[Chapter 4: 簪と彼岸花]
肺の最奥まで、腐敗した土壌の湿り気と、朽ち葉が放つ鋭い酸味が突き刺さる。
陽葵は、重く濁った吐息を漏らしながら、垂直に近い斜面に爪先を立てた。
道とは名ばかりの、獣の爪痕のような荒れ地。
都会の舗装を想定したスニーカーは、粘つく泥に執拗に絡め取られ、既にその機能を放棄しつつあった。
足首を捻る恐怖と戦うだけで、彼女の精神は薄氷のように削り取られていく。
鞄に詰め込んだ簪(かんざし)の、なめらかな感触を確かめるように右手をやった。
指先に伝わるのは、木製の硬質な滑らかさと、その先端で死者の指先のように揺れる紐飾りの感触だ。
彼岸花を象った、血のように赤く見える禍々しい造形。
母から受け継いだ「お守り」だというそれは、今や陽葵を冥府へと誘う道標のように感じられた。
花弁の首元に垂れ下がる紐飾りの「くすんだ石」が、夕闇の密度が増すにつれ、意思を持つかのように鈍い光を帯び始めていた。
「……綺麗だね。陽葵によく似合っているよ」
耳の奥で、不意に悠真(ゆうま)の声が再生される。
彼はその石の不気味な風合いを「優しい光だ」と評し、陽葵の髪にぎこちない指で差し込んでくれた。
あの時の指の温度、慈しむような眼差し。
それらすべてが、今や呪いのように肌の裏側へこびりついている。
死んだはずの彼が、あのノイズ混じりの動画の中で、確かに生きていた。
その悍(おぞ)ましくも甘美な事実が、彼女の心拍を暴力的に跳ね上げた。
一歩。また、一歩。
足の裏に生じた水膨れが潰れ、生々しい痛みが神経を直撃する。
コートの下では不快な汗が脂のように滲み、呼吸は浅く、喘鳴(ぜんめい)に近い音が喉から漏れる。
それでも、陽葵は足を止めない。
この激痛こそが、自分がまだ彼へと続く糸を辿っているという、唯一の実感だったからだ。
「もし……本当に会えたら」
独り言は、重く立ち込める霧の中に霧散した。
再会した時、自分は何を請えばいいのか。
あの事故を避けられなかった悔恨を吐露すべきか、あるいは二年間、片時も忘れなかったという狂おしい愛を告げるべきか。
答えなど出るはずもない。
ただ、彼の隣にいたあの頃の自分を取り戻したいという、浅ましくも切実な渇望だけが、胸の奥で黒く燻っている。
標高を増すに従い、大気は密度を増し、絶対的な冷気へと変貌していく。
木々の隙間から差し込む光は死に絶え、世界は白濁した霧によって輪郭を失っていった。
霧が変質し始めた。
山中という地理的条件を蹂躙するように、潮騒の轟きが底の方から這い上がってくる。
大気に混じるのは、錆びた鉄と塩辛い水が腐朽したような、不快な臭気だ。
耳元を掠める音は、もはや風と呼べるものではなかった。
それは幾百もの怨念が、出口を求めて細く長く鳴動する「潮鳴り」そのものだった。
肌を刺す大気は、骨まで凍てつくほどに冷え切っている。
にもかかわらず、陽葵の皮膚を撫でる霧の感触は、驚くほど生々しかった。
死者の湿った指先が、粘膜を這いずり回るような、不浄な質感。
その執拗な感触は、一度触れたが最後、呪いのように彼女の肌に張り付き、決して離れようとはしなかった。
現世(うつしよ)の理が少しずつ剥がれ落ち、別の何かが浸食してくる不吉な予感。
だが、その不安を圧殺したのは、網膜に焼き付いたあの「鳥居」の残像だった。
動画の奥、悠真が佇んでいたあの赤黒い境界。
地図から抹消された、世界の終焉のような場所。
そこへ行けば、すべての因果が完結する。
簪の石が、服の隙間から漏れ出すわずかな光を反射し、蛍の死に際のような鈍い瞬きを見せた。
「……あと、少し」
痛覚を遮断し、陽葵は泥濘(でいねい)に足を踏み入れた。
視界の端、霧の向こう側に、不自然なほど直線的な影が屹立する。
それは、不規則に生える木々の歪みに満ちた森の中にあって、明らかな異物。
追い求めていた「入り口」が、今、闇の中から這い出してきた。
喉を焼くような渇きと、心臓を鷲掴みにする絶望的な期待。
陽葵は簪を指が白くなるほど強く握り締め、最後の断崖へとその身を投じた。
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