[Chapter 14: 死線からの脱出]

陽葵は崩れ落ちそうになる膝を叩き、背後に聳える巨大な門扉へと地を蹴った。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」


背後からは、濡れた土塊を叩きつけるような不気味な足音が無数に迫る。

振り返れば、そこには生理的な嫌悪を催す異形の群れが蠢いているはずだ。

だが、陽葵は決して視線を後ろへはやらなかった。

一歩でも思考を止めれば、二度と現世の光を拝むことは叶わない。

生存本能だけが、彼女の脚を動かしていた。


朱塗りが剥げ落ち、どす黒い死斑のように変色した大門が視界を塞ぐ。

その境界を越えようとした瞬間、左手首に焼けるような激痛が走った。


思わず目を落とすと、そこにはヒトガタに掴まれた痕が、赤黒い蛇のような紋様となって浮かび上がっていた。

それは陽葵の心臓とは明らかに異なる、不規則で禍々しいリズムで脈動している。


陽葵の左手首には、拭い去ることのできない「異変」が刻み込まれていた。


「これ、は……」


袖を捲り上げると、そこには赤黒い蛇のような、不気味な紋様が浮かび上がっていた。

それは皮膚の下で生き物のようにうごめき、陽葵の心拍とはまったく別の、不規則で重苦しい脈動を刻んでいる。

ヒトガタとの接触によって穿たれた、『穢れの刻印』。


(これは……何? 痛い、熱い……!)


手首から前腕へと、ゆっくりと這い上がるその「嫌悪」は、陽葵の肉体がもはや清浄な生者のものではなくなったことを宣告していた。

恐怖に足がすくみかけるが、背後の気配はすぐそこまで肉薄している。

陽葵は痛む手首を抱え込むようにして、門の敷居を飛び越えた。


瞬間――世界から音が消えた。


鼓膜を聾さんばかりに響いていた呻きも、地を這う足音も、狂った風の音さえも、剃刀で断ち切られたかのように消失した。

陽葵は激しく肩で息をしながら、膝をついて背後を仰ぎ見る。


門の向こう側には、相変わらず底の知れない常夜の闇が広がっている。

だが、追っ手たちの姿は忽然と消えていた。

まるで見えない障壁に阻まれたかのように、彼らはこの門より先へは一歩も踏み込めないようだった。


しかし、安堵が訪れることはなかった。

門を抜けたこちらの領域は、先ほどまでいた場所とは明らかに空気の「質量」が異なっていた。


周囲を包むのは、肌を刺すような極低温の静寂。

吐き出す吐息が白く凍てつき、呼気に混じって自らの生命そのものが摩耗し、希釈されていくような錯覚に囚われる。

周囲の木々は一様に黒く立ち枯れ、その鋭利な枝先は、天を呪う鉤爪のように虚空を刺し貫いている。


ここでは時の流れさえもが凝固し、ただ「腐敗」という名の秩序だけがすべてを支配している。

それは、生者が踏み入ることを許されない、静謐で完結した絶望の領土だった。


肺胞の奥まで凍りつかせるような冷気が漂い、大気そのものが物理的な重圧となって陽葵の肩にのしかかる。

見上げる空には、太陽の昇らぬ「常夜」の月が、どこか嘲笑うかのように冷たい銀の光を投げかけていた。


「ここは……ここまで、追ってこれない……?」


独り言さえ、冷たい霧となって霧散していく。

陽葵は震える指先で、左手首の「刻印」に触れた。

ドクン、ドクンと、異物の生命が入り込んだかのような不快な拍動。


穢れの侵蝕は、確実に彼女の肉体を内側から蝕み始めていた。

それでも、陽葵は前を見据えた。


この先に、悠真がいる。

この痛みが、彼に近づいている証左なのだと自分に言い聞かせ、彼女は重苦しい空気の底を、再び歩き始めた。

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