幸せな結婚ができる人
春秋花壇
1 東京 『呼吸の温度』
十二月の表参道は、肺の奥をちくりと刺すような冷気と、街路樹を彩るシャンパンゴールドの光に包まれていた。
「ねえ、聞いてる? 健吾くん」
不意に鼓膜を震わせたのは、隣を歩く美咲の少しだけ湿り気を帯びた声だった。彼女から漂うのは、冬の乾燥した空気に負けない、ジョーマローンのイングリッシュペアーの清潔感あふれる香り。けれど、その香りの裏側には、彼女が三ヶ月前から通い始めたという高級結婚相談所の「アドバイザーの教え」が、薄い膜のように張り付いているのを僕は感じていた。
「ああ、聞いてるよ。その彼、条件は完璧なんだろ?」
僕はわざと明るく答えた。代々木公園の方から吹き抜ける風が、鼻腔を冬特有の土と埃の匂いで満たす。
「そうなの。年収は一千五百万、港区のタワマン住み。おまけに次男坊。でもね……」
美咲は、ルイ・ヴィトンの大きなショーウィンドウの前で足を止めた。ガラスに映る彼女は、隙のないメイクと、計算し尽くされたフォクシーのワンピースを纏っている。東京という街で「選ばれる側」に回ろうとする女性の、必死で、それでいて脆い武装。
「……彼とレストランで食事をしているとき、私、自分の心臓の音が聞こえないの。ただ、履歴書のスペックをスライドショーで眺めてるみたいな気分になる。美味しいはずのトリュフの香りも、なんだかプラスチックみたいに無機質に感じちゃって」
彼女の指先が、寒さのせいか、あるいは不安のせいか、微かに震えていた。
「幸せな結婚、か」
僕は口の中でその言葉を転がしてみた。東京という街において、その言葉は時として呪文のように響く。地下鉄の重苦しい鉄の匂い、深夜のコンビニの無機質な蛍光灯、そして絶え間なく更新されるSNSの幸福自慢。それらが混ざり合い、僕たちの感性を麻痺させていく。
「美咲、あそこを見て」
僕は、華やかな大通りから一本入った、薄暗い路地の先を指差した。そこには、古びた、けれど手入れの行き届いた喫茶店があった。店先からは、焙煎されたばかりのコーヒー豆の、香ばしくもどこか懐かしい香りが漂ってくる。
「あんな店、あったっけ?」 「行ってみよう。冷えただろう?」
カウベルが「カラン」と乾いた音を立てて僕たちを迎え入れた。店内は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。使い込まれた木のカウンターの感触は、驚くほど滑らかで温かい。マスターがゆっくりと淹れるコーヒーの蒸気が、僕たちの強張った表情を解きほぐしていく。
「美咲、君はさっき『心臓の音が聞こえない』って言ったよね。それは、相手の条件を愛そうとして、自分自身の感覚を殺しているからじゃないかな」
差し出されたカップを手に取ると、陶器の熱がじわりと掌に伝わってきた。深煎りのコーヒーを一口含む。舌の上に広がるのは、心地よい苦味と、その奥に隠れた微かな甘み。
「条件で選ぶのが、東京での『正解』だって思ってた。そうしないと、この街のスピードに置いていかれる気がして。惨めになりたくなかったの」
美咲の瞳に、うっすらと涙が膜を張る。彼女の感情が、ようやく「スペック」という鎧を脱いで、生身の温かさを取り戻し始めた瞬間だった。
「幸せな結婚ができる人っていうのはね、美咲。隣にいる人の『呼吸の温度』を心地よいと感じられる人だと思うんだ」
「呼吸の温度……?」
「そう。例えば、雨上がりのアスファルトの匂いを一緒に嗅いで『懐かしいね』って笑い合えるとか。スーパーで買ってきたばかりの桃の、あの産毛の感触を一緒に愛でられるとか。そういう、理屈じゃない五感の共有。それができない相手と、どれだけ条件が良くても、心は飢えていく一方だよ」
