゃうじゃない? でもここでは、五感が研ぎ澄まされる。雪を踏む時の『ギュッ、ギュッ』っていう音だけで、明日の気温がわかるようになるみたいに」


僕は彼女の肩を引き寄せ、その髪に鼻を寄せた。そこには、都会の香水ではない、太陽に干したタオルのような、安らかな匂いがあった。


「僕はただ、陽菜が寒くないように薪を割って、お腹が空かないように飯を作る。それだけだよ」


「それが一番難しいんだってば。自分の身体が何を欲しているか、相手の身体が何を求めているか。それを言葉じゃなくて、気配で察し合えること。それこそが『結ばれる』ってことじゃないのかな」


窓の外では、地吹雪が舞い始めた。風が家を揺らし、窓枠がミシミシと悲鳴を上げる。けれど、その音がすればするほど、家の中の静寂と温もりは深まっていく。


「陽菜、シチューできたよ。冷めないうちに食べよう」


「うん。あ、その前にこれ、見て」


彼女はポケットから、小さな、けれど力強い緑色の葉っぱを取り出した。


「キッチンの隅で、ハーブの芽が出てたの。外はこんなに真っ白なのに、この子、ちゃんと春が来るのを知ってるみたい」


その小さな緑の感触を、僕たちは交互に指先で確かめた。少しだけザラつきのある、けれど瑞々しい生命の感触。


僕たちはテーブルにつき、スプーンを持った。 木のテーブルの温もり、 湯気の向こうに見える愛する人の笑顔、 そして、心臓の奥底から込み上げてくる、静かで深い安心感。


「美味しいね」


どちらからともなく言った。その言葉は、どんな美辞麗句よりも重く、この北の大地に深く、深く沈み込んでいった。


幸せな結婚ができる人。 それは、豪勢な花束を贈る人でも、輝かしい肩書きを持つ人でもない。 凍える冬の夜に、隣にいる人と一杯の温かいスープを分け合い、その湯気の香りに「生きていてよかった」と心から震えることができる人だ。


外の嵐はさらに激しさを増していたが、僕たちの小さな食卓は、まるで世界の中心であるかのように、ただ静かに、そして熱く輝いていた。


お読みいただきありがとうございます。 北海道の厳しくも美しい自然を舞台に、五感を通じて「自分自身の感覚を取り戻すこと」が幸せへの近道であるという物語を描きました。


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