転生マジックミラー号
春日寛
第1話スタジオからの帰り、道に迷っただけのはずだった
「カット!OK、今日はここまで!」
監督の声とともに、スタジオに緊張が解ける。
ライトが落とされ、演者が控室へ戻り、
スタッフたちは手際よく撤収に入った。
ユウトは壁際でケーブルをまとめながら、
深く息をついた。
(ようやく終わった……)
まだ掃除はしていない。
まずは照明、音響、レール、機材――
毎回の「戦場の片付け」と言うべき作業がある。
仲間たちが順に声をかけてくる。
「おつかれ、俺は機材車で戻るわ」
「私は地下鉄で帰っちゃいますね〜」
「じゃユウトさん、ミラー号よろしく!」
自然な流れで、マジックミラー号を会社に戻す役がユウトになる。
いつもそうだ。
彼は慎重で、安全運転で、信頼されている。
一通りの撤収が済み、倉庫へ戻るチームが去ったあと、
ユウトはマジックミラー号のドアを開けた。
中はまだ撮影の熱気が残っている。
タオルとペットボトルを回収し、シートだけは丁寧に整える。
(これが終われば、ようやく帰れる)
疲れてはいたが、明日の撮影に響くことだけはしたくなかった。
だが、明日の撮影に備えて綺麗にしておくのは義務だ。
彼は真面目だから、手を抜かない。
「……よし。こんなもんか」
ミラーも最後に軽く拭く。
自分の顔がぼやけて映る。
(今日も、無事だった)
その一点だけが、少しだけ胸を軽くした。
外に出ると、もう他のスタッフはいない。
海風だけが残り、湾岸の夜景が静かに流れていた。
ユウトは車に乗り込み、エンジンをかけた。
マジックミラー号の大柄な車体が、
深い夜の中へゆっくり滑り出す。
(これ返したら即帰ろう……シャワー浴びて寝るだけだ)
いつもと変わらない帰り道。
ただそれだけのはずだった。
高速を降り、普段のルートに入る。
しかし、ふと気づく。
(……あれ? こんな細い道、あったか?)
ナビは無言で、次の右折を示している。
いつもは通らない小さな交差点。
明かりも少ない。
「ま、いいか。ナビが言うなら」
軽い気持ちで従う。
仕事終わりで頭がぼんやりしていた。
だが、曲がるたびに道は細くなる。
街灯が減り、建物が消え――
完全に山道へ入っていた。
(いや、これはおかしい)
戻ろうと減速し、Uターンできる場所を探す。
しかし、道幅が狭い。
引き返そうにも、バックで来た道を延々戻るしかない。
ユウトはため息をついた。
「……まいったな。どっか広い場所まで行くか」
焦りはない。
ただの迷い道だと思っていた。
そのとき――
ミラーに映った景色が歪んだ、ほんのわずか。
だがユウトは、気のせいとは思えなかった。
(……変だ。ミラーが……)
そう思った瞬間。
マジックミラー号のヘッドライトが照らす先――
その道路が、突然、――消えた。
正確には、アスファルトではなく ゆらめく白金の膜 に変わった。
舗装が消えたのではない。
道路という概念だけが剥がれ落ち、
代わりにそこへ、光の薄皮のようなものが張りついた。
「……うわぁっ!」
ブレーキを踏むが、車体は止まらない。
滑っているようでもなく、落ちているようでもなく。
ただ――
ミラーが膜に吸い寄せられている。
ミラー面だけが、世界に引っ張られるように前へ進む。
車はミラーの後を追わされている感じだ。
その膜は、鏡を見るときの反射の厚みを、そのまま世界に流し出したような、
不気味で、それでいて美しい揺らめきを帯びていた。
ユウトは、ありえない現象に目を奪われた。
ミラーには、歪んだ反射が映っていた。
車が踏み込む前に、道の形が映る。
「な、なんだよ!、これ!」
ミラーが世界の膜に触れるたび、
反射した光が 薄い円となって広がる。
波紋の中心がミラーなら、ユウトはその波紋の中を進んでいる。
しかし――
波紋は音を立てない。
静かな光のドームが、外界を覆い隠すように膨らみ、
周囲の木々が 光の粒になって崩れ落ちていく。
現実が剝離する。
森が縮んでいく。
ユウトの心拍が早まった。
だが、恐怖とは違う。
(ああ、綺麗だ……)
理解が追いつかないのに、
視覚だけが「これは美しい」と告げている。
膜の縁がミラーに接触した瞬間――
反射した光が 境界を切り裂く線 になった。
まるで世界が、鏡の角でスパッと分割されたようだ。
そして境目を滑り抜ける感覚が、身体を冷たく撫でていく。
衝撃はゼロ。
落下もゼロ。
ただ境界の向こう側へ移動する感覚。
物理法則が消えたのでも、魔法が働いたのでもない。
反射の性質そのものが、世界に穴を開けたようだった。
ユウトはハンドルを握り直す。
ライトの先には――
もう現代の景色はない。
深い森の影。
大きな月。
風が流れ、湿った土の匂いが車内に入り込む。
境界膜が後ろへ閉じていく。
その瞬間、ミラーに映る現代の道路が、まるで夢の残像のように薄らいで消えた。
ユウトの視界が現実に戻ったとき――、
マジックミラー号が柔らかく地面に沈み込んだ。
段差も衝撃もない。それなのに、道ではなかった。
ライトが照らすのは、湿った土と、苔むした根。
そして、見たことのない大きな月。
ユウトは息をのんだ。
(……どこだここ。山じゃないだろ、これ)
ドアを開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
夜のはずなのに、虫の音ひとつしない。
静かすぎる森。
そのとき――
カサ……と小さな音がした。
ユウトは思わずそちらを見る。
ライトの届かない暗がりの奥、木々の影がわずかに揺れる。
(動物……か? いや、背が高い?)
影がこちらへ歩いてくる。
ゆっくり、慎重に。
そして光の縁に入った瞬間――
少女が現れた。
長い桃金の髪が、光を受けて淡く揺れる。
柔らかい布のワンピース。
年齢は十代後半くらい。
しかし、ユウトを見た瞬間、
少女――ティアは、完全に固まった。
目を大きく見開き、息すら止めたように。
驚き、恐怖……ではない。
もっと別の感情。
ユウトには説明できない何かが、その瞳に浮かんでいた。
――見つけた。
――信じられない。
――来てしまった。
そんな言葉を飲み込んだような表情。
ユウトは警戒しつつも声を出した。
「……あの、大丈夫か? 怪しい者では――」
その瞬間、ティアの唇が、微かに震えた。
「……ゆ……」
ユウトは耳を澄ませる。
「ゆ……う……と……?」
空気が止まった。
森が息を潜めたように静まり返る。
(なんで俺の名前を……?)
ユウトが一歩近づこうとしたそのとき。
気を失ったティアの膝がわずかに崩れ、
まるで祈るように地面へ落ちそうになった。
ユウトは反射的に走り、彼女を受け止める。
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