僕は、かつて自分が失った恋を思い出していた。相手は完璧な女性だった。けれど、彼女と一緒に食べる炊き立ての白米の匂いよりも、彼女が語る『将来の資産形成』の話の方が、僕の耳には大きく響いてしまった。その結果、僕たちの関係は、いつの間にか味のしないガムを噛み続けているような、虚無感に支配されていった。
「私……さっきの彼と会っているとき、自分の呼吸が浅くなっていることに気づかなかった」
美咲は、ゆっくりとコーヒーを飲み込んだ。喉を通る熱が、彼女の閉ざされていた感覚を呼び覚ましていく。
「彼が悪いわけじゃない。でも、私は彼の『条件』という光に目が眩んで、彼という人間が放つ『匂い』や『手触り』を全く見ていなかった」
窓の外では、夜の闇が深まっていた。東京の夜景は、遠くから見れば宝石を撒き散らしたように美しい。けれど、その光の一つ一つには、血の通った人間がいて、それぞれの体温がある。
「幸せっていうのは、頭で考えるものじゃなくて、肌で感じるものなんだよね」
美咲の声に、芯が通った。彼女の頬には、寒さとは違う、高揚による赤みが差している。
「あのね、健吾くん。私、次のデートは断ることにする。もっと、自分の指先や鼻が『この人だ』って喜ぶような、そんな出会いを信じてみたい」
彼女は、バッグからスマホを取り出し、迷いのない手つきで操作した。その横顔は、街灯の光を反射して、これまで見てきたどのモデルよりも美しく見えた。
喫茶店を出ると、風はいっそう冷たさを増していた。けれど、美咲の歩調は軽く、その背中からは、先ほどまでの迷いの匂いは消えていた。
「健吾くん、見て! 焼き芋の匂い!」
彼女が指差した先には、軽トラックの荷台から白い煙を上げる、移動販売の焼き芋屋があった。甘く、どこか土の匂いがする、冬の東京の風物詩。
「食べようか。半分こしてさ」
熱々の石焼き芋を割ると、黄金色の湯気が立ち上り、僕たちの顔を包み込む。指先に伝わる火傷しそうなほどの熱さと、皮の焦げた香ばしい匂い。
「あちちっ! でも、すっごく甘い……!」
美咲が笑った。その笑い声は、冬の澄んだ空気に吸い込まれていった。彼女の瞳は今、目の前の焼き芋の湯気と、僕とのくだらない会話、そしてこの街の確かな空気感を見つめている。
東京という広大な砂漠の中で、幸せな結婚を掴み取る人。それは、誰かに提示された「幸せの定義」をなぞる人ではない。自分の五感が何に震え、何に安らぎを感じるかを知っている人だ。
地下鉄の入り口へ向かう階段。美咲は一度だけ振り返って、僕に手を振った。
「ありがとう、健吾くん。私、自分の『好き』という感覚を、もっと信じてみるね」
彼女が去った後、僕の手のひらには、まだ焼き芋の温もりが微かに残っていた。
冷たいコンクリートの壁に囲まれたこの街で、僕たちはつい、目に見える数字や文字ばかりを追いかけてしまう。けれど、本当に大切なものは、いつも鼻先をかすめる季節の匂いや、不意に触れた手の温かさの中に隠れている。
僕は深く息を吸い込んだ。肺を満たすのは、冷たくて、少しだけ煙たい、けれど紛れもない東京の冬の匂い。
次の角を曲がれば、新しい出会いが待っているかもしれない。そのときは、条件を確認する前に、まずは相手と同じ空気を吸ってみよう。その空気の味が、自分にとって心地よいかどうか。それを確かめることから、すべてが始まるのだから。
今夜の月は、驚くほど白く、そして優しく、この巨大な街を照らし出していた。
お読みいただきありがとうございます。 東京という場所で、つい頭でっかちになりがちな「結婚」というテーマを、五感を通じて描いてみました。
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