第6話:致命傷の提案「開かれた政府」
奴隷制即日廃止事件(私の中での正式名称)から一週間。
学園近隣の空き倉庫は、まだ“仮の避難所”として使われていた。
仮、という言葉が一番嫌いだ。
仮は、だいたい本になる。
本になった瞬間、責任も本になる。
責任は重い。
重いものは持ちたくない。
だから私は、「仮」のうちに終わってほしい。
終わってほしいのに——終わらない。
現実はいつも、終わらせてくれない。
私は最近、布団に入っても眠りが浅い。
眠りが浅いと機嫌が悪くなる。
機嫌が悪いと判断が雑になる。
判断が雑になると面倒が増える。
面倒が増えるとさらに眠れない。
最悪の循環。
循環を断ち切るには、原因を潰すしかない。
原因は、だいたい“善意のスピード違反”だ。
学園では、改革討論会の続きが当然のように日常になっていた。
廊下で「人権」という言葉が飛び交い、食堂で「旧貴族の抵抗」という話が回り、図書室で「制度の透明性」という単語が盛り上がる。
透明性。
その単語が出るだけで、私は胃の奥がきゅっと縮む。
透明って、響きはいい。
でも透明になった瞬間、全部見えちゃう。
見えちゃうと、誰かが騒ぐ。
騒ぐと面倒。
面倒は嫌いだ。
そして今日。
嫌な予感が、形になって私の前に立ちはだかった。
「イレイン様。殿下がお呼びです」
式典係の上級生が、いつもより顔色が悪い。
こういうときの“殿下がお呼び”は、ろくな内容じゃない。
ろくな内容じゃないから、上級生も巻き込まれている。
巻き込まれた人は、目が死ぬ。
目が死んでいると、見ているだけで面倒が伝染する。
伝染は嫌だ。
(行きたくない)
「行くんだよね」
(行かないと噂が立つ)
「立つね」
(噂は面倒)
「面倒だねぇ」
(黙って)
私は、仕方なく会議室へ向かった。
歩幅は小さく。
呼吸は浅く。
存在感は薄く。
私は薄い影でいる努力をする。
それでもソレイユ侯爵家という看板が、勝手に光る。
光るな。
眩しいと眠れないだろうが。
会議室の前には護衛が立っていた。
つまりこれは“学生の相談”ではない。
王族案件。
王族案件は重い。
重いものは持ちたくない。
扉を叩く。
「失礼いたします」
入る。
第二王子と、横恋慕令嬢がいた。
机の上には資料の束。
そして、今回はもう一人いた。
教師。
学園側の大人。
大人がいる会合は、責任が固定化しやすい。
最悪だ。
「来たか、ソレイユ」
王子の呼び方が相変わらず雑だ。
雑なのに、今日は妙に機嫌がいい。
機嫌がいい人は、だいたい何かを決めた後だ。
決めた後の機嫌は危険だ。
もう止まらないから。
横恋慕令嬢は笑顔で私を迎えた。
「イレイン様。先日は倉庫の件、本当にありがとうございました。皆、あなたのおかげで——」
やめて。
ありがとうは、借金の言葉だ。
借金は返さなきゃいけない。
返済は面倒だ。
私は借金が嫌いだ。
「学園の備品管理の範囲で動いただけですので」
私は薄く受け流し、端の席に座った。
端。
端が好き。
端は世界の救い。
……なのに、今日の端は嫌な端だった。
逃げ道が少ない端。
視線が集まる端。
最悪の端。
王子が資料を叩いた。
「改革を進めるにあたって、障害が多い」
教師が硬い顔で頷く。
「現場の混乱は増えています。治安、雇用、住居……予算の手当ても追いついていない」
横恋慕令嬢が、少しだけ眉を下げた。
悲しそうな顔。
悲しそうな顔は武器だ。
悲しそうな顔を見せれば、反対する側が悪者になる。
私は悪者になりたくない。
だから黙るしかない。
……のに、今日も黙らせてくれないのがこの世界だ。
横恋慕令嬢が、柔らかい声で言った。
「反対が多いのは、皆が恐れているからですわ。変化を。けれど、恐れは無知から生まれます。ならば——」
