第2話森で出会った少女は、僕の名前を知っていた
その瞬間――
ティアの小さな手がユウトのシャツを掴んだ。
ぎゅっと、離さない。
震える声で、しかし確かに言った。
「やっと……来てくれた……の……?」
まるで長い孤独がほどけるような声だった。
ユウトには意味がわからない。
だが、ティアの反応はただの遭遇ではない。
まるで――
ユウトを知っていた人間の反応。
(いったい……何が起きてる……?)
理解より先に、胸がざわついた。
ティアはゆっくりユウトを見上げる。
桃金の髪が、細かく震えながら揺れた。
「ユウト……様……?」
ユウトは言葉に詰まった。
答えるべき言葉が見つからなかった。
どうして自分の名前を。
どうしてこんな表情で。
ここはどこで、彼女は誰なのか。
だが、質問より先に。
ミラーがわずかに揺れた。
車体の反射面が、わずかに先走るように揺れた。
森の奥の光と影が、現実より一瞬早く、鏡の中で形を結ぶ。
森の奥から、複数の足音。
光。
金属の音。
誰かが来る。
現実の森にも、遅れて同じ音が響いた。
ティアはその気配を敏感に察し、
ユウトの手を強く握った。
「……だめ……! ここにいたら……!」
声は震えているが、必死だ。
誰が来るのか、何が来るのか。
ユウトは状況を全く把握できていない。
だが、ティアはユウトを逃がそうとしている。
それだけは、直感で理解できた。
遠くで、何かが踏みしめられる音がした。
乾いた枝が折れるような、規則的な足音。
ティアはユウトの手を握りしめたまま、駆け出そうとする。
「急いで……! 森なら隠れられる……!」
だが数歩走っただけで、息が苦しそうに乱れ、足が止まった。
慣れない地面。
重く沈む土。
彼女の体では、到底走り抜けられない。
ティアは小さく、悔しさを噛みしめるように言った。
「……無理……追いつかれる……」
ユウトはすぐに判断した。
森に逃げ込めば、追われたときの対処ができない。
視界も悪い。
足場も悪い。
ティアも疲れている。
ならば――
もっと確実に身を隠せる場所がある。
「ティア、こっち」
短く言い、ユウトはマジックミラー号へ誘導した。
迷いのない動きに、ティアはそのままついていく。
ドアを開けると、スタジオ用に使っていた照明が
何かのはずみで、柔らかく車内を照らしていた。
ユウトはティアを押し込むように中へ入れ、
すぐに後ろ手でドアを閉める。
そのまま照明スイッチを探し、指先で押し込んだ。
パチン。
光がすっと消える。
車内はうっすらとした暗がりに沈んだ。
同時に――
外の様子がガラス越しに淡く浮かび上がった。
木々の揺れも、夜気の濃さも、
まるでこちら側だけが薄い膜越しに世界を見ているようだった。
ティアはその変化に目を見張った。
「……見える……」
驚きと安堵が入り混じった吐息。
照明が落ちたことで、外の動きが自然と視界に入るようになったのだ。
ユウトは人差し指を口元にあて、
「静かに」と短い仕草で伝える。
ティアは頷き、小さく息を整えながらユウトの袖を握り続けた。
外の音が、近くなっていく。
低い話し声。
装備が触れ合う硬い音。
誰かが地面を踏みしめる重い気配。
ユウトは車内の壁に背をつけ、
窓越しに外の様子を静かに見守る。
ティアは怖さを押し殺し、
ユウトの隣に寄り添うように座り込んだ。
二人の息だけが、狭い車内で微かに混ざる。
外の気配が、すぐそばまで来た。
ティアの指先が、袖をぎゅっと強く握る。
ユウトは呼吸を止めた。
車の横で、誰かが立ち止まった――。
車のすぐ横で、足音が止まった。
重い鎧がわずかに鳴る。
鼻息まで聞こえるほど近い。
ユウトとティアは息を潜めたまま動けない。
ひとりの兵士が、恐る恐る手を伸ばした。
「……なんだ、この壁は。金属……か?」
指先が鏡面に触れた瞬間、
甲冑に包まれた自分の姿がくっきりと映り込んだ。
兵士は「うっ」と短く声を漏らし、
思わず身を引いた。
「わ、私が……映っている……?」
「お、おい見ろ。お前も映ってるぞ!」
隣の兵士も覗き込み、
鏡越しの自分の顔と目が合った途端、
まるで素顔を見られたかのように耳を赤くする。
「な、なんだこれは……っ。
こんなに近くで、自分の顔を……!」
「いや、近すぎる……。
こんな恰好で映っているのを見るのは……こ、困る……!」
鎧の肩をおさえ、姿勢を微妙に直す兵士。
髪を整えるように兜に触れる兵士。
ぎこちなく立ち位置を変え、映り込みを避ける者。
どう見ても、未知の魔道具への警戒と、
鏡に映った自分への照れが混ざり合っている。
ティアは袖を握りながら、かすかに震える声で囁いた。
「……かわいい……」
ユウトは思わず吹き出しそうになったが、
必死にこらえる。
外の兵士たちはなおも鏡を前に
どうしたらいいか分からない様子だ。
「お、おい……これ……魔具か……?
