第3話見つかってはいけない人が、来てしまった

その瞬間。

奥のほうから、別の兵士の声が飛んだ。

「待て!勝手に触るな!殿下を呼びに行くと命じただろう!」

兵士はビクリと手を引き、背筋を伸ばした。

「し、失礼しました……!」

だが、取っ手の存在に気づいた以上、

いずれ開けられるのは時間の問題。

ティアは不安で胸がいっぱいの表情で、

ユウトを見上げた。

(どうすれば……)

声にはしないが、その問いがはっきり伝わる。

ユウトは静かに、わずかに首を横に振って言った。

声にならない声で――

「まだ動くな」

ティアは小さく震えながら頷いた。

外では、殿下――

アリシア王女を呼びに行った兵士が戻りつつある気配がした。


草を踏む音。

複数の足音。

そして、静けさの中に混じる、柔らかい布の擦れる気配。

ティアの指がユウトの袖をぎゅっと引いた。

暗がりの中、

大きく見開かれた瞳が、必死に訴えている。

ユウトはしゃがんだ姿勢のまま、耳をティアの口元に寄せた。

声にしてはならない緊迫が、二人の距離を極端に近づけた。

ティアは震える息を押し殺し、唇だけを動かして囁く。

「……ユウト様……来ちゃだめ……

 殿下……あの人が来たら……見つかっちゃう……」

殿下に見つかるとまずい。

――その言葉にユウトは眉をひそめる。

(何がまずいんだ? 俺のことか? ティアのことか?)

問い返そうとした瞬間、ティアはさらに体を寄せ、彼の胸元を掴んだ。

「ほんとに……ほんとに駄目……!

 あの人、強いの……すごく……

 私じゃ……どうにもできない……」

震え声だが、怯えだけではない。

ユウトを守りたい。

という意思が、ぎゅっと握られた指に宿っている。

さらに――

「……殿下は……勇者を欲しがってる……

 もしユウト様が見つかったら……

 きっと……連れていかれる……!」

ユウトの胸がわずかに冷える。

(勇者? なぜ俺を?)

聞き返そうとするが、ティアは首を振って続けた。

「言えない……まだ……でも、殿下にだけは……見つかっちゃ駄目……

 お願い……お願いだから……」

その声は、怯えと焦りと切なさの混ざった、

今にも泣きだしそうな響きだった。

ユウトは短く頷いた。

今はとにかく隠れるしかない。

ティアはその頷きに安心したように、

ユウトの袖をぎゅっと握りしめたまま身を縮める。

その時――

車のすぐ近くで、誰かの声がした。

「……殿下、こちらです」

ティアが、息を止めた。


足音が近づき、森の静けさの中に

柔らかな布が揺れる気配が混じった。

兵士が恭しく言う。

「殿下、こちらでございます。この……鏡の壁をご確認ください」

ユウトはティアを抱き寄せるようにして伏せさせながら、

窓越しに外をそっと覗く。

月の光を受けながら、淡いクリーム色のドレスがふわりと揺れていた。

甲冑ではない。

戦場の装いではない。

だが、その姿は場の空気を一瞬で支配するほどの存在感を持っている。

アリシア王女。

長い銀金色の髪が肩にかかり、

彼女が歩くたびに光を集めて流れていく。

両脇には重装備の近衛兵たち――

全員が無駄のない動きをする精鋭。

ティアの肩がびくりと震えた。

(……あの人……)

ティアの小さな囁きに、

ユウトは彼女が本気で恐れていることを理解した。

アリシアは鏡面の車体の前で静かに立ち止まり、

細い指をそっと鏡へ近づけた。

触れた瞬間、彼女のまなざしが変わる。

「……ただの鏡ではありませんね。魔力の流れが、歪んでいる……」

(魔力?)

