[Chapter 6: 一輪の彼岸花]

指先に触れた鳥居の感触は、生者の体温を奪い去るほどに冷たく、そして酷く脆かった。

幾年月もの間、湿った風雨に曝され続けてきた朱塗りの木材は、触れたそばから腐朽した組織を剥落させ、陽葵の指先をどす黒い赤色に染めていく。


「……悠真」


縋るような声は、霧に包まれた森の静寂に吸い込まれて消えた。

返ってくるのは、湿り気を帯びた風が木々を揺らす、粘りつくような騒音だけ。

そこには、人知を超えた奇跡も、甘美な異界への扉も存在しなかった。

ただの古びた、地図からも、そして人々の記憶からも抹消された無用な建造物。

二年間、止まったままの時計の針を動かそうと、ここまで這い上がってきた陽葵の膝から、急速に力が抜けていく。


その場に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。

スニーカーの先は泥にまみれ、コートの裾は道中の枝に引き裂かれていた。

――自分は何をしているのか。

死んだはずの人間が不鮮明な動画に映り込んでいた、ただそれだけの理由で、得体の知れない山に踏み入り、朽ち果てた鳥居に祈りを捧げる。

もはや正気の沙汰ではない。

周囲に漂う霧は、彼女の絶望を媒介にして、より一層その濃度を増していった。


視界が涙で歪む。

俯いた陽葵の目に映るのは、自身の痩せた影と、無残に踏み荒らされた腐葉土。

だが、その意識が完全に闇に塗り潰されようとした、その瞬間だった。


網膜の端に、異様なほど鮮明な「色」が突き刺さった。


鳥居の向こう側。本来なら鬱蒼とした下草が死に絶えているはずの場所に、それは一輪、毒々しいほどに凛として咲き誇っていた。


「……彼岸花?」


陽葵は磁石に引き寄せられる鉄屑のように立ち上がり、一歩、また一歩と境界の奥へ足を進めた。


それは、季節外れという言葉では到底説明のつかない、生理的な嫌悪感を抱かせるほど瑞々しく、燃えるような赤をしていた。

周囲の草木が秋の気配に枯れ果て、霧に色彩を奪われている中で、その花だけが自ら発光しているかのような、暴力的なまでの存在感を放っている。


陽葵は震える手で、鞄の中にしまい込んだ簪(かんざし)に触れた。

母から譲り受け、悠真からも「似合っている」と言われた、彼岸花のデザイン。

簪の精巧な意匠と、目の前で揺れる生花。

細く繊細な花弁の曲線から、中心部から不自然に伸びる雌蕊の角度に至るまで、それらは双子のように酷似していた。


ふと、かつて悠真と交わした会話が、冷たい風と共に蘇る。


『陽葵、彼岸花の花言葉って知ってる? 「情熱」とか「悲しい思い出」とか、色々あるけど……。一つ、すごく素敵なのがあるんだ。「再会」っていうんだよ』


あの時、悠真は少し照れくさそうに笑いながら教えてくれた。

死を連想させる不吉な花だが、自分にとっては唯一の希望に思える、と。


――再会。


その言葉が、陽葵の胸の奥で、消えかかっていた火種に油を注いだ。

これは単なる偶然ではない。

この花は、悠真が、死の淵から自分に宛てて放った道標なのだ。


根拠など、どこにもない。

客観的に見れば、異常な環境下で突然変異を起こした植物に過ぎないだろう。

けれど、理性を侵食する確信が彼女を突き動かす。

この花を追いかけていけば、この「異常」の先に踏み込んでいけば、きっとあの穏やかな笑顔に辿り着ける。


「待ってて、悠真……」


陽葵はもはや、鳥居の先に何が待ち受けているかを恐れてはいなかった。

境界線を、踏み越える。


その瞬間、鼓膜を突き刺すような高音が脳内で弾け、空気の密度が劇的に変化した。

湿り気を帯びていた山の空気は一瞬で消失し、代わりに肌を刺すような乾いた冷気と、粘膜を刺激する線香のような、微かで、けれど逃れようのない濃密な死の臭いが鼻腔を突く。


陽葵は覚悟を決めたように、目の前の彼岸花をじっと見つめた。

花は、さらに奥へと続く微かな獣道を指し示すように、風もないのに小さく、手招くように揺れた。


彼女はもう、迷わない。

たとえそこが、生者の足を踏み入れるべきではない「死者」の地であったとしても。

彼女の心は、暗闇の奥に一点だけ灯った、血のように赤い光へと向かって踏み出した。

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