彼女はそこで少し間を取った。
間の取り方が上手い。
上手い間は、人の呼吸を奪う。
講堂の拍手と同じだ。
空気が“次”を待つ。
私はその空気が嫌いだ。
空気は本来、無関心であってほしい。
「——政府を、開きましょう」
来た。
致命傷の提案。
私の平穏にとっての致命傷。
たった一文で、私は背筋が冷えた。
冷えると眠くなる……はずなのに、冷えすぎると逆に目が冴える。
最悪だ。
王子が身を乗り出す。
「開く、とは?」
横恋慕令嬢の瞳が輝く。
「会議を公開し、議事を民に見せ、提案を誰でも出せるようにするのです。閉ざされた貴族の政治は、腐敗の温床ですわ。透明性を——」
透明性。
またその言葉。
透明性は、光が強すぎると焼ける。
焼けたら、燃える。
燃えたら面倒が増える。
私は面倒が嫌いだ。
教師が慎重に言う。
「公開には段階が必要です。機密情報、外交、軍事——」
横恋慕令嬢は微笑んだ。
「もちろん、機密は守ります。ですが“反対派”が機密を理由に全部を止めるのは、ただの抵抗ですわ」
反対派、という言い方。
一括りにする言い方。
そして“ただの抵抗”。
その瞬間、私は確信した。
この人は、議論をする気がない。
議論をする気がない人間が“政府を開く”と言うとき、それは公開ではなく——支配だ。
公開の皮を被った支配。
支配は面倒だ。
支配は、必ず反発を生む。
反発は暴力になる。
暴力は片付けが大変だ。
私は片付けが嫌いだ。
王子が言う。
「民の声を聞けば、支持も得られる。反対派も黙るな」
横恋慕令嬢が、そこで、ほんの少しだけ声を落とした。
落とした声は、秘密の共有になる。
秘密は結束を強める。
結束は排他を生む。
排他は粛清に繋がる。
私は知っている。
知っているのが嫌だ。
「殿下。反対派は——妬んでいるだけですわ」
妬み。
便利な単語だ。
相手の主張を“感情”に落とせる。
感情に落とせば、論理を無視できる。
無視は、楽だ。
楽な道は、だいたい崖に繋がっている。
横恋慕令嬢は、にこやかに続けた。
「ですから。邪魔な方々は、排除してしまえばよいのです。静かになります。改革も進みます。皆、幸せになりますわ」
排除。
この世界で“排除”は、だいたい血の匂いを伴う。
それを、こんなに軽く言う。
軽く言えるのは、想像していないからだ。
想像していないのは、責任を取る立場にないからだ。
でも彼女は、王子の隣にいる。
隣にいるだけで、責任の席に座れる。
座れると勘違いすると、国は壊れる。
国が壊れたら、私の平穏も壊れる。
それは嫌だ。
嫌だ。
心の底から嫌だ。
私は、息をするのを忘れそうになっていた。
この瞬間、私の中で何かが切り替わった。
今まで私は「できるだけ関わらない」「最小限の柵を置く」「静観」を選んできた。
蒸気機関はまだ軌道修正できると思った。
奴隷制廃止も、現場対応でなんとかなると思った。
……甘かった。
この人は止まらない。
止まらないどころか、止める側を排除すると言った。
それは改革じゃない。
政変の入口だ。
粛清の入口だ。
入口が開いたら、後は流れができる。
流れは止めづらい。
止めづらいものは面倒だ。
面倒は嫌いだ。
だから私は——ここで決めた。
横恋慕令嬢を勝たせる=国の不安定化=面倒無限。
倫理じゃない。
正義でもない。
私の平穏の計算だ。
計算結果が最悪の数字を叩き出した。
なら、対策は一つ。
方向転換。
私は、表情を一ミリも動かさないように気をつけながら、王子と横恋慕令嬢の会話を聞き続けた。
聞いているふり。
同意しているふり。
空気に戻るふり。
本当は、頭の中で別のことを考えていた。
——どうやって、最小の被害で終わらせるか。
どうやって、私の名前を残さずに。
どうやって、能力を見せずに。
