ショートショート|この世界は好都合に予報通り
緋月カナデ
この世界は好都合に予報通り
朝、目が覚めると男はまず窓の外ではなく、 枕元の端末を見た。
天気予報ではない。 この時代、雨傘が必要かどうかよりも重要なのは、 防弾チョッキのような心の準備が必要かどうかだ。
「本日の課長の機嫌は、急速に発達し、雷を伴う激しい荒れ模様となるでしょう」
男は深いため息をついた。 画面には、赤黒い渦巻きのマークが表示されている。 これは最大級の警戒レベルだ。
出勤の電車内は、誰もが殺気立っていた。 あるいは、極度に怯えていた。
誰もが手元の端末で、隣人の、上司の、取引先の、あるいは配偶者の「機嫌予報」をチェックしているのだ。
かつて人々は、相手の顔色を窺いながら生きていた。 それが今では、膨大な生体データと行動履歴を解析するAIが、数時間後の感情を完璧に予測してくれる。
「ああ、部長は今日も『氷点下の冷え込み』か……」
隣のサラリーマンが頭を抱えている。
オフィスに着くと、フロア全体が重苦しい沈黙に包まれていた。 全員が「課長が大荒れになる」という予報を受け取っているのだ。
書類をめくる音さえ遠慮がちになり、誰もが視線を合わせようとしない。 うかつに話しかけて雷に打たれるのを避けるため、全員が「貝」のように口を閉ざし、予防線を張っていた。
そこへ、課長が出社してきた。
「おはよう」
意外にも、その声は明るかった。足取りも軽い。
男は隠れて端末を確認した。 予報は変わらず「大荒れ」だ。
(おかしいな。嵐の前の静けさというやつか?)
部下たちは一斉に身構えた。 課長が近づくと、サッと身を引いたり、目を逸らしたり、あるいは過剰なほど卑屈に会釈を繰り返したりした。
誰も、課長の言葉を額面通りに受け取らない。 「おはよう」という挨拶の裏に、何かの罠があるのではないかと疑心暗鬼になっているのだ。
そんな部下たちの態度を見て、課長の眉がピクリと動いた。
せっかく昨晩は贔屓のチームが勝って上機嫌だったのに、会社に来てみれば、部下たちは自分をまるで腫れ物か猛獣のように扱っている。
無視されているようにも、馬鹿にされているようにも感じられた。
「おい、君たち。朝からなんだその態度は」
課長の声色が低くなった。 部下たちは戦慄した。ついに来た。予報通りだ。
「い、いえ! 滅相もございません!」
男が慌てて否定すればするほど、その挙動不審さが課長の神経を逆撫でする。
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え!」
ドン、と机が叩かれた。
フロア中の端末が一斉に振動した。
画像
『現在、局地的な雷雨が発生しています。十分にご注意ください』
男は心の中で納得した。 やはりAIは正しい。この科学の勝利に、男は感動すら覚えた。 もし予報がなければ、無防備な状態でこの怒号を浴びていたことだろう。
その日の午後、男は取引先へ向かった。
先方の担当者の予報は「曇りときどき皮肉」だったが、男が「課長の機嫌が悪くて参ってしまいまして」と、極度に萎縮した態度で接したところ、相手は男の暗い雰囲気に当てられ、次第に不機嫌になっていった。
当然、商談は決裂した。
帰宅途中、男はふと疑問に思った。
もし、誰も予報を見なかったらどうなっていただろう?
課長はあんなに怒らなかったのではないか。 取引先ともうまく話せたのではないか。
予報を見て身構える我々の態度こそが、相手を不快にさせ、予報通りの現実を作り出しているのではないか。
これはマッチポンプだ。 あるいは、終わりのない円環だ。
誰もが予報に踊らされ、自ら嵐の種をまき散らしている。 この馬鹿げたシステムを捨ててしまえば、世界には平穏な晴れ間が戻るはずだ。
男は決意を固め、端末のアプリ削除画面を開いた。
その時、通知音が鳴った。
『緊急速報。あなたの妻の機嫌が、急速に発達する低気圧により、大型の台風へ成長中』
男の指が止まった。
家のドアの向こうには、猛烈な暴風雨が待ち構えているらしい。 手ぶらで帰るわけにはいかない。
男は舌打ちを一つすると、アプリを削除する代わりに、駅前のケーキ屋へと走った。
これさえあれば、とりあえず風速は弱まるはずだ。
世界中が今日も、予報通りに不機嫌になり続けている。
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あとがき
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ショートショート|この世界は好都合に予報通り 緋月カナデ @sharaku01
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