だとしたら……私たちの顔が丸見えではないか……!」
「やめろ、そんなに近づくな!
ほら、私の鼻が……で、でかく映ってしまって……!」
「し、仕方ないだろう!
光の加減だ! これは本来の大きさでは……ない……!」
ごそごそと鎧を直したり、
胸を張り直したり、
妙に落ち着きなく立ち位置を変える姿は、
――驚きと羞恥の入り混じった光景だった。
だが、その照れと同時に、
兵士たちの警戒は確かに高まりつつある。
「……しかし、不審な物体だ。
中に何が潜んでいるか分からん。
王女殿下をお呼びすべきか……?」
「ま、待て!殿下にこの……我らの映り込みを……見られるのは……!」
「そ、それは……困る……」
またしても兵たちの視線が鏡へ吸い寄せられ、
ますます恥ずかしそうに体勢を変え始める。
ティアは息をひそめながら、
ユウトに寄り添って囁いた。
(……本当に気づかれていない……!)
ユウトは静かに頷く。
マジックミラーの特性が、完璧に働いている。
しかし、このまま兵士だけで収まるとは思えなかった。
兵士の一人が、
遠くへ向かって声を上げる。
「……殿下!不審な鏡の壁を発見いたしました!
至急、ご確認を――!」
ティアの手が、ユウトの袖をさらに強く掴んだ。
鏡面に映る自分たちに気を取られていた兵士たちは、
ようやく咳払いをし、互いに視線を合わせた。
「……いかん。任務中だ。これは何かの殻か」
「そうだな。触れてみると、冷たい……金属のような……」
ひとりが拳で軽くコン、と叩く。
澄んだ音が森に響いた。
「うむ……中は空洞かもしれん。
何かを隠すための……箱?」
その言葉に、別の兵士が顔をこわばらせた。
「まさか……魔物か?
あるいは反乱分子の秘密の陣地……?」
「どちらにせよ、中を確認せねばならん」
兵士たちは鏡面に直接触れたくないのか、
映った自分の姿を気にしながらも位置を変え、
慎重に端から端へ視線と手のひらを滑らせる。
内部では――
ティアはユウトの袖を握ったまま、唇を噛みしめてじっと動かない。
ユウトも呼吸を殺し、外を見つめていた。
兵士たちは鏡面の縁を辿り、やがて車体側面のわずかな段差に気づく。
「……何かの境目だな」
指でそっとなぞり、声を低くする。
「開く構造かもしれん……」
ティアの肩がびくりと震えた。
ユウトはそっと手を添え、落ち着くよう促す。
外の兵士は続ける。
「もし中に何かが潜んでいるなら…… 放置する方が危険だ」
「殿下をお呼びする前に、せめて安全確認だけでも……」
兵士が手を伸ばす。
扉の取っ手に触れようと、ゆっくり、慎重に――。
ティアの指が、ユウトの袖に食い込んだ。
(……開けられる……!)
ユウトは冷静に状況を読み取る。
もし取っ手を引かれれば、ドアが開いて気づかれる。
マジックミラーの特性でも、
扉そのものが開けば隠しきれない。
外の兵士は囁くように言った。
「よし……開け――」
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