どうやって、転生者バレを避けながら。
教師が反論した。
「排除、という言葉は危険です。政治は合意形成で——」
王子が手を振った。
「分かっている。だが反対派が改革の足を引っ張るなら——」
横恋慕令嬢が、優しく補足する。
「殿下はお優しいから。けれど、殿下の優しさが国を遅らせますわ」
優しさ。
優しさは毒にもなる。
今その毒が、王子の耳に流し込まれている。
私は、静かに立ち上がった。
「失礼いたします。式典係の業務がございますので」
退室の理由は、いつだって“業務”。
業務は逃げ道。
逃げ道は正義。
私は逃げ道が好きだ。
王子が軽く頷く。
「そうか。——ソレイユ、今後も協力を頼む」
協力。
最悪の単語。
私は微笑みを貼り付けて頭を下げた。
「恐れ入ります。可能な範囲で」
可能な範囲。
この言葉も便利だ。
範囲を決めるのは私。
私は範囲を狭くしたい。
狭くしないと死ぬ。
部屋を出て、廊下に出た瞬間。
私は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
学園の廊下が、いつもより長く感じる。
長い廊下は好きだったはずなのに、今日は嫌だ。
長い廊下の先に、面倒が延々と並んでいる気がするから。
(神様)
「うん?」
(あれ、改革じゃない)
「うん。君、やっと気づいた?」
(気づきたくなかった)
「でも気づいた。じゃあどうするの?」
(……方針転換する)
神様が、少しだけ楽しそうに言った。
「やっと主人公っぽくなってきたね」
(私はモブ志望)
「モブが一番怖いんだよ。物語を完成させるのはモブだから」
(やめて。そういうこと言わないで。面倒が増える)
私は、足を止めた。
窓の外を見る。
夕方の光が、校舎の壁を赤く染めている。
綺麗だ。
綺麗なのに、嫌な感じがする。
血の色に見えるからだ。
私はそういう連想が嫌いだ。
嫌いだが、頭は勝手に連想する。
勝手に動く頭も面倒だ。
——ここから先は、静観じゃダメだ。
柵を置くだけじゃ間に合わない。
相手は柵を壊して前に進む。
なら私は、別の道を作る。
相手の足場を崩す。
崩すための証拠を集める。
集めるための舞台を整える。
整えるだけ。
私は斬らない。
私は魔法を見せない。
私は“記録係”として、社会のルールで詰める。
一番面倒の少ない勝ち方で。
そして——味方を決める。
味方、という言葉は嫌いだ。
味方を作ると、敵が生まれる。
敵は面倒だ。
でも敵は、もう生まれている。
横恋慕令嬢が、排除と言った瞬間に。
生まれたなら、選ぶしかない。
面倒の少ない方を。
悪役令嬢枠。
深紅の髪の、銀の瞳。
孤立していて、冷たいと誤解され、でも制度を理解している人。
少なくとも、責任という言葉の重さを知っている人。
その隣に立つ方が、面倒が少ない。
私の計算はそう言っている。
私は、廊下の先に見えた彼女の背中を見つけた。
すれ違う距離。
声をかけるかどうか、迷う。
迷っている時間は短いほどいい。
迷いは、だいたい面倒に繋がる。
だから私は、最小の言葉を選んだ。
「……少し、お時間をいただけますか」
彼女が振り返る。
銀の瞳が私を射抜く。
怖い。
でも、さっきの会議室の甘い笑顔より、ずっとましだ。
甘い毒より、鋭い刃の方が扱いやすい。
刃は方向が分かる。
毒は分からない。
彼女は短く言った。
「——何の用?」
私は、表情を崩さないまま答えた。
「事故を減らしたいだけです」
嘘じゃない。
私の本音はいつもそれだ。
平穏のために、面倒を最小化する。
そのために、私は——動く。
何もしないために。
ここから先は、もう逃げるだけじゃ済まない。
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