[Chapter 7: 暗転する世界]

一歩、足を踏み出した。


距離にすれば、わずか数十センチの移動に過ぎない。

だがその瞬間、世界を辛うじて繋ぎ止めていた論理の糸が、一斉に断ち切られた。

物理的な衝撃を伴わない、乾いた音が脳裏で響く。


陽葵の視界は、残酷なまでに歪み始めた。


それは単なる空間の歪みではなかった。


大気は、粘りつくような黒い煤状の物質で飽和している。

酸素を求めて肺が動くたび、灼熱の針を吸い込むような激痛が奔り、細胞の一つ一つが内側から蝕まれていく錯覚を覚えた。


「穢れ」――。

古い文献の記述にのみ存在したその不浄な概念が、今、物理的な質量を伴って顕現している。


この世の理(ことわり)の範疇を完全に逸脱したその力は、彼女の皮膚を、髪を、そして実体のないはずの魂の輪郭までも、冷徹に、執拗になぞるように這い回っていた。



広角レンズを力任せに捻じ曲げたかのように、周囲のブナの巨木が、赤黒い鳥居の柱が、異様に伸長し、あるいは収縮を繰り返す。

三半規管は機能を失い、平衡感覚が消失した。

立っていられなくなり、彼女の膝は湿った地面に崩れ落ちた。


手のひらに触れる土は、先ほどまでの秋の冷たさを完全に剥奪されていた。

よりひどく冷たく、何百年もの間、日光を拒み続けてきた死者の肌のように凍てついている。


「あ……、っ……」


声を出そうとしたが、喉の奥に熱い鉛を流し込まれたかのように喉の奥が硬直し、掠れた吐息が漏れるだけだった。

見上げた空は、穏やかな青を喪失していた。

天辺から、巨大な墨汁の瓶をひっくり返したかのように、濃密な漆黒が侵食していく。

それは単なる夜ではない。

光の粒子そのものが死滅した、絶対的な虚無。色彩を剥奪された影の領域。


キィィィィィィン――。


耳を裂くような、金属をヤスリで削り取る激しい耳鳴りが始まった。

音は次第に、数千、数万の蝉が一度に孵化したかのような不吉な唸りへと変質し、彼女の意識を内側から食い荒らしていく。

あまりの苦痛に両耳を塞いだが、音は頭蓋の芯から直接響いていた。

早鐘を打つ心臓。

脈動のたびに、視界の端が明滅を繰り返す。


(悠真……)


混濁する意識の底で、陽葵は一つの名前を、溺れる者が縋るように呼び続けた。

自分をこの場所へ引き寄せた、あの動画の幻影。

二年前のあの日から、彼女の時間は止まったままだった。


液晶の向こう側で、悠真の瞳は焦点の合わない虚空を彷徨っていた。


激しいノイズに侵食された最期の映像。音声は電子の濁流に呑み込まれ、もはや意味を成さない。

だが、震える唇の微かな戦慄だけが、呪縛のように彼女の網膜に焼き付いていた。

彼は、確かにその場所の名を紡いでいたのだ。


降りしきる雨。鼓膜を抉る、あの忌まわしい急ブレーキの絶叫。

あの日、世界のすべてを圧殺した破滅の音を、彼女は別の真実で上書きしたかった。


それが、生者の体温を拒絶する、底冷えした死の領域への片道切符だとしても。


今、この場所を支配している「生理的な嫌悪感」は、渇望していた再生の予兆か、それとも取り返しのつかない破滅への落とし穴なのか。

記憶の断片が走馬灯のように駆け巡る。

陽だまりの公園。母に手渡された彼岸花の簪。

そして、雨の日に聞いた、逃げ場のないブレーキの悲鳴。


意識が急速に遠のいていく。

闇の深淵へと沈み込んでいく陽葵の鼻腔を、最後に突いたのは二つの強烈な匂いだった。


一つは、深く湿った土の匂い。

掘り返されたばかりの墓穴を連想させる、重苦しく湿り気を帯びた大地の吐息。


そしてもう一つは、それとは対照的な、噎せ返るほどに濃厚で甘美な「花の香り」だ。


鳥居の前に咲き誇っていた、あの赤い彼岸花の香りを何千倍にも凝縮したような芳香。

死を象徴し、再会を約束する花の毒が、肺の隅々まで満たしていく。

意識を手放す寸前、陽葵の指先は、胸元に持っていた簪の冷たい感触に触れた。

それが、現世と自分を繋ぎ止める最後の手がかりであるかのように。


「――待ってて」


最後にそう呟いたのか、あるいは思考の残滓が形を成しただけだったのか。


陽葵の意識は完全に断絶し、その身体は現世の理を捨て去った漆黒の闇の中へと沈んでいった。

彼女が次に目を醒ます場所。

そこは太陽が昇ることを忘れた常夜の村「潮鳴村」であること。

そして、そこが二年前の悲劇よりも残酷で、しかし逃れられない真実が眠る場所であることを、この時の彼女はまだ、知る由もなかった。

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