[Chapter 9: 背中]
足元を這う闇は、粘りつく泥というよりは、肺胞の奥まで侵食してくる不透明な液体に近かった。
視界を遮るのは、現世の物理法則が通用しない、光そのものを拒絶する絶対的な虚無。
数歩先さえ判然としない極限の閉塞感の中で、陽葵(ひまり)は喉の奥にこみ上げる嗚咽を、火を呑み込むような思いで抑えつけた。
肺に吸い込む空気は冷たく、そして異質だ。
湿った土の腐敗臭に、臓物を焦がしたような甘ったるい花の香りが不自然に混ざり合っている。
それは、生物の生存を断固として拒絶する、死の領域の気配だった。
「……悠真、なの?」
震える唇から漏れた呟きは、濃密な闇に吸い殺され、反響さえ残さない。
心細さが臨界点を超え、膝が折れそうになった、その時だった。
前方、歪にねじれた枯れ木の茂みの向こう側に、ふわりと淡い輪郭が浮かび上がった。
陽葵は息を止めた。
そこにいたのは、紛れもない「人」の形だった。
心臓の鼓動が、鼓膜を直接叩く鐘のように激しく打ち鳴らされる。
わずかに右側に重心を置く独特の歩法。
優しさを形にしたような、なだらかな肩のライン。
見間違えるはずがなかった。
「……悠真?」
声が震え、熱い塊が眼窩から溢れ出す。
二年前、あの雨の日に永遠に失われたはずの、世界で最も愛おしい背中がそこにある。
人影は陽葵を振り返ることなく、静かに、しかし確かな足取りで森の深淵へと進んでいく。
「悠真! 待って! 悠真!」
陽葵はなりふり構わず地を蹴った。
スニーカーが粘土質の土を跳ね上げ、行く手を阻む棘が頬を裂く。
だが、脳が痛覚を遮断していた。
今、あの背中に手が届かなければ、自分の人生は永遠にこの常夜の闇に塗り潰されてしまう。
その確信だけが、彼女を突き動かしていた。
だが、叫べば叫ぶほど、人影は応えることなく、意志を持った霧のように木々の間をすり抜けていく。
距離は一向に縮まらない。
それどころか、奥へ進むにつれて周囲の空気はより濃厚に重苦しさを増し、「恐れ」を伴う濃霧が視界を禍々しく白濁させていく。
突然、人影が足を止めた。
陽葵の期待に胸が跳ねる。
しかし、彼が振り返ることはなかった。
彼はそのまま、底なしの淵のような深い闇の先へと、音もなく溶け込むように消えてしまった。
「待って……行かないで……!」
追いすがろうとした陽葵の足が、根を張ったように凍りついた。
彼の消えた先は、もはや道ですらない。
巨大な捕食者の喉奥を思わせる、完全なる虚無。
そこから吹き抜ける風には、幾千もの怨念が啜り泣くような不気味な震動が混じっていた。
一歩でも踏み出せば、二度と生者の世界には戻れない。
生存本能が、網膜の裏側で激しく警報を鳴らしている。
全身が痙攣し、恐怖が思考を侵食していく。
だが、ここで立ち止まることは、彼を二度殺すことと同義だった。
それは、死よりもなお耐えがたい絶望だ。
陽葵は震える指先で、胸元の簪(かんざし)に触れた。
母から譲り受け、悠真が「似合っている」と微笑んでくれた、あの彼岸花の簪。
指先に伝わる微かな熱が、彼女の脊髄に最後の勇気を注入した。
彼女は恐怖を、愛という名の狂信的な意志で強引に捻じ伏せた。
瞳から涙を拭い、陽葵は一歩、また一歩と、彼が消えた暗黒の深淵へと足を踏み出す。
それは自ら奈落へと身を投じる、美しくも無残な決断だった。
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