第2話 辺境の雨、泥の中の聖女

 深い霧が立ち込める深淵の森は、陽の光を拒絶する巨大な天蓋のようだった。  叩きつける雨音は、すべてを飲み込む濁流となってニクスの体温を奪っていく。ガイウスに叩き出された際の衝撃で、脇腹には鈍い痛みが走っていた。


「……はぁ、はぁ……っ」


 なぜ、こんな場所まで歩いてきたのか。あてもなく、ただ直感に導かれるままに森の奥へ。ここは強力な魔物や帝国の哨戒網が入り乱れる危険地帯だ。マナを持たぬ「無能」が足を踏み入れるなど、自殺志願者と変わりない。


 だが、心臓の奥が疼くのだ。まるで、失った自分の半身がそこで泣いているかのような、狂おしいほどの焦燥感。


 視界を遮るシダの葉を掻き分けた、その時だった。


 ――銀色の糸が、泥の中に散らばっていた。


 いや、それは髪だった。月光を編み込んだような、透き通るような銀髪。大樹の根元。そこに、一人の少女が倒れ伏していた。


「……っ、おい! 大丈夫か!」


 ニクスは駆け寄り、泥にまみれた彼女の肩を抱き起こした。 驚くほどに白く、脆い。その肌は、雨に打たれて氷のように冷え切っている。  彼女の身に纏う法衣は、随所が裂け、鋭い刃物で切り裂かれたような跡があった。その胸元に刻まれているのは、帝国教団の最高位を示す『双星の聖印』。


「ヘーメラ……?」


 その名を呼んだ瞬間、電撃のような衝撃がニクスの指先から背筋へと駆け抜けた。  彼女は、Sランクパーティ『太陽の翼』にいたあの聖女ヘーメラに違いなかった。だが、ガイウスは彼女が「聖務で不在だ」と言っていたはずだ。  ボロボロの体、逃亡者のような格好。これが聖務であるはずがない。


「う、……ぁ……」


 ヘーメラの睫毛が微かに震え、重い瞼が開かれた。その瞳は、濁りのない空の色。  意識が混濁しているのだろう。彼女は焦点の合わない目でニクスを見上げ、震える指先で彼の頬に触れた。


「……みつ、けた。……わたしの、……」


 言葉は、途切れた。彼女の指が力なく落ちると同時に、ニクスの中の【虚無(ニル)】が、かつてないほど激しく脈動した。マナが「無い」はずの自分の魂が、彼女という「満たされたマナ」に触れ、猛烈に共鳴している。


 その時。上空の雲が、暴力的な爆鳴を上げて引き裂かれた。


 ――ゴォォォォォ!


 雨雲の向こうから姿を現したのは、鋼鉄の巨躯。帝国軍の高速追跡艇だ。船底に備えられたマナ・リアクターが放つ不気味な青白い光が、暗い森を昼間のように照らし出す。


「見つけたぞ。教団の裏切り者、聖女ヘーメラを確保せよ」


 拡声魔法を通した冷酷な声が、雨音を切り裂いて響き渡る。飛空艇のハッチが開き、マナを纏った魔導兵たちが次々と降下してくるのが見えた。


 ニクスはヘーメラの体を強く抱きしめる。力はない。魔力もない。戦う術など、何一つ持っていない。それでも、この瞬間に確信した。


 ――俺は、このためにここへ来たんだ。


 運命の歯車が、音を立てて回り始める。それが、幾千もの死を積み上げる絶望の始まりだとも知らずに。

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