[Chapter 8: 目覚め]
意識の浮上は、皮膚を刺す刺戟的な冷気とともに訪れた。
陽葵は、湿った土と腐葉土が混じり合い、発酵したような濃密な死臭に鼻腔を突かれ、重い瞼を持ち上げた。
「……っ、……あ」
言葉にならない吐息が、白く濁って闇に霧散する。
視界を占拠していたのは、一切の光子を拒絶したかのような、硬質で純粋な「黒」だった。
登山道の途中で夕闇に包まれるのとは、根本的に質が違う。
そこには光の粒子すら存在せず、ただ濃厚な影が、物理的な質量を伴って彼女の肺腑を圧迫していた。
陽葵は震える手で地面を押し、強張った体を無理やり起こした。
先ほどまで自分を誘(いざな)っていたはずの、あの禍々しい赤黒い鳥居を探して振り返る。
だが、視線の先にあったのは、絶対的な虚無だった。
朱塗りの柱も、不気味な扁額も、道標となるべき人工物の痕跡すらも。
ただ、苦悶の表情を浮かべて捻じくれた奇怪な樹木が、巨大な壁となって背後に屹立している。
まるで、最初からそこに道など存在しなかったかのように、世界が書き換えられている。
「うそ……、消えてる……?」
掠れた声が、鼓膜に突き刺さるほど鮮明に響いた。
周囲は、生命が絶滅したかのように静まり返っている。
鳥のさえずりも、虫の羽音も、木の葉が擦れ合う微かな摩擦音すら届かない。
聞こえるのは、肋骨を叩く早鐘のような心臓の鼓動と、自身の荒い呼吸音だけだ。
その異常な静寂が、かえって彼女の聴覚を鋭敏に研ぎ澄まし、実体のない恐怖を増幅させていく。
陽葵は縋るような思いでポケットを探り、スマートフォンを取り出した。
網膜を焼くほどの眩い液晶の光。
しかし、期待していた電波のアイコンは、無情にも「圏外」を示したまま微動だにしない。
それどころか、画面の端に表示されているデジタル時計の数字が、理性を嘲笑うような速度で、無意味に高速回転を続けていた。
「何、これ……おかしいよ……」
指先が激しく震え、端末を落としそうになる。
彼女は次に、悠真の形見である腕時計に目を落とした。
秒針は狂ったように逆回転を繰り返し、短針と長針は互いを追い越そうと不規則に踊っている。
ここでは、時間の概念すらも、未知の摂理によって蹂躙されているようだった。
ここは、もう東北の山ではない。
あの鳥居を潜った瞬間に、自分は取り返しのつかない「境界」を越えてしまったのだ。
この土地を調べた際にインターネットで読んだ、地図から抹消された禁忌の村。
常夜に閉ざされた、生者の立ち入るべきではない異界。
その実感が、じわじわと不快な冷や汗となって背筋を伝い落ちる。
周囲の木々を見渡すと、それらはまるで意志を持った有機体のように蠢いて見えた。
幹は黒ずんだ粘膜のように光り、枝は骨張った指となって陽葵を捕らえようと空を掻いている。
霧のように漂う薄暗い「何か」が、肌に触れるたびに体温を奪い取っていく。
これが、この場所を支配する「恐れ」という名の浸食なのだろうか。
「悠真……」
恐怖の重圧に押し潰されそうになり、彼女は胸元の鞄を強く抱きしめた。
指先が、中に入っている簪(かんざし)の硬質な感触を捉える。
母から譲り受けた、あの彼岸花の簪。
その花弁の首元から垂れ下がるくすんだ石が、この闇の中で微かに、脈打つような熱を帯びているのを感じた。
それは暗闇に飲み込まれそうな彼女の精神を、現世へ繋ぎ止める唯一の楔だった。
立ち止まっていても、誰も助けには来ない。
ここで震えているだけでは、やがてこの闇の一部となって消滅してしまうだろう。
陽葵は膝の震えを抑え込むように、自身の腿を強く叩いた。
「行かなきゃ……悠真が、待ってる……」
自分を律するように呟き、陽葵は前を向いた。
道はない。ただ、どこまでも続く深淵の森があるだけだ。
しかし、彼女は一歩を踏み出した。
スニーカーが湿った土を踏みしめる音が、孤独なリズムとなって世界を刻み始める。
視界の端で、歪な樹木が嘲笑うように揺れた気がしたが、彼女はもう振り返らなかった。
背後の鳥居が消えたのなら、前へ進むしかない。
その絶望的な決意だけが、狂った異界を往く彼女の、唯一の灯火だった。
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