[Chapter 5: 由来不明の鳥居]
足の感覚は、疾うに消失していた。
都会の舗装路しか知らぬスニーカーは、湿った腐葉土と鋭利な岩肌に弄ばれ、無惨にその形を歪めている。
立ち込める空気に混じっているのは、単なる湿気ではない。
粘膜にまとわりつくような、異質な「重み」だ。
酸化した鉄の生臭さと、長年封印されていた蔵の底に澱のように溜まった埃。
それらが混然一体となり、呼吸のたびに肺の奥をじりじりと侵食していく。
風が抜けるたびに、鼓膜の裏側を何かが撫でた。
人の囁きか、あるいは、獣の断末魔か。
意味をなさない不規則な振動が、脳幹に直接響き、本能的な拒絶反応を呼び覚ます。
この地に伝わる「神隠しの山」の伝承は、決して無知な先人たちが作り上げた迷信などではなかった。
ここは、実在する「恐れ」の吹き溜まりなのだ。
物理的な境界を越え、侵入した者の精神を細胞レベルで解かし、内側から変質させていく。
五感のすべてが、本能の限界を告げる警鐘を鳴らし続けていた。
陽葵は、何度目かも分からぬ吐息を、白く凍てつく空気の中へ放り出した。
視界を遮る深い霧は、山の深淵へ進むほどにその密度を増していく。
それはまるであらゆる現世の記憶を塗り潰し、因果を断ち切ろうとする意思の顕現のようだった。
それでも彼女の足を動かし続けていたのは、胸の奥底で燻り続ける、執念に近い「希望」だ。
スマートフォンの画面。
ノイズの走る液晶を何度も指先でなぞった、あの不鮮明な動画。
そこに映り込んでいた、愛しい人の後ろ姿。
――彼が、ここにいる。
その一点の確信だけが、折れそうな膝を支える唯一の楔(くさび)となっていた。
不意に、森の空気が変質した。
それまで鼓膜を叩いていた、風に揺れる梢のざわめきが、ふつりと途絶えたのだ。
静寂。
それは平穏などではなく、何かがそこに「在る」ことを強調するような、重苦しい沈黙だった。
陽葵は顔を上げ、霧の向こうを見据えた。
視界の端に、歪な人工の直線が浮かび上がる。
一歩、また一歩と、鉛のような足取りで藪を掻き分ける。
すると、唐突に視界が開けた。
そこに、それは立っていた。
由来不明の鳥居。
地図にも、登山ガイドにも、地元の言い伝えにさえ記されていない、忘れ去られた境界。
鳥居の朱は、永い年月の風雨に晒されたせいか、あるいは地中の禍々しいものを吸い上げたせいか、どろりと変色している。凝固した血の色だ。
柱には無数の深い亀裂が走り、苔が這い、今にも崩れ落ちそうなほどに老いさらばえている。
しかし、そこから放たれる圧倒的な質量を伴った拒絶感は、周囲の木々を圧し折り、空間そのものを歪めているかのように見えた。
陽葵は息を呑み、鳥居の前に立ち尽くした。
「悠真……」
震える声で、その名を呼んだ。
返事はない。
ただ、吸い込まれそうなほどの沈黙が、彼女の声を冷酷に飲み込んでいく。
陽葵は取り憑かれたように周囲を見渡した。
鳥居の裏側、巨木の陰、霧の向こう側。
どこかに彼が立っているはずだった。
あの動画の中で、寂しげに、けれど確かに現世に踏みとどまっていた、あの背中。
探し求めていた輪郭を求めて、彼女は叫び続けた。
「悠真! 悠真、いるんでしょ!? 私だよ、陽葵だよ!」
幾度も、幾度も。
喉が焼け、肺が冷たい空気で裂けるまで。
だが、森は沈黙を守り続ける。
鳥居の向こう側に、道すら続いてはいなかった。
そこにあるのは、光の届かぬほどに深く、暗い、底知れぬ原生の闇だけだった。
膝から崩れ落ちそうになるのを、陽葵は必死にこらえた。
震える指先が、鞄の中の簪(かんざし)に触れる。
母から譲り受けた、彼岸花を模した古い簪。その花弁の首元に垂れ下がる石が、今の彼女の心と同じように、寒々しく濁っていた。
期待が大きかった分、突きつけられた虚無は鋭利な刃となって彼女の胸を抉った。
やはり、あの動画は幻覚だったのか。
死者が蘇るはずなどないという冷酷で、しかし当たり前な現実が、今更になって彼女を嘲笑いに来たのか。
それとも、彼はもう、私の手が永久に届かない「向こう側」へ堕ちてしまったのか。
「……分かってた……分かっていた、けど」
絶望が、冷たい泥のような重みで足元から這い上がってくる。
数時間に及ぶ行軍の疲労が、精神の崩壊と共に一気に噴き出した。
ふと気づけば、鳥居の影が地面に長く伸び、彼女の足元にまで達していた。
それはまるで、迷い込んだ生者を捕らえようとする、闇の腕のようにも見えた。
陽葵は、目の前の古びた木材を凝視した。
この鳥居は、一体どこへ繋がっているのか。
なぜ、ここに存在しなければならなかったのか。
その答えを知る者は、この静まり返った森には一人もいない。
ただ、異形の鳥居だけが、圧倒的な威容を誇りながら、彼女を拒絶し、あるいは誘うように、そこに佇んでいた。
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