第7話:悪役令嬢に近づく(理由は冷たい)

「事故を減らしたいだけです」


口に出してから、私は思った。


——いや、これ、だいぶ当事者の台詞では?


当事者は嫌だ。


当事者は責任が発生する。


責任は重い。


重いものは持ちたくない。


だから私は、言葉を薄くしたかったのに、なぜか核心を言ってしまった。


最近、私の防具が薄い。


布団不足だと思う。


布団は大事だ。


睡眠は平穏の基礎工事だ。


基礎が崩れると、家ごと面倒が崩れてくる。


悪役令嬢枠——深紅の髪の少女は、私をじっと見たまま黙っていた。


沈黙が長い。


沈黙が長いと、余計な意味が生まれる。


意味が生まれると面倒が増える。


私は沈黙が嫌いだ。


でも沈黙を破るのも、だいたい私の役目になる。


世界のバグだ。


「……あなた、前は“式典係の務め”と言った」


彼女が言った。


声は冷たい。


冷たいけど、怒ってはいない。


怒りの冷たさじゃなくて、温度の低い観察。


観察は嫌だ。


観察されると、私の“逃げ道”が塞がれる気がする。


「はい。今もそれに近いです。学園内で揉めると、手間が増えますので」


私は正直に言った。


正義じゃない。


友情じゃない。


ただの手間回避。


私はこれを隠すのが上手いはずなのに、最近は隠すのが面倒になってきている。


面倒のせいで面倒くさがりが加速する。


最悪だ。


彼女は一度、視線を逸らした。


窓の外——夕方の校庭を見ている。


その横顔は、完璧に整っている。


完璧すぎて、人が勝手に悪意を投げつけたくなるタイプ。


私はそういう心理を理解できる。


理解できるのが嫌だ。


理解できると、予測が始まる。


予測が始まると、対処したくなる。


対処したくなると、当事者になる。


当事者は嫌だ。


「……“あれ”を止めたいの?」


あれ、とは横恋慕令嬢のことだ。


名前を出さない。


名前を出すと、言葉に重みが出る。


重みが出ると責任が出る。


責任は嫌だ。


私たちは、似たところがあるのかもしれない。


似たところがある、という気づきは面倒だ。


私は感情を持ちたくない。


「止めたい、というより……放置すると、もっと面倒になります」


私は言い直した。


止めたい、と言うと正義になる。


正義になると、勝手に使命が生まれる。


使命は最悪だ。


使命を背負うと、寝る時間がなくなる。


私は寝たい。


彼女は小さく息を吐いた。


「あなたは、本当に変わっているわね」


「そうでしょうか」


「普通は、“正しいから”と言う」


私は一瞬だけ言葉に詰まった。


正しいから、じゃない。


面倒が少ないから、だ。


それを口に出すのは、人格を捨てるに近い。


でも、捨ててもいい気がする。


人格を守る方が面倒なときもある。


……そして彼女の前では、取り繕うのが面倒だった。


彼女は取り繕いを見抜く目をしている。


見抜かれるなら、最初から出した方が早い。


早い方が面倒が少ない。


「正しいからじゃありません。面倒が少ないからです」


言った。


言ってしまった。


私の社会性が、床に落ちて音を立てた気がする。


拾いたくない。


拾うと面倒だから。