ユウトは心の中で目を見張った。

鏡に触れただけでそんなことが分かるのか。

兵士が慌てて口を開く。

「殿下、この壁は金属のようで、

 叩くと中は空洞の音がいたします!」

アリシアはゆっくりと頷き、

車体を指先で撫でるように感触を確かめた。

「ええ……中に空間があるのは間違いありません。

 そして――」

ほんの一瞬、アリシアの瞳が

鏡の奥へと吸い込まれるように細められた。

王女は鏡に映る自分を気にする素振りを見せず、

ただ内側を見ようとするように、じっと鏡面を見つめる。

「……気配を感じます」

兵士たちがざわつく。

「き、気配……? 何者か、中に……?」

「では、やはりこの中に――」

アリシアは静かに手を下ろす。

「恐らく……いますね。

 この中に、何者かが」

ティアの指が、ユウトの袖を強く引いた。

声にならないほどの怯えが、その震えで伝わってくる。

「ユウト様……どうしよう……

 殿下は、勘が鋭いの……このままじゃ……見つかる……!」

アリシアは兵たちに背を向けずに言った。

「扉があるはずです。探しなさい。

 強引に開ける必要はありません。

 まず、どこに手掛かりがあるのか調べて――」

その瞬間、近衛兵のひとりが車体横にある取っ手へ手を伸ばした。

ティアが息を呑み、ユウトの胸元にしがみつく。

「だめ……開けられる……!」

緊迫が極限まで高まった。


アリシア王女は鏡のような車体に手を触れ、

しばらくその表面を観察していた。

だが、ふと目線がずれ、

鏡面に映り込んだ自分の姿と視線が合った。

一瞬、王女の肩がピクリと固まる。

淡いドレス、月明かりを受けた髪――

異様な鉄の壁を調査しているはずなのに、

鏡に映った自分の姿が視界に入り、

無意識に気になってしまったのだ。

アリシアは小さく咳払いして、

そっと髪の乱れを指ですくう。

鏡面に映る自分を見ながら、

前髪をほんの少し整え、

肩に落ちた髪をさりげなく払う仕草。

それを見てしまった近衛兵たちは、

一斉に視線を逸らし、耳や頬を赤く染めた。

(――殿下、かわいいな……)

(こんな時にも隙があるなんて……)

(でも見てはいけない……!)

恥じらいながらも

全員が見なかったことにするように背筋を伸ばす。

アリシアはその反応に気づいたのか、

すぐに表情を引き締める。

「……これは、本隊に任せるべきでしょうね。

 私が長くここにいても、判断を誤るだけです」

照れ隠しのように、わざと落ち着いた声を出す。

だが、耳の先だけ少し赤い。

「みな、戻ります。あとは専門の調査隊に――」

そう言って踵を返しかけたとき――

コトッ。

車内で小さな音がした。

ユウトの肩がわずかに跳ねる。

ティアが、緊張に耐えきれずに握っていたユウトの袖から手を離し、

膝をついたときに機材ケースへ触れてしまったのだ。

その音は静寂の森に、不自然なほどよく響いた。

アリシアの足が止まる。

近衛兵たちも、一斉に振り返る。

「……今の音は?」

ユウトの胸の中で、ティアが震えた。

「ごめん……ごめん……」

声が漏れそうになるのを、ユウトがそっと手で遮る。

アリシアは鏡の前へ戻り、先ほどとは違う、鋭い静かな目で鏡面を見つめた。

「……やはり。中に誰かいるわね」

王女の声は、先ほどの照れの残り香を一切含まない。

完全に、獲物を逃がさない王族の声だった。


アリシアは鏡の前へゆっくりと戻った。

先ほどまでの女の子らしさの気配は消え、

しかし険しさでもなく――

むしろ、光をまとったような落ち着いた気配を漂わせている。

近衛兵たちが王女の左右に控える中、

アリシアは鏡面に手をそっと添えた。

「……中の方」

その声は、驚くほど柔らかい。

「怖がらなくていいわ。

 あなたに危害を加えるつもりはありません」

(……優しい声だ)

ユウトはそう思った。

だが同時に、逃げ場を失わせるための声だとも感じた。

ティアはユウトの袖を握ったまま、小さく震え続けている。

(……この声……昔と同じ……

 優しいのに……逃げられない……)

アリシアは続ける。

「私たちは、この森で不審な魔具を調査しているだけ。

 もし中に迷い込んだ者がいるなら……保護する義務があるの」

美しい声だ。

嘘を言っているようには聞こえない。

だからこそ――怖かった。

「出てきて。傷つけたりはしないわ。ただ、お話がしたいだけ」

近衛兵たちも、王女の言葉に合わせるように姿勢を正す。

アリシアは鏡面に映る自分の姿に視線を落とし、

ほんの少しだけ微笑む。

その笑みは優しさの裏に、

逃げ場を与えない何かを確かに含んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎週 日・火・木・土 20:00 予定は変更される可能性があります

転生マジックミラー号 春日寛 @kasugahiroshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