第9話:主人公が「親友」に落ちる決定打
嵐の前は、だいたい静かだ。
そして静かなときほど、面倒は裏で育つ。
育った面倒は、ある日突然、こちらの部屋の扉を叩く。
叩かれてからでは遅い。
遅いから、私は予防したい。
予防したいのに——予防のために動くのが、もう面倒だ。
その日、私はいつもより早く図書室を出た。
理由は単純で、早く布団に入りたかったから。
最近、寝不足が続いている。
寝不足は機嫌を悪くする。
機嫌が悪いと判断が雑になる。
判断が雑になると面倒が増える。
だから、布団は優先だ。
布団は国家より重要だ。
少なくとも私の中では。
廊下の灯りが、一つずつ点く。
夕方の学園は、少しだけ静かになる。
好きだ。
静かな場所は好きだ。
静かな場所には、私以外の面倒が少ないから。
……そう思った矢先。
静かな廊下の奥で、影が動いた。
人の気配。
しかも、隠す気がない。
隠す気がない気配はだいたい厄介だ。
厄介な気配は、こちらの平穏を狙っている。
狙わないでほしい。
「イレイン」
呼び止められた声は、低い。
深紅の髪の悪役令嬢——彼女だった。
銀の瞳が、いつもより暗い。
暗い、というより、乾いている。
乾いた目は危険だ。
乾いた目は、折れる直前の目だ。
折れたら爆発する。
爆発は面倒だ。
私は爆発が嫌いだ。
片付けが大変だから。
「……何かありましたか」
私は、できるだけ平坦な声で返した。
平坦は防具。
防具は大事。
でも、今日の彼女の目には、平坦な防具が通じにくい気配がある。
嫌だ。
通じないと、私は前に出るしかない。
前に出るのは面倒だ。
「……部屋に来て」
短い命令。
理由の説明はない。
説明がない命令は、たいてい最悪だ。
最悪だが、断る選択肢は薄い。
断って爆発されたらもっと面倒。
私は軽い面倒を選ぶ。
人生はいつもそれだけだ。
(神様)
「うん?」
(これ、嫌なやつだ)
「うん。嫌なやつだね」
(止めて)
「止められないよ。イベントだから」
(イベントって言うな……)
彼女の寮は、上級貴族用の棟にある。
つまり、静かで、広くて、よく整っていて、そして孤独だ。
孤独は、燃えやすい。
燃えやすいものは、火種があるとすぐ燃える。
火種は、横恋慕令嬢と第二王子だ。
嫌だ。
この世界、火の扱いが雑すぎる。
部屋に入ると、空気が冷たかった。
暖炉はあるのに、火が入っていない。
火を入れないのは節約ではない。
たぶん、気力がない。
気力がない人は、ある日突然、全部捨てる。
捨てると面倒が増える。
私は面倒が嫌いだ。
机の上には、手紙が散らばっていた。
封が破られたもの。
破られていないもの。
そして、紙の端に見えるのは、乱暴な筆圧の文字。
悪意の匂い。
噂の形。
孤立の固形物。
最悪だ。
「……これ」
彼女が指で紙を弾いた。
「今朝から増えた。教師からの呼び出しも、三回。授業中も視線が刺さる。——殿下が、私の父に手紙を出した」
私の背中が冷えた。
父に手紙。
つまり、学園の揉め事を家の政治に引き上げた。
引き上げるのは王族がよくやる。
そしてそれは、引き上げた側にとっては“軽い脅し”で、引き上げられた側にとっては“重い現実”になる。
重い現実は、面倒だ。
私は重い現実が嫌いだ。
「……内容は」
私は聞いた。
聞きたくないけど聞いた。
聞かないともっと面倒が増えるから。
私は面倒に弱い。
彼女は、短く笑った。
笑いではない。
息が漏れただけ。
乾いた音。
「学園内での不穏な動き。改革への抵抗。殿下の名誉を傷つける態度。——“娘の教育”を考え直せ、ですって」
教育を考え直せ。
つまり、引きずり下ろせ。
婚約者を。
都合よく。
王道だ。
王道の最悪の部分だ。
しかも今は、横恋慕令嬢の“排除”が背後にある。
排除は、言葉から始まって、制度に入り込み、最後に人を消す。
私はそれを見たくない。
見たくないのに、見える。
見えるから、胃が痛い。
彼女は窓の外を見た。
「父は、家のために動く人よ。——私を守ることより、家を守る」
言い方は淡々としている。
でも、その淡々が一番危ない。
感情が動かないのではなく、動かす余力がない淡々。
余力がないと、人は突然切れる。
切れると爆発する。
爆発は面倒だ。
私は、慰めの言葉を探しかけて、やめた。
慰めは面倒だ。
慰めた瞬間、私に“心の担当”が発生する。
心の担当は、業務範囲が曖昧で終わりがない。
終わりがないものは、私の天敵だ。
私は終わりが欲しい。
布団に終わりはある。
眠りが来るから。
だから私は、手順だけを出す。
現実の手順。
冷たい手順。
冷たい手順は、期待を増やさない。