彼女は、意外にも表情を変えなかった。


軽蔑もしない。


驚きもしない。


ただ、少しだけ目が細くなる。


評価の目。


……嫌な種類じゃない評価。


嫌だ、でも、最悪ではない。


「……合理的ね」


彼女が言った。


その一言は、私にとっては救いだった。


“面倒くさがり”と言われるより、ずっとましだ。


合理的は、社会で許される。


面倒くさがりは、許されない。


私は許されたいわけではないが、許されないと面倒だ。


面倒は嫌だ。


「で。あなたは、私に何を求めるの」


求める。


その単語が出た瞬間、私は心の中で一歩下がった。


求める、は危険だ。


求めると、関係が生まれる。


関係は面倒だ。


でも、ここまで来て何も言わないのは、もっと面倒だ。


私は軽い面倒を選ぶ。


いつも通り。


「……行動を合わせたいだけです。あなたが、無理に前に出ないように」


彼女の眉がわずかに動いた。


「私が前に出ると思っているの?」


「思っています。追い詰められると、出ざるを得ない状況が来ると思うので」


私は淡々と告げた。


予測だ。


嫌な予測。


でもこの予測は、当たりそうだった。


横恋慕令嬢は“排除”と言った。


排除する相手は、最初は言葉で削る。


噂で削る。


孤立で削る。


そして最後に、公開の場で折る。


王道の悪役令嬢は、そこで爆発する。


爆発させられる。


爆発したら終わりだ。


終わり方が派手だと、周囲も巻き込む。


巻き込まれると面倒が増える。


私は面倒が嫌だ。


彼女は少しだけ視線を落とした。


その仕草が、ほんのわずかに“疲れ”を見せた気がした。


完璧な人が疲れを見せると、周囲は勝手に喜ぶ。


私はそういうのが嫌いだ。


嫌いだが、感情で嫌っているわけじゃない。


面倒が増えるから嫌いだ。


私はいつでも自分の感情を、面倒で説明する。


その方が管理しやすい。


管理は面倒だが、放置はもっと面倒だ。


「……あなたは、私の味方をするつもりはないのね」


彼女が言った。


味方という言葉は、重い。


私はすぐに否定したくなった。


否定したら、関係が生まれる。


肯定したら、もっと関係が生まれる。


どっちも面倒。


なら、第三の道だ。


言葉の定義をずらす。


私はずらしが得意だ。


陰キャは会話の回避ルートを常に持っている。


「味方、というのは、よく分かりません。私は、面倒が少ない方に立ちます」


言ってしまった。


二回目の社会性落下音。


もういいや。


拾うのが面倒。


彼女は、ふっと口元をわずかに緩めた。


笑った、というほどではない。


でも、氷が一ミリ溶けたみたいな表情。


……それが、一番困る。


好感は面倒の入口だ。


信頼は面倒の前払いだ。


「あなた、信じられないくらい冷たいのに……変に安心する」


最悪の評価だ。


安心させてしまった。


安心させると、寄られる。


寄られると、頼られる。


頼られると、寝れなくなる。


寝れなくなると、私が死ぬ。


比喩じゃなく、精神が死ぬ。


(神様、聞いた? 今の)


「うん。“唯一の平常運転”ってやつだね」


(やめて。名前をつけるな。育つ)


「育つねぇ」


(育てない。絶対)


