[Chapter 13: 刻印される怨嗟]

朱塗りの巨大な門。

かつては神域を分かつ峻烈な境界であったはずのそれは、今や膨大な「穢れ」を吸い込み、どす黒く変色した絶望の質量へと変貌を遂げていた。


その圧倒的な圧威を前に、瀬戸陽葵は膝を突き、崩れ落ちる。

鉛のように重苦しい空気が肺胞を押し潰し、呼吸という生命維持の基本動作さえ、ままならない。


「は、ぁ……あ……っ」


指先一つ、自分の意志が届かない。

背後から忍び寄るのは、腐乱した百合と湿った腐植土が混じり合ったような、鼻を突く悪臭。

それは濃密な殺意を孕んだ、静寂という名の暴力だった。

陽葵は、直後に迫る「それ」の存在を、網膜ではなく、生存本能の最深部で感知していた。


音もなく。影もなく。


ヒトガタ――目鼻立ちの欠落した、泥を捏ね上げたような異形。

その一体が、凍てつく指先で陽葵の左手首を掴んだ。

氷のような冷たさと、火傷を負うほどの熱。

脳が処理を拒絶する矛盾した感覚が、彼女の皮膚を焼き切る。


「――ッ!?」


悲鳴を上げようとした喉は、瞬時に凍結した。

接触部位から、黒い泥のような「何か」が血管を逆流し、中枢神経へと直接流れ込んでくる。

視界が鮮血の色に染まり、直後、悍ましい光景の奔流が彼女の意識を蹂躙し始めた。


(苦しい、憎い、死ね、どうして、お前だけ、お前だけが、お前だけが――)


それは、この村の住人たちがかつて抱き、そして排泄した、剥き出しの怨嗟だった。

歴史から抹消される前の潮鳴村。

そこには飢饉という天災以上に恐ろしい、人間の醜悪さが沈殿していた。


隣人が蓄えていた一握りの米への、病的なまでの羨望。

村の秩序という大義名分を隠れ蓑に、若者を密告し、追い詰める老人の歪んだ愉悦。

想い人が別の娘と睦まじくする姿を見た女が、その夜、井戸へと注ぎ込んだ呪詛。

それらは決して高潔な悲劇などではない。

誰もが持ち得る「ありふれた悪意」が、閉鎖環境という坩堝(るつぼ)で煮詰められ、発酵した成れの果てだ。


「あ……が、ぁ……あ……!」


脳が焼ける。

陽葵という個の器に、数百、数千ものドロドロとした負の記憶が強制的に注ぎ込まれていく。

自己という存在が、底なしの悪意の海に溶け、希釈されていく。

陽葵は自分の名前すら想起できなくなり、ただ他人の絶望を細胞レベルで追体験し、音にならない叫びを上げ続けていた。


裏切った女を殺したい。

あの一家だけが健やかであるのが許せない。

いっそ皆、死んでしまえばいい。

この村ごと、何もかも。


意識が完全に断絶しかけたその時、陽葵の右手が無意識に、懐の「簪(かんざし)」に触れた。

母から受け継ぎ、そして何より、悠真がかつて「似合っている」と微笑んでくれた、あの彼岸花の簪に。


指先に伝わる、小さな石の硬質な感触。

それは、荒れ狂う嵐の海に投げ出された彼女にとって、唯一の楔だった。


(……ゆ、うま……)


その名を脳裏に描いた瞬間、簪の芯に嵌め込まれたくすんだ石――「蛍石」が、カッと青白い閃光を放った。

それは現世の物理現象を超えた、魂を浄化する神聖な輝き。

陽葵の意識の深淵を侵食していた黒い泥が、その光に触れた途端、一気に蒸発していく。

脳内を支配していた怨嗟の咆哮が遠のき、現実の冷淡な感覚が戻ってきた。


「……ぁ、ああああっ!!」


陽葵は渾身の力を振り絞り、ヒトガタの手を振り払った。

蛍石の光に焼かれたのか、異形は音もなく後退し、闇の向こうへと霧散した。


捕まれた腕と脳に焼けるような激痛が走り、意識が遠のきそうになる。

だが、陽葵は震える足で立ち上がった。

簪から伝わる微かな熱が、彼女の理性を辛うじて繋ぎ止めている。


この村の記憶は、あまりにも重い。

けれど、それらすべてが私を呑み込もうとしても――。


「まだ、進まないと……ならないから……」


理解不能な現象と物理的な痛みを記憶の隅に追いやり、昏い前途を見据えた。

巨大な門の先、さらに密度を増す闇の深淵へと、彼女は一歩、また一歩と踏み出していく。


その足元で。

季節外れの赤い彼岸花が、一輪だけ、静かに咲き誇っていた。

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