期待を増やさなければ、面倒が増えない。
私は面倒を増やしたくない。
「明日、何があるか把握していますか」
彼女が私を見た。
「……卒業式の進行確認。殿下が臨席する……」
卒業式。
出た。
舞台が来た。
王道の公開処刑台。
ここで婚約破棄が宣言される。
宣言されたら、彼女は悪役として叩かれる。
叩かれたら、彼女は——斬る。
斬らなければ、斬られる。
斬る前提を作らなければ、彼女が“衝動で暴れた”ことにされる。
衝動扱いは最悪だ。
最悪だが、周囲はそれを望む。
物語がそれを望む。
私は物語が嫌いだ。
物語は、後片付けが雑だから。
「その場に、私が同席します」
私は言った。
彼女の眉が、わずかに動いた。
驚き。
でも私は続ける。
驚きの余地を与えない。
余地を与えると、感情が入り込む。
感情は面倒だ。
「教師も同席します。名前は——この人」
私は、手帳の端に控えていた教師名を示した。
形式に強い教師。
噂を嫌う教師。
記録石の扱いに慣れている教師。
適任だ。
適任は便利だ。
私は便利なものが好きだ。
便利は平穏に近い。
「……あなた、どこまで」
彼女が言いかけた。
私は遮る。
遮るのは失礼だが、長話は面倒だ。
短く終わらせたい。
「逃げ道は塞ぎます」
言い方が悪いのは分かっている。
でも、現実だ。
逃げ道を塞がないと、相手が“あなたが逃げた”と騒ぐ。
騒がれると、面倒が増える。
だから塞ぐ。
塞いで、そこで終わらせる。
終わりが欲しい。
私は終わりが欲しい。
彼女の喉が、小さく鳴った。
息を飲む音。
怖いのかもしれない。
怖いのは当然だ。
私も怖い。
ただ私は、怖いという感情に名前を付けたくない。
名前を付けると育つ。
育った感情は面倒だ。
「明日の場で、殿下が何か言います。言う内容は、たぶん婚約破棄に近い」
彼女の目が細くなる。
痛みが走ったのが分かる。
私はそれを見ないふりをして続けた。
「その瞬間に、あなたは手順通りに動いてください。言い返さない。泣かない。取り乱さない。——形式を要求する」
「形式……?」
「はい。決闘か、審問か。学園規定に沿った公開の場での裁定。相手があなたを“悪役”にするなら、あなたは“規定”に戻す」
規定は冷たい。
冷たいから、人情を押し流せる。
人情は燃えやすい。
燃えやすいと、噂が燃料になる。
私は燃料が嫌いだ。
私は机の上に、写しを一枚置いた。
記録石の保管番号と、貸し出し履歴の控え。
備品庫の出入り記録の写し。
教師の署名付き。
地味。
でも地味が強い。
地味は否定しにくい。
否定しにくいものは面倒が少ない。
「これは……」
彼女が紙を見た。
目が少しだけ揺れる。
揺れるのは、生きている証拠だ。
生きているなら、まだ折れていない。
折れていないなら、爆発は避けられる。
避けられるなら、面倒が減る。
私は面倒が減るのが好きだ。
「あなたが冤罪を仕込まれた件の、形式の残りです。あと、殿下側の圧力の記録も」
「……誰が、これを」
「学園の備品が残しました」
私は嘘を混ぜた。
混ぜたというより、言い方をずらした。
記録石は学園の備品だ。
学園の備品が勝手に真実を拾った。
私はただ、拾ったものを箱に入れただけ。
そういう形なら、私の影が薄い。
影が薄いと、転生者バレが減る。
減れば平穏が近い。
彼女は、紙を握った。
握りしめる指先が白い。
これ以上、感情を刺激したくない。
刺激すると、言葉が溢れる。
溢れた言葉は戻らない。
戻らない言葉は面倒だ。
だから私は、最後に最も現実的な情報だけを言う。
慰めではなく、段取り。
「明日、あなたが立つ位置はここ」
私は床の上、窓と扉の位置関係を見て、立ち位置を指定した。
背後に壁。
横に教師。
前に式典係。
視線の集中を分散させる。
護衛の視線が届く範囲。
逃走ではなく、“安全確保”の配置だ。
配置は、事故を減らす。
事故を減らせば、面倒が減る。
「あなたは剣を抜くなら、抜く前に宣言してください。正当防衛の意思表示。規定に従う意思表示。——相手が越線した場合のみ、です」
「……越線の基準は」
「公開侮辱だけでは弱い。冤罪の再提示、脅迫、身体拘束、退路の封鎖。——そのどれかが揃えば、形式が立つ」
私は淡々と言った。
淡々と言うしかない。
これは、感情で言える話ではない。
感情で言ったら、私の心が壊れる。
壊れたら、私も爆発する。
爆発は面倒。
私は面倒が嫌いだ。
彼女は、しばらく黙っていた。
沈黙。
嫌いなはずの沈黙。
でも今の沈黙は、違う。
彼女が、崩れ落ちないために必死で呼吸を整えている沈黙だ。
呼吸を整える沈黙は、必要だ。
必要なら、私は待てる。
待つのは面倒だが、爆発よりは軽い面倒だ。
やがて彼女が、ぽつりと言った。
「あなたは……私を慰めないのね」
私は即答した。
迷いがあると面倒が増える。
迷いは期待を育てる。
期待は面倒だ。
だから即答する。
「慰めても、状況は変わりません」
冷たい。
自分でも分かる。
でも、冷たさは現実の鎧になる。
鎧がないと、彼女は明日立てない。
立てないと、相手の思う通りになる。
相手の思う通りになると、面倒が無限に増える。
私は無限が嫌いだ。
彼女の唇がわずかに震えた。
怒っているのか、泣きそうなのか分からない。
分からない方がいい。
分かると、私が余計なことをしてしまう。
余計なことは面倒だ。
「……でも」
彼女が言う。
「あなたが、こうして手順を出してくれると……」
言葉が詰まる。
詰まる言葉は危険だ。
詰まった先に、面倒な感情がある。
私はその感情を受け取りたくない。
受け取ると、捨てられない。
捨てられないものは面倒だ。
だから私は、逃げ道を作った。
彼女のためではなく、私のために。
逃げ道は正義。
私は逃げ道が好きだ。
「……明日、終わらせます」
私は言った。
「終われば、あなたも私も、余計な手間が減る」
冷たい。
冷たいけど、終わりが見える言葉だ。
終わりが見えると、人は立てる。
立てれば、爆発しない。
爆発しなければ、面倒が減る。
私は面倒を減らしたい。
彼女は、少しだけ笑った。
今度は、ちゃんと笑った。
ただし、痛い笑いだ。
痛い笑いは、心を削る。
削るのは嫌だ。
でも削らないと立てないなら、削るしかない。
世の中はいつもそうだ。
嫌だ。
「……あなた、本当に最低ね」
「よく言われます」
嘘だ。
言われたことはない。
でもここで否定すると面倒だ。
最低、でいい。
最低なら、期待が育たない。
期待が育たないなら、楽だ。
私は楽が好きだ。
彼女は笑いを引っ込めて、真っ直ぐ私を見た。
銀の瞳が、今までで一番まっすぐだった。
まっすぐは怖い。
まっすぐは、逃げ道を塞ぐ。
私は逃げ道が欲しい。
「……でも、あなたみたいな最低が、今夜ここにいるのが」
彼女は言葉を探して、そして言った。
「——ありがたい」
その単語が落ちた瞬間、私の胸の奥が、妙に重くなった。
ありがとうは借金だ。
借金は返さないといけない。
返済は面倒だ。
私は借金が嫌いだ。
嫌いなのに、なぜか今、返したくないと思ってしまった。
返したくない、というのは、つまり——この関係を続けたい、という意味に近い。
近いのが嫌だ。
近いのは面倒だ。
私は近いのが嫌いだ。
……はずなのに。
(神様)
「うん?」
(最悪)
「うん。親友ポジ第三段階だね」
(やめろ)
「君、落ちたね」
(落ちてない。私は平穏を守ってるだけ)
「それを落ちたって言うんだよ」
(……黙って)
私は立ち上がった。
これ以上、この部屋にいると、面倒な感情が育つ。
育った感情は刈るのが大変だ。
私は刈り取り作業が嫌いだ。
だから退室する。
退室は逃げ道。
逃げ道は正義。
「明日、遅れないでください。遅れると配置が崩れます」
私は最後まで手順の人間で通した。
彼女は小さく頷く。
「分かった」
「……それと」
私は一瞬だけ迷って、でも言った。
迷いを長引かせると面倒が増える。
だから短く言う。
「寝てください」
彼女が目を瞬かせた。
「……それが、慰め?」
「違います。寝不足は判断が雑になります。雑になると面倒が増えます」
最低な慰めだ。
慰めじゃない。
でも彼女は、また少しだけ笑った。
「……本当に最低ね」
「はい」
私は部屋を出た。
廊下は静かで、灯りが柔らかい。
本当なら、この静けさだけで私は満足するはずだった。
でも今は、胸の奥が少しだけざわついている。
ざわつきは嫌だ。
ざわつきは面倒の前触れだ。
私は面倒が嫌いだ。
寮へ戻って布団に潜り込んでも、すぐには眠れなかった。
手順は渡した。
配置も整えた。
証拠も箱に入れた。
明日、舞台は完成する。
後は主演が台詞を言い、刃が振るわれ、拍手が起こり、物語が終わる。
終わるはずだ。
終わらせたい。
終わらせたいのに——
“ありがたい”
あの一言が、布団の中で何度も反響した。
借金だ。
借金は面倒だ。
返すのが面倒だ。
でも返したい。
……返したい、という時点で、私はもう、観客席から降りているのかもしれない。
それが、最悪だ。
最悪なのに。
胸の奥が少しだけ、温かいのがもっと最悪だった。
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