私は話を早く終わらせたくて、具体的な提案だけを投げた。


提案は短く、手順は明確に。


余計な感情を挟まない。


感情は面倒の潤滑油だ。


潤滑すると、相手が滑らかに寄ってくる。


寄ってくるのは困る。


「あなたの行動予定、教えてください。最低限、私が“事故が起きない配置”にします。廊下の動線、教師の巡回、教室の席順。……あと、記録が取れる位置」


彼女の目が、少しだけ鋭くなる。


「記録?」


「はい。言った言わないを避けるための。……後で否定できない形」


彼女は黙った。


沈黙が長い。


でも今回は、さっきほど嫌じゃない。


彼女が“理解しようとしている沈黙”だから。


理解しようとする沈黙は、暴力になりにくい。


暴力にならないなら、面倒が減る。


私は少しだけ呼吸が楽になった。


「……あなた、そこまで考えているの」


「考えたくないんですけど。考えないと、もっと面倒なので」


私は心からの本音を言った。


考えたくない。


働きたくない。


でも働かないと、後でさらに働く羽目になる。


最悪の人生設計。


私は生まれ変わっても、労働から逃げられないのだろうか。


神様を恨むべきか、世界を恨むべきか。


どっちも面倒だから、恨まない。


彼女は、ようやく小さく頷いた。


「分かった。……必要な範囲で教えるわ」


必要な範囲。


その言葉は、私の好きな言葉だ。


範囲があれば、切れる。


切れれば、逃げられる。


逃げられれば、平穏に近づく。


私は範囲が大好きだ。


その日から、私たちの“同行”が始まった。


味方ではない。


親友でもない。


ただの、事故防止の共同作業者。


そう自分に言い聞かせる。


言い聞かせないと、面倒な方向に感情が育つ。


育った感情は、刈るのが大変だ。


私は刈り取り作業が嫌いだ。


翌日。


私は彼女の教室の位置と、横恋慕令嬢の教室の位置を地図で確認した。


廊下の交差点が二つある。


そこがぶつかりやすい。


ぶつかると、言葉が生まれる。


言葉が生まれると、噂が生まれる。


噂が生まれると、面倒が増える。


だから私は、ぶつからない時間割の移動パターンを作った。


作りたくないのに作った。


最悪だ。


食堂。


席取り合戦。


ここも火種。


横恋慕令嬢は目立つ席を好む。


悪役令嬢枠は、目立たない席を選ぶが、周囲が空けるから逆に目立つ。


最悪の構造。


私は、あえて“普通の席”に彼女が座れるよう、先に上級生を二人配置した。


本好きで口の堅い子。


礼儀にうるさいが余計な噂は立てない子。


そういう子を選ぶのに、私はいつの間にか人間観察が上手くなっていた。


いらないスキルが増える。


転生の弊害だ。


いや、私が勝手に鍛えてるだけか。


そして、何より大事なのは——彼女に対して、私だけ態度を変えないこと。


媚びない。


怯えない。


敵意を見せない。


近づきすぎない。


離れすぎない。


絶妙な距離で、いつも通りの平坦さ。


平坦さは最強の防具だ。


平坦な人間は、燃料になりにくい。


燃料になりにくいなら、面倒が減る。


私は面倒を減らしたい。


彼女は、その“平坦さ”を受け取った。


受け取ってしまった。


だから、他の誰かが彼女に棘を刺しても、私の前では棘を抜くようになった。


抜くのはいい。


でも、私の前で抜くな。


私が“安心の場所”になると、私は休めない。


休めないと寝れない。


寝れないと、私は死ぬ。


またこのループだ。


ある日の放課後。


彼女がふと足を止めて言った。


「あなた、いつもここにいるのね」


ここ、とは学園の裏手の通路。


人が少ない。


噂が生まれにくい。


私の逃げ道。


彼女に見つかってしまった。


最悪だ。


「人が少ないので」


「……一人になれる?」


「なれます」


嘘だ。


最近はなれない。


あなたがいるから。


でも言わない。


言うと角が立つ。


角が立つと面倒。


面倒は嫌だ。


彼女は小さく頷き、すれ違いざまに言った。


「……あなたがいると、余計なことを言われても、少しだけ耐えられる」


やめて。


それを言うな。


私の存在価値を増やすな。


存在価値が増えると、責任が増える。


責任は嫌だ。


私は、返事をしなかった。


返事をしたら、優しさになる。


優しさになると、役目が生まれる。


役目は面倒だ。


だから私は、ただ淡々と歩いた。


淡々と歩く。


それが私の最大の誠実さだと思う。


誠実でいたいわけじゃない。


面倒が少ないからそうするだけ。


(神様、これ……)


「うん、信頼が積み上がってる」


(積み上げないでほしい)


「積み上げてるの君だよ」


(私は事故を減らしてるだけ)


「事故って、心にも起きるんだよ」


(詩みたいなこと言うな。面倒になる)


「君の方が詩的だよ。自覚ないだけで」


(黙って)


私は、決め直した。


ここから先、私は彼女に“味方宣言”をしない。


しないまま、行動を合わせる。


宣言は重い。


重いものは持たない。


私は軽い手順だけを積む。


証拠、配置、記録、誘導。


全部、社会のルールで詰める。


魔法は最小限。


チートは最小限。


痕跡は残さない。


転生者バレは絶対にしない。


そして、横恋慕令嬢と第二王子が自滅するように、舞台だけ整える。


整えるだけ。


私は斬らない。


私は拍手する側にいる。


観客席で、拍手するだけ。


……そのはずなのに。


夕暮れの廊下で、彼女の背中を見て思ってしまった。


この人が折れるのは、面倒だ。


面倒、という言葉で自分を誤魔化しているのは分かっている。


でも、まだ、言い換えはしない。


言い換えた瞬間、私は本当に当事者になるから。


私は当事者になりたくない。


なりたくないのに——もう、なりかけている気